第167話 もう一人の聖女
クララの乗ったカティ・ポラリス号は最新鋭の帆船だった。
四本のマストを備え、船体も従来のものよりかなり大きく、地球で言えばガレオン船と呼ばれる帆船に近い。
クララと吉岡はそれぞれ一等船室と呼ばれる個室を買った。
一等とはいえ室内はかなり狭い。
幅は400㎝、奥行きも500㎝しかない。
家具はシングルベッドに洋服掛け、小さなテーブルと椅子があるだけだ。
当然のごとく風呂などはついていない。
氷冷魔法が得意なクララは亜熱帯地域に入っても汗一つ掻いていなかったが、それでも日々の不自由は感じる。
もっとも他の船室に比べれば清潔で破格の待遇ではあったのだが。
テーブルの上には書きかけの日記と文字の練習帳、それからカラフルな挿絵のついた日本製の童話が数冊積まれていた。
日本語を学びたいと言ったクララのためにコウタが地球で買い求めてきたものだ。
「最初はこれらの簡単な物語を読んで勉強していきましょう。もう少しレベルが上がったら異世界モノのラノベでも買ってきましょうかね」
コウタはそう言って笑ったが、約束は果たされないままになっている。
クララは暇を見つけてはページが擦り切れるほど繰り返し読んできたので、目の前にある本ならどれも、すらすらと声に出して読めるほど上達していた。
クララは生真面目で一途な女だった。
日本語を学ぼうとしたのは公太のことをより深く理解したかったからだ。
日本の言葉、文化や歴史を学んでいけば、将来の夫の気持ちに寄り添えるはずだと考えたからに他ならない。
それに今は叶わなくとも、いつかは地球に行ける日が来ないとも限らないとクララは考える。
それならばコウタの両親にもきちんと挨拶して、良い関係を築きたかった。
正午が近づき、クララは読みかけの「フランダースの犬」を閉じた。
何度も読み返しているのだが、ラストシーンでは必ず涙がこぼれてしまう。
そろそろ昼食の時刻になるのだが、目を真っ赤に腫らせて食堂へ行くことは避けたかった。
ついつい悲しい物語を読んでしまうのは、自分の気持ちが沈んでいるせいだろうか。
もう少し気分が落ち着く物語を読むべきなのだろうとクララは反省した。
クララとしては犬が出てくる童話が好きなのだが、「フランダースの犬」にしろ「はなさかじいさん」にせよ、どちらも最後は犬が死んでしまう悲しいお話だ。
童話だとわかっていても犬が出てくると、ついそれを公太に重ねてしまい、さらに沈んだ気持ちになってしまうのだ。
(少し外の空気を吸おう)
クララは気分を変えるために甲板に出ることにした。
刺すような日差しにクララは一瞬だけ目眩を覚えた。
頬に当たる風が少しだけ自分の憂鬱を軽くしてくれる気がする。
調理場から洩れてくる料理の匂いがそろそろ昼時であることを教えてくれた。
食欲などないのだがクララは元軍人であり合理的な考えもできる人間だ。
食べられる時に食べておかなければ、いざという時に動けないという考え方を幼いころから叩き込まれてもいた。
だから、たとえ食欲がなくても時間になれば黙々と食べ物を腹に詰め込む。
一等船室の客の食事はそれなりに豪華でシェフの腕もよかったが、楽しむ気にはなれない。
自分の横にコウタがいてくれさえすれば薄い麦粥だって喜びをもって口にすることができるだろうに。
ぼんやりしたクララの耳に、人々のざわめきが聞こえてきた。
「日陰に連れていくんだ!」
「水だ。水を汲み上げろ!」
何事かと様子を見に行くと獣人の一人が甲板の日陰で倒れていた。
「何があったのだ?」
クララは近くにいた船員を捕まえて話を聞いた。
人族の船員は大した興味もなさそうな顔で獣人たちの方を眺めた。
「新入りの獣人が倒れたんですよ。暑さにやられたのでしょうね」
倒れている獣人は熱中症の症状をみせていた。
顔を真っ赤にして大量の汗をかいている。
この船には船医もいるのだが姿を見せることはない。
獣人たちは消耗品扱いなのだ。
仲間の水夫たちが海から海水をくみ上げて何度も患者にかけてやっているだけだった。
回復魔法を使える吉岡がいれば話は簡単だったが、彼は召喚獣として王都に召喚されている最中だった。
「シャツを脱がせてやれ。それから水を飲ませるのだ。誰か塩を持ってきてくれ!」
