第153話 血で染まりながら
ジブタニアは細く南北に伸びた半島になっていた。
特に目を引くのは「ジブタニアの岩」と呼ばれる一枚岩の石灰岩で、この巨大岩が岬を形作っているのだ。
高さは462メートルもあって東側からは登頂不可能なほど切り立っている。
西側も山頂付近は急峻なのだが、中腹より下は緩やかな傾斜となっており市街地が階段状に連なっているのが船の上からもよく見えた。
港に降り立つとザクセンスとは違う街並みに気分もウキウキとした。
久しぶりに踏みしめる大地のしっかりとした感触も心地よい。
港ではたくさんの港湾労働者が働いていたがユリアーナさんは誰にでも屈託なく挨拶している。
この世界ではほとんど奴隷扱いの獣人の子どもにも優しく、放っておけば一緒に遊びだしかねないほどだった。
「ユリアーナさんは獣人を差別されないのですね」
俺の言葉にユリアーナさんはポカンとした表情だった。
「どうして私が彼らを嫌うのですか? それともコウタさんは獣人がお嫌いなのですか?」
この人は多分本気でそう言っている。
彼女にとって社会的身分や人種というのはどうでもいいことのようだ。
「いえ、ザクセンスでは獣人を差別する人が多かったので、ユリアーナさんがそのような考え方の人でなくて私も嬉しいです」
「くだらない考え方ですわ。世の中にはもっと魂の穢れた人たちがいっぱいおりますのよ」
そう言ってユリアーナさんは暗く笑った。
それは初めて見るような笑い方で、抜けるように青い内海の空には似合わず、血の匂いさえしてくるようだった。
「まるで見てきたように言うのですね」
「ふふ……。さあ、食事にしましょう。久しぶりに揺れないお部屋で食べる料理ですもの。思いっきり楽しみましょうね」
一陣の風が砂ぼこりを舞い上げ、ユリアーナさんの白いスカートを揺らした。
風に飛ばされないように帽子を手で押さえたユリアーナさんをみると、その表情は輝くばかりの笑顔だ。
俺は内海の太陽に目が眩んで幻覚を見ていたのかもしれない。
この人があんな表情をするなんて信じられないことだ。
光が眩しければ眩しいほど、そのコントラストとなる影もより濃くなることをこの時の俺はまだ