第162話 密航生活
ラクさんのように格安で乗っている渡航者は10畳ほどのスペースに7人が詰め込まれていた。
俺はここの人たちを買収して部屋に入れてもらうことに成功する。
前金として一人につき7万レウン、キュバールに着いたらもう7万レウン支払うことで話はついた。
彼らとしては俺たちを船長に突き出したところで1レウンの得にもならない。
それならば部屋は少々狭くなるが受け入れて、高い渡航費を少しでも取り戻すことに躊躇いはなかった。
密航者が狭い空間の中でできることは少ない。
限られた居住スペースで少しでも快適に過ごしたいと思うのは俺だけではないだろう。
俺がとりあえずやったことは生活環境の改善だった。
船の中はネズミや害虫が多すぎるのだ!
このままでは健康を害してしまうぞ。
俺には
健康には気をつけなくてはならない。
ここで一番の敵はなんといっても蚊だった。
地球においても、人間を一番たくさん殺す生物は蚊だそうだ。
年間約二億人が感染して、42万人がマラリアなどで死ぬというニュースがあった気がする。
初日の夜は暑さを我慢して室内にテントを張ったほどだ。
テントには防虫ネットがついているので中に入りこまれることはない。
俺のテントはダブルウォールといって内部は通気性のいい素材、外部は防風防滴に優れた二重構造だ。
外張りを外して
エマさんも虫が苦手らしくて、一緒にテントで寝ることになった。
俺としては非常に緊張する夜を過ごしたよ。
あまりの暑さに謹厳クソ真面目なエマさんが上はシャツ一枚で寝ていたんだよね。
それでも汗は大量にかく。
この世界にはブラジャーは存在しない。
そのうえ俺は夜目が利く。
まあ、そういうことだ……。
寝苦しい夜だった。
翌日はパラライズボールを乱射してネズミや虫を気絶させては木の枝で集めてラクさんたちに海に捨ててきてもらった。
およそ半日がかりでかなりの数をせん滅できたと思う。
「エマさん、新しい技を試します。避難してください!」
麻痺魔法の出力を下げて拡散ビームのように空中に放つと、大量の蚊やハエが床に落ちた。
「今です! 止めを!」
「はい!」
これで、少しは過ごしやすくなっただろう。
日の沈むころにはカサカサやゴソゴソ、プーンという音は聞こえなくなったので今夜は安眠できそうだ。
海の上なので新しい蚊が飛んで来ることもない。
「お疲れさまでした。拭き掃除に入る前に少し休憩しましょう」
同室の人たちに冷たいコーラをコップに注いであげた。
空間収納の中には、なぜか炭酸の甘い飲み物がたくさんある。
俺は清涼飲料水がそんなに好きだったのか?
しかもラベルを見ると英語表記のものばかりだ。
アメリカにでもいたのかな?
チェリーコークなんて日本で売っているのか?
ルートビアねぇ……。
クセのある風味で、好きな人は病みつきになるらしい。
こうしてみると今まで恵まれすぎていたのがよくわかる。
それが顕著に表れるのが食事だ。
ラクさんたちが食べているのは焼きしめた硬いパンに、硬くなったチーズ、薄い豆のスープなど。
これでも港を出たばかりでまだマシな方らしい。
航海が進めばパンはより硬く、チーズに蛆がわくこともあるという……。
防腐剤が塩しかないんだから仕方がないよな。
新鮮な卵や肉を確保するために船内では家畜も飼われているんだけど、食べられるのは船長や航海士などの上級船員だけだった。
ユリアーナを擁護するわけじゃないけど、あいつの船では皆もっといいものを食べていたと思う。
下級船員だってワインやビスケットの配給があったし、肉や魚、野菜の量も多かった。
そういうところでは平等で誰に対しても気前が良かったと思う。
一番困ったのはトイレだ。
一般に船のトイレは
船嘴というのは船首のところにある踊り場のことだ。
ここから神話や動物などをモチーフにした船首像が伸びているのだが、この両脇にトイレはついている。
甲板からは死角になっているのでちょうどいいのだろう。
大多数の船員はここで用を足すのだが、俺たちが日中ここを使うわけにはいかない。
夜になれば夜陰に乗じて、乗客のふりをして使用できるのだが、昼間はそうもいかなかった。
ユリアーナの船にいた時はオマルを使っていたが、ここでもそうせざるを得なかった。
なるべく昼間は我慢するのだが、どうしてもしたいときはテントの中でして、明り取りの窓から外へ捨てるしかなかった。
初めてテントの中でトイレをしたエマさんはかなり落ち込んでいた。
本当は部屋の外に出ていてあげたかったけど、誰に見つかるかわかったもんじゃない。
明るいうちは皆、甲板の日陰で休んでいるので、部屋には俺たちしかいないことが救いだった。
目を閉じ、耳を塞いで壁を向いていたのだが、エマさんに軽く肩をたたかれた。
「あの……終わりましたので……」
「あ、はい……」
「そこまで、気を遣っていただかなくても大丈夫です。私は騎士見習いで軍人でもあります。戦場ならばもっと酷いことも体験することがありますので……」
そんなものなのか。
この世界の女性は俺が考えているよりも強いのかな?