クララはコウタたちが扮するヒポクラ兄弟によって救急救命の講座を受講している。
しかも成績はトップクラスだった。
講座では熱中症患者に対する対応も教えられていた。
幸いなことに患者の意識はあるようだ。
クララは冷静に教えられたことを思い出す。
熱によって失われた水分と塩分を補給してやること。
衣服を脱がせ体の熱を逃がしやすくすること。
風通しの良い部屋、もしくは冷房の利いた部屋で休ませてやること。
以上の三点を守ることが大事だ。
「患者を私の部屋に運ぶのだ」
躊躇いなくクララは言ったが、獣人たちの方がかえって遠慮してしまう。
「ですが……」
「緊急事態だ。口を動かしている暇があったら手足を動かせ!」
クララの迫力に押される形で3人の獣人が仲間を担ぎ上げた。
衆人が唖然として見守る中、クララは患者を先導した。
部屋に入ると、クララは自分のベッドに患者を寝かせるように指示した。
それから氷冷魔法で部屋を冷やしていく。
「うお!? 急に涼しくなったぞ!」
「なんだこれは?」
驚く獣人たちにクララは告げる。
「静かにしなさい。患者は眠らせてやった方が回復が早い。貴方たちは革袋とそれから塩を取ってきてちょうだい」
「革袋ですか?」
「ええ。それに氷を詰めて氷嚢(ひょうのう)をつくるの」
南国育ちの獣人たちは氷嚢などというものはよくわからなかったが、目の前の女貴族には逆らえない雰囲気だった。
「す、すぐに!」
気性の荒いことで有名な豹人族の男が慌てて部屋を出ていった。
その姿はまるで飼い猫のようだ。
「め、面目ねぇ……」
ベッドに寝かされた狐人族の男が弱々しく謝ってくる。
「大丈夫、少し眠りなさい。すぐに良くなるはずです」
慈しむような眼差しでクララが答える。
獣人たちにとってその姿は神々しい聖女そのものだった。
数年後、獣人船乗りの間に一つの信仰が定着する。
俗にいう「西海洋の聖女」信仰だ。
銀の髪を持つ乙女の絵札を小さな革袋に入れたお守りが大流行するのだ。
お守りは航海の安全と健康にご利益があるとされ、特に熱中症には強い効果を発揮するとされた。
後世の歴史家は諸説を論じていたが、聖女伝説の起源は分からないままである。
ドアのノックに続いて吉岡秋人の元気な声が響いた。
「クララ様、吉岡です。ただ今戻りました」
「す、少し待ってくれ」
クララは慌てて「フランダースの犬」を閉じて涙を拭いた。
「どうかされましたか?」
クララの様子を訝しんだ吉岡が訊ねてきたが「今、ネロとパトラッシュが……」とは言えなかった。
氷冷魔法で冷やしてみたが目の腫れが取れたかは疑わしい。
いつまでも吉岡を待たせるわけにもいかず、鏡の前で毅然とした表情を取り繕ってからクララは扉を開けた。
「おかえりアキト。ご苦労だったな」
「ダンジョン探索の方は第二階層へと到達しましたよ」
部屋に吉岡を招き入れて報告を聞いた。
「リアに一度地球に送還してもらったので色々とお土産を買ってきました」
「いつも気を遣わせてしまってすまない」
「構いませんよ。これはクララ様のお好きなチョコレートとワイン。それから新しい本も買ってきました」
吉岡は一冊の童話を手渡してくる。
表紙には少年と毛の長い種類の犬の絵が描かれていた。
絵の上には赤く太いゴシック体でタイトルが書かれている。
「名犬ラッシー?」
「はい。飼い主と別れ別れになってしまった犬が、万難を排して主人である少年のもとへ帰りつくというお話です」
それは素敵な物語だとクララは思った。
だが、よく考えてみるとまた涙が止まらなくなりそうで怖くもある。
これは皆が寝静まった夜中に読むしかあるまい。
「ありがとうアキト。寝る前にでも読むことにするよ」
「楽しんでいただければ私も買ってきた甲斐があるというものです。それから、こちらもどうぞ」
いたずらっぽく微笑みながら吉岡はもう一つのお土産を渡した。
それはタオル地のハンカチだった。
吸水性もよさそうだ。
「いたれりつくせりだな……」
「先輩が不在の間は私になんでもお言いつけください」
実は涙もろい女主人に対して、吉岡は丁寧に頭を下げてみせた。
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