第154話 懺悔
助けた熊人族に何度も礼を言われていたら、ホイベルガーが一人で戻ってきた。
治癒士は連れていない。
随分と慌てた様子でユリアーナさんに何かを耳打ちしていた。
ユリアーナさんは普段通りの顔をしていたから大した用事でもなかったのかな?
「ヒノハル様、このような恰好では食事というわけにもいきません。急いで船にもどりませんか?」
治療の時に付いた血は、直射日光を浴びてパリパリに乾きつつあった。
着替えるだけじゃなくてお風呂だって必要だろう。
お腹は空いていたけど、これじゃあ店や他の客の迷惑になってしまう。
俺たちは獣人たちの見送りを受けながら来た道を船へと引き返した。
「ラーラは私の湯あみを手伝ってね。カリーナはヒノハル様のお手伝いを」
「お風呂くらい一人で入れますよ!」
入浴介助なんていりません!
「あら、ラーラの方がお好みでしたか?」
「そういう意味ではなくてですね」
「冗談ですわ」
ユリアーナさんは機嫌よさそうに笑っているけど、いつもより歩調が速い。
急いでいるところをみると、早いところ体に着いた血を流したいのだろう。
そういえば、船にいたユリアーナさんのお付きの人たちは全員一緒に出てきていたのだが、ただ一人エマさんだけは来ていなかったな……。
やっぱり俺はエマさんに嫌われているのだろうか?
「ユリアーナさん、エマさんはどうしているのでしょうか?」
「エマは気分がすぐれないとかで船に残るといっていましたよ」
本当にそうなのだろうか? 今日こそはちゃんと聞いておくべきだろう。
「私は過去にエマさんに何かをしたのでしょうか?」
「どうしてそんなことを?」
「どうも私はエマさんに嫌われているようでして……」
ユリアーナさんはスピードを緩めずに船へと歩き続けた。
「気のせいですわ。あれは男性全般が苦手なのです。コウタさんを特別に嫌っているということなどございませんわ」
それは……そうなのかな?
だったらいいけど、ちょっと怯えた感じで俺を見るんだよね。
過去の俺はいざ知らず、今の俺は絶対にエマさんを傷つけたりしないとわかってもらいたいな……。
日野春公太が部屋に入るのを見届けるとユリアーナはホイベルガーに尋ねた。
「補給はどれくらいできたの?」
「およそ4割ほどです」
「かまいません。すぐに出港します」
「しかし、この状態で出航しては西大陸までギリギリです」
「ならば、お前がクララ・アンスバッハとアキト・ヨシオカを抑えますか?」
「それは……」
「水だけなら他の小さな漁港でも補給が可能でしょう。積み込み作業を中断して直ちに出航させなさい」
「承知いたしました」
わずかな偶然が積み重なり、ユリアーナたちはクララを先に見つけてしまった。
その時、内海の出口の街でクララとコウタの距離はわずか四百メートル。
お互いが目と鼻の距離にいることを二人は知らない。
船に戻ると部屋に大きな
これで血を洗い流すのだ。
乾きかけた血のために、脱ぐとペリペリと音のしそうな服を外して盥に入った。
張られたお湯はぬるかったけど、暑い季節なので気にはならなかった。
これから向かうのは西大陸でも赤道付近の街だそうだ。
きっと今より暑くなるのだろう。
この世界にもトロピカルフルーツなんてあるのかな?
相変わらず船は揺れていたが船酔いもしないで助かっている。
これで酔いやすい体質だったら地獄の日々だっただろう。
……あれ?
風でも出てきたかな?