でもやっぱりお互い気恥ずかしさは残り、しばらく無言の時間が続いた。
いいことを思いついた。
空間収納の中に印刷された聖典があったのだが、これをエマさんにあげることにしよう。
エマさんはノルド教の熱心な信者らしくて、よくお祈りをしている姿を見かける。
船旅は退屈だろうしちょうどいいだろう。
予想通りエマさんはたいそう喜んでくれてさっそく読み耽っていた。
これで気詰まりな状況も少しは改善されたな。
この狭い船室もだいぶ過ごしやすくなってきた。
俺は自分のエアマットにごろりと横になる。
他にやることも思いつかなかったのだ。
目を閉じて耳を澄ますと波の音が聞こえてくる。
ここの空と海は青く眩し過ぎる気がした。
自分の持つ海のイメージはもっと暗く荒々しい感じだ……。
これはどこの海なのだろう?
手繰り寄せても、手応えのない記憶の糸をもどかしく思いながらも、俺は眠りに落ちていった。
ユリアーナ・ツェベライはイライラと落ち着かない態度で、ティーカップを持ち上げるのだが、口をつけずにソーサーへ戻した。
日野春公太が忽然と姿を消してから半日以上が過ぎている。
今朝、お付きメイドのカリーナが様子を見に行ったときには、既にコウタのベッドはもぬけの殻だった。 船内をくまなく探させたが日野春の姿はどこにもなく、見つかったのは下半身を裸にされたままロープでぐるぐる巻きにされたホイベルガーだけだった。
「ホイベルガー、何があったというの?」
「面目次第もございません。ヒノハル様にやられました」
平身低頭で膝をつくホイベルガーをユリアーナは冷たく見下ろした。
「どういうこと?」
「はっ……。昨晩はお言いつけ通りエマ・ペーテルゼンに罰を与えておりました。すると後ろから突然衝撃を感じ、そのまま意識を失ってしまったのです」
「どうしてそれがヒノハル様の仕業だと」
「ヒノハル様の魔法を受けるのは初めてではありませんので……」
苦い経験がホイベルガーの脳裏によぎる。
「コウタさんはエマと共に身を隠しているということですか。船内を端から捜索しなさい。コウタさんは壁にとりつくこともできるから船の側面も忘れずに見るのですよ」
ユリアーナは公太がドレイスデンの城壁を登っていた日のことを思い出した。
あの夜の邂逅でユリアーナは恋に落ちたのだ。
当初ユリアーナは時間をかけることもなく公太とエマは見つかると考えていた。
ところがバムータの港が近づく頃になっても二人を見つけることはできないでいた。
「一体どこへ行ったというのですか!?」
ユリアーナの怒りにラーラは首をすくめる。
「船内はくまなく探しました。船底のビルジの中まで確認しております」
ビルジとは船底にある内竜骨の両脇にある溝で、染み込んだ海水や雨水が溜まるところだ。
この汚水は定期的に汲みださなければならないのだが、とてつもない匂いがする。
「ではどこに行ったというのですか?」
ここは海上なのでユリアーナの疑問ももっともだった。
まさか公太が海の上を歩けるとは思いもつかない。
「あるいは海に落ちて……」
ラーラの頬をユリアーナは手の甲ではたいた。
「馬鹿なことを言わないで……。そんなことはあるはずがない!」
ブルブルと震えるユリアーナをカリーナが優しくとりなす。
「ヒノハル様は特別な方です。私たちが知らない方法で移動されたのかもしれません。もしかしたら、ものすごく泳ぎが上手なのかもしれないではないですか」
それはどうなのだ? とラーラもホイベルガーも思ったが口には出さなかった。
しかし、カリーナの意見はあながち間違っていない。
公太の隠されたスキルには「水泳」もあるのだ。
しかし、このスキルは復活していないし、公太自身も存在を忘れていたスキルだ。
真冬に取得していたのだから仕方がない。
だけど、水の中を自由に泳ぎ回れるだけでなく、水深100メートルくらいまでの潜水が可能で、約10分間は息継ぎなしで泳げるなど、なかなか使えるスキルなのだ。
公太がこのスキルを思い出す日も近い……かもしれない。
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