第157話 月下の逃走

 俺は遥か向こうの海上を指さした。


「なんとかあの船まで泳げませんかね?」

「あれに乗って脱出されますか?」


もうそれしかない気がする。

全てを信じたわけじゃないけど、この船からは離れて自力で真実にたどり着くしかないと考えたのだ。


「そのつもりです。ただ、泳ぐなりボートなりであの船の近くまで行けるかどうか疑問ですし、どうやって乗り移ったらいいのかも分かりませんが」


 ボートだって船が止まらなきゃ降ろすことはできない。

他の方法といえば板切れなどをビート板のように使うくらいしか思いつかないよ。

それにしたってあそこまで泳げるのか? 

いくら満月の晩でも夜の海に入るのはかなり勇気のいることだった。


「ヒノハル様なら大丈夫です」


 やけに自信をもってエマさんが言う。


「なんでですか?」

「ヒノハル様はセラフェイム様の恩寵を授けられているのです。私が知るお力は四つだけですが、他にも様々な奇跡を起こされたと伺っています」

「どんな力ですか?」

「一つ目はエステと呼ばれるお力です。人の肌を綺麗にしたりプロポーションなどを整えたり……私の母も見違えるほどに若々しくしていただいたことがございます」


 それはきっと神の指先ゴッドフィンガーというやつだな。

あれは治癒魔法系のスキルだから、そういう応用もあるのだろう。


「他には?」

「棒術がお得意でした。魔力を具現化して棒をお作りになることもありました」


 ほうほう、そんな技がねぇ……。

いいじゃないか!


「ですが、今一番役に立ちそうなお力は壁にへばりつく力と水の上を歩くお力ではないでしょうか?」


 壁にへばりつく?


「なんか虫みたいですね……」

「ヒノハル様は『ヤモリの手』と呼んでおられました」


 その名前なら想像がつくな。


スキル『ヤモリの手』復活


 魔力を体表面でヤモリの繊毛みたいにするんだな。

これならできそうだ。


「それから、水の上を歩く能力ですか?」

「はい。私は直接見たことはないのですが、私たちの共通の知人にビアンカさんという方がいます。その方が天使の奇跡を見たと打ち明けて下さいました」


 なんかすごい話になっているけど、本当にそんな能力があるのなら海の上を歩いてあの船まで行けるじゃないか!