さっきよりも揺れが大きくなった気がする。
まるで出航しだしたような感じだけど補給はまだ終わっていなかったはずだ。
服を脱ぐ際に窓のところのカーテンを閉めたせいで、動き出した船にも気が付かず、俺はのんびりと体を洗っていた。
コウタが自室にいる頃、ユリアーナも部屋に湯を張った盥を運ばせていた。
「エマ、服を脱ぐのを手伝ってくれないかしら? 血がついて少し脱ぎにくいの」
普段はカリーナにやらせるようなことをあえてユリアーナはエマに頼んだ。
「はい……」
急にユリアーナの部屋に呼ばれたことでエマは極度に緊張していた。
ユリアーナの身につけた衣服を脱がせていくと、染み一つない白い肩が現れエマは思わず赤面した。
愛する人の裸身が目の前にあるのだ。
興奮しない方がおかしい。
すべての服を取り去り、エマの手を借りながらユリアーナは静かに盥の中へ腰かけた。
「汚れを落としてくれる?」
「……はい」
エマの声は喉の渇きにかすれていた。
シルクの布を持って、エマはユリアーナの肌を少しでも傷つけないように優しくゆっくりと洗っていった。
「私、貴女には感謝しているのよ」
ユリアーナはエマに体を預けながら静かに口を開く。
「コウタさんがここに居るのは貴方の功績も大きいと思うの。だからこうして友人として貴方も一緒に連れてきてあげたのよ。でもコウタさんに対する貴女の態度はもう少し何とかならないかしら? コウタさんは貴女が自分を嫌っているのではと気に病んでいらしたわ」
その言葉に絹の布を持ったエマの手は凍り付いたように止まってしまった。
「ユリアーナ様……ですが私は……」
ユリアーナはエマの手を優しく握った。
魅了魔法の力を強めればエマを操ることなどユリアーナには容易いことだった。
しかし敢えてユリアーナはそれをしていない。
自分の犯した罪への恐怖とユリアーナへの愛情に挟まれて、エマがどのような結論を出すかを見てみたい気がしていたのだ。
それに加えて
ユリアーナはエマを優しく引き寄せて唇を重ねる。
「ユリ、んっ……」
驚き、一瞬だけ身を固くしたエマだったが、やがて力は抜け、目を閉じてユリアーナを受け容れた。
ユリアーナは更に深く自らの舌をエマのそれに絡ませた。
聖女の唾液は媚薬のようにエマの脳髄に染み込んでいく。
「……」
わずかに突き出されたままの舌が糸を引きながらゆっくりと離れた。
「エマ、私たちはずっと友達ですよね?」
「はい……ユリアーナ様」
エマの顔は幸福で上気し、瞳は涙で濡れていた。
だが、その喜びが光で満たされることはない。
エマは自分の罪を自覚していた。
満月が明るく夜の海を照らしていた。
どの方角を向いても海、海、海だ。
最後に補給をしたヴィラ島を出発して既に13日は経っている。
船は昼夜を問わず進んでいるのだが、この13日の間に陸地を見たことは一度もない。
航海士の話だと明日か明後日あたりにはバムータ諸島という場所に着くそうだ。
帆船というのは船足が時速7㎞~12㎞くらいしか出ない物らしい。
もっとも嵐にあっていないだけましなのだろう。
今のところ命の危険を感じるほどの災害にはお目にかかってはいなかった。
時刻は22時をまわり起きているのは俺と当直の甲板部員くらいのものだ。
今夜は波も穏やかで月を見ながら物思いに耽るにはいい夜だった。
最近はユリアーナさんと過ごすことが多いので、たまには一人でのんびりとしてみたいと思ったのだ。
先日はどういうわけか急にジブタニア港を出発することになった。
なんでも氷の悪魔の追手が港に現れ緊急を要する事態だったそうだ。
そんなこととも知らずに俺はのんびりと湯浴みをしていたとは……。
いくら心配をかけたくないからといっても一言くらい声をかけてくれてもいいだろうにと思ってしまう。
ユリアーナさんは美人で親切で俺にはとても良くしてくれるけど、何かを隠しているような気がする。
船旅の間に二人の距離はどんどんと縮まっているのだが、その分だけ俺は違和感を覚えていた。
でも、その原因がよくわからない。
キスまでしてユリアーナさんは俺とのもう一段深い関係を求めているんだけど、どうしてか俺は最後の一歩を踏み込めないでいた。
ふと、メインマストの向こうから人の声が聞こえたような気がして行ってみると、誰かが跪いて祈っていた。
月明かりに照らされた横顔はエマさんだ。
エマさんの態度はジブタニア以降はかなり軟化している。
最近では普通に挨拶できるし、ちょっとした雑談なら応じてくれるようになった。
まだ少し緊張しているみたいだけどね。
エマさんは俺には気が付かずに一生懸命祈っている。
かなり信心深くて、手書きの聖典を大事そうに読んでいるのを何度か見たことがあった。
随分と一生懸命祈っているけどどうしたのだろうか?
祈る顔は苦悶に満ちているぞ。
俺はスキル「暗記」で聖典の一部を思い出した。
今のエマさんに役立つ言葉を聖典から探してあげようかな。
そうすれば好感度がアップしてもっとエマさんと仲良くなれると思った。
「こんばんは、エマさん」
「ひっ!」
驚かせてしまったようだ。
「随分と悩まれているようですね」
「ヒノハル様……」
「聖ペセトラはこう言っていますよ。憂いと煩いは神にゆだねなさい。神があなたのことをみてくださいますから」
エマさんはジッと俺の目を見つめてきた。
もっと話してほしいのかな?
だったら頑張っちゃうもんね!
「時をあやまたず、己の心をよく見つめなさい。悪い時代だからです。愚かになることなく自省し、神の御心はなんであるかをよく考えなさい」
聖典からの引用だけど、この話題なら会話も盛り上がるんじゃないか?
そう思って調子をこいたんだけど、俺の思惑は少し外れてしまった。
エマさんは突然俺の足元に身を投げ出したのだ。
「ヒノハル様! 私は罪を犯しました!!」
えーと……。
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