第186話 ダメンズ製造機

 風呂場からハルトの汚れた服を持って、カリーナが戻ってきた。


「もう戻ってきたの? 早かったのね」

「お体を洗ってさし上げようと思ったのですが、お風呂場から追い出されてしまいました」


 ユージェニーはクスクスと笑った。


「それは残念でしたわね」

「そんなことは……」

「ヒノハルさんも肌のきれいな人でしたけど、ラインハルトさんは輪をかけてきれいよね」


 カリーナの口から大きなため息が漏れた。


「お嬢様、いたいけな少年をどうするつもりですか?」


 ユリアーナはさも心外だという様子をして見せた。


「私はあの子を害するようなことはしませんよ。ただ姉のように、母親のように愛してあげたいだけです。ラインハルトさんの望むことならなんでも叶えてあげるつもりよ」

「た、例えば?」

「そうですわね、身の安全を守るというのは基本よね。それに、欲しいものがあれば何でも買ってあげるわ。行きたいところならどこへでも連れていってあげるつもり。あの子は聡明だから私の持つ知識も伝えてあげたいわ。最高の贅沢だってさせてあげたいし、あの子が求めるのならこの身を捧げても……」

「本気で言っているのですか?」


 そう問われてユリアーナは口ごもった。


「だって、ヒノハルさんの息子よ。私にとっても大事な人だもの……」


 相当に歪んだ愛情ではあるのだが、カリーナにしてもユリアーナの気持ちはよくわかった。

ただ、懸念するところも大きい。


「お嬢様……あの子を連れ去るつもりではないでしょうね」

「そ、そんなこと……」


 カリーナは真剣にユリアーナを見つめた。


「十四年前、私はお嬢様がヒノハル様を連れ去るのをおとめすることができませんでした。しかし、今回は違います。お嬢様がラインハルト様を誘拐するのなら――」

「ちょっと待って! 私はそんなこと一言も言っておりませんよ。私はあの子を王都へ連れていきます。それこそが私の責務であり、愛だと信じているからです。ただ……」

「ただ、何でしょうか?」

「旅の間はベッタベタに甘やかしてあげたいのです!」

「お嬢様……」

「カ、カリーナだってそうでしょう! わかっているのですよ。本当はあの子の面倒を一から十まで全部見てあげたいと思っているくせに!」

「それは……」


 嘘というものをつけないカリーナは、否定することもできずに身もだえるのだった。



 ゴルフスドルフを出立したあの晩、ハルトの決意は悲愴だった。

万難を排し、艱難辛苦かんなんしんくに耐え、貴族としてユージェニーの騎士として立派に振舞おうと考えていた。

その思いは今も変わらない。

見知らぬ土地で不安を感じながら、たとえ一人でも王都へたどり着いてみせるという覚悟があった。


 ところが、実際のところハルトはこの後、思いもよらない旅をする。

ユリアーナが用意した豪華クルーズ船にのり、四人の美女にちやほやされながら王都へ向かうことになるのだ。

ダメンズ製造機のようにハルトを甘やかすユリアーナが相手ではあったが、母クララから受け継いだ生真面目な気質がハルトを堕落から救っていた。

普通の男なら王都の学園生活など放り出して、ユリアーナと共に漂泊の旅に出ていただろう。


   ♢


 山形新幹線つばさ144号は東京駅のホームへと到着した。

平日にも関わらず下車する乗客は多かったが、その中に一人、やけに目立つ女がいた。

日野春公太の実家へ挨拶をして戻ってきたクララ・アンスバッハだ。

横には緊張しているクララを労わる、公太の姿もある。


「新幹線に酔ってしまった?」

「そんなことはないです。すごく楽しかったわ」


 腕に添えられた公太の手から、スキル|神の指先(ゴッドフィンガー)の力を感じて、クララは夫の手に自分の手のひらを重ねた。


 クララは地球に来てから興奮のし通しなのだ。

事前に映像等で知っていたからよかったが、もしも何も知らないまま日本へ来ていたら、仰天して大変なことになっていただろう。


「ここからはタクシーを拾って帰ろう。家に帰る前にどこかで休んでいく?」

「少し街を歩いてみたいの」


 クララにとってはもう二度と来られないかもしれない場所なのだ、夫の故郷を少しでもたくさん知っておきたかった。

知識や記憶を共有できることの喜びと大切さを、クララはよく理解していた。


「じゃあ、散歩をしながら帰ろうか」


 荷物は空間収納に入れてあるので二人は身軽だ。


「日比谷公園へ向かって歩いてみましょう」


 公太のマンションは港区にあるので、方向として間違っていない。

ただ、異世界人のクララが東京駅周辺の地図を頭に入れてあることがおかしくて公太は笑った。

しかも、クララはやけに流暢な日本語を使っている。


「改めて、クララ様の完璧さを見せつけられたな」

「だって、もしもこんな場所で迷子になったらどうするの?」


 ホーム、改札、通路、どこにでも人が溢れていたし、縦横無尽に伸びる地下通路はダンジョンのように入り組んでいる。

クララは初めてのダンジョンに挑む冒険者の慎重さをもって東京駅に臨んでいた。


「それじゃあ行こうか」

「ちょっと待って」


 クララはチラリとトイレの標識に目をやる。

わずかな期間で随分と地球に順応したものだ。


「先に済ませておきたいの」

「了解。ここで待っているね」


 公太は、背筋をピンと伸ばしてトイレへと歩いていく妻の後姿を見送った。

今日のクララはかたくなり過ぎないフォーマルなワンピースを着ていた。

今回のために地球でオーダーしたものだけど、濃紺で白い縁取りのあるワンピースがよく似合っている。

彼女を異世界人だと見破れる者はどこにもいないだろう。

ただ、夫の贔屓目ひいきめかもしれないが、やっぱりクララには特別な輝きというものを公太は感じていた。

日々の生活の中で驚かされる妻の美しさや、細やかな愛情などを未だに新鮮に感じるのはそのせいかもしれない。

二人が知り合って十五年という歳月が経った。

それは濃密な時間ではあったのだが、随分とあっさり過ぎたような気もする。


(あっというまの十五年か……)


 混雑する駅の片隅にあって、公太はぼんやりと記憶と戯れた。


「日野春さん?」


 突然に自分の名前を呼ばれ、公太は目の前にいる女性に注視した。

高級そうなスーツに身を固め、書類カバンを下げている。

やや、困惑気味の表情をしていたが、その人は遠慮がちに自分に声をかけてきていた。


「……え、新府さん」


 元妻の旧姓を思い出すのに数秒の時間を要していた。

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