 ヘリのところにつかまって「ヤモリの手」を発動すると俺の手足はぺったりと船の側面にくっついた。

これなら問題なく海上まで降りられそうだ。


「さあエマさん、俺の背中に乗ってください」

「し、しかし」

「こうしている間にも誰かに見つかる恐れがあります。早くしてください」


 少し強めに言うと、エマさんは遠慮がちに俺の背中に乗ってきた。

年頃の女の子がオッサンにおんぶされるんだから恥ずかしいのは分かるけど、状況が状況だから許してほしい。


 「ヤモリの手」は二人分の体重をかけてもびくともせず、スルスルと下降することができた。


スキル「水上歩行」復活


海面は揺れていたが恐る恐る足をつけてみると本当に水の上に立つことができた。

エマさんも手を繋いだまま背中から降りてもらったが沈むことなく波の上に立っている。

腰の引けた状態で手を繋いている俺たちのすぐ横をユリアーナさんたちを乗せた船がゆっくりと通り過ぎていった。

これでもう後戻りはできない。


 目的の貿易船とはかなりの距離があったが、こちらの方へ向かってきているのでたくさん歩く必要はなさそうだ。

まずは予想できる船の進行ラインに最短距離で近づき、そこで船を待つ方がよいだろう。

もしもあの船に乗れなかったら次の船はいつ通るかわからない。

食料は何も持ち出せなかったのだ。


「いきましょう、エマさん」


 俺たちは呼吸を合わせて、手を繋いだまま海の上を駆け出した。

 走りながら軽く打ち合わせをしておく。


「あの船に乗るのは決定事項だけど、どういうふうにしようか? 密航するべきか、それとも保護を求めるべきか」


 密航は大変そうだけど、いきなり行っても乗せてくれない恐れもあるよね。


「我々はザクセンス貴族です。正直に名乗れば悪いようにはならないと思います」


 なるほど。

実感はないけど俺は貴族だったな。

だったら素直に保護を求めてみるか。


 風は強くなく船のスピードもそれほど出ていなかったため、ヤモリの手で取りつくのは簡単だった。

時速10㎞もでていなかったと思う。

船の側面をエマさんをおんぶしたまま、いともたやすく登り切れてしまった。


「こんばんは~」


 我ながら間抜けな挨拶だと思うけど、無断で侵入はよくないよね。

だけど声をかけられた船員の方はかなり焦っていた。

それはそうだ。周囲に船影は一つもないのに、突然舷側から人が現れたら誰だってびっくりする。

ましてや夜の海なら余計に恐怖を感じてしまうだろう。


「だ、誰だお前たちは‼」


 船員は裏返った声で叫び声をあげていたが、その言葉はザクセンス語だった。

これはちょうどいい。


「我々は漂流者だ。私はザクセンス騎士見習いのエマ・ペーテルゼン。こちらは同じくザクセンスの騎士爵コウタ・ヒノハル殿だ。船長に面会を願いたい」


 エマさんの言葉に船員もとっさの判断ができかねていた。


「夜分に突然お邪魔して申し訳ありません。ただ我々も困っていまして、できれば保護をお願いしたいんですけど」


 落ち着いてもらえるように、ゆっくりとお願いしてみる。

そのおかげか船員は船長を呼びに行ってくれた。

でもこれじゃあ貴族っぽくなかったかな? 

貴族であることを信用してもらうには、もっと尊大に振舞った方がよかったかもしれない。

記憶の有る無しに関わらず庶民感覚というものは抜けないようだ。


「今のは貴族らしくない態度だった?」


 エマさんに聞いてみた。


「まあ……。ですが、ヒノハル様らしい態度でした」


 そう言ってエマさんは微かに笑った。

そうか……これが俺にとっての自然なんだな。

航海を始めてから何日も経つが、エマさんの笑顔をみるのは初めてだった。


 船長室に連れて行かれた俺たちは、真実をぼかしながら事情を説明した。

この船はザクセンス国籍の船でなんと王室が所有する船でもあった。

同国人のよしみで何とか助けてもらうようにお願いしよう。


 俺が貴族であることを証明するのは比較的簡単だった。

貴族の当主は必ず魔法が使えるので、魔法を見せればそれが証になる。

手の上にパラライズボールを作り出すだけで船長は俺が騎士爵であることを信じてくれた。


「ヒノハル様が貴族籍にあることは疑いようがありませんので敬意を払った待遇をお約束いたしましょう。ただ、本当にザクセンスの貴族であるかどうかは判明いたしません。今はいろいろと問題もある時期なので……」


 二人とも旅券を持っていないので、船長が完全にこちらを信用しないのは仕方のないことだ。

ザクセンスは東のポルタンド王国とは三年間の休戦協定が結ばれたばかりだし、西のオストレア公国ともきな臭いことになっているそうだ。

あちらこちらにスパイなどうようよいるという話でもある。

船長が慎重な態度をとるのは当然だった。


「我々は外国のスパイなどではありません! 私は先日までローマン方面補給部隊の副官をしておりました」


 抗議するエマさんを船長は軽く手で制した。

片方は義手のようで黒光りする木でできていた。


「まあ、聞いてください。これがザクセンスに入る船ならしかるべき関係部署に対処してもらうところですが、この船は西大陸に向かっています。というわけでどう対応してよいのか私も困っているのですよ」


 厄介なことに巻き込んでしまって申し訳ない。


「ですから、ヒノハル様はザクセンス貴族であると私は信じます。ですが、船の進路は変えられませんし、船内を自由に歩き回るなどもお控え願います。これだけはお守りください」


 そう言われてしまえば俺たちに選択肢はない。

承知するしかないだろう。


「それでですな……」


 船長はもじもじと言い淀んだ。


「なんでしょう?」

「お二人をお乗せするとなると、お部屋も用意しなければなりませんし、食費もかさみますので……」


 船賃を寄こせということなのね。


「い、今はこれしか持ち合わせがない」


 エマさんがおずおずと自分の財布を差し出した。

船長は中を確認してため息をつく。


「4万レウンですか……。ザクセンスから西大陸までは最低ランクの扱いでも30万レウンはかかるんですけどねぇ……」

「もちろん船賃はあとできちんと払う。ザクセンスのペーテルゼン子爵家に請求してもらって構わない! 私がすぐにでも一筆書くゆえ……」


 エマさんばかりに任せておくわけにはいかないな。


「あの! よかったらその右手を再生します! 俺、治癒魔法が使えるんで!」

 俺の言葉に船長は呆れ顔だ。


「はあ!? 欠損部位を再生する治癒魔法など聖人レベルの秘術ではないですか!」

「大丈夫です! たぶんそういうの得意なんで!」


 やった記憶はないが神の指先ならいけそうな気がした。

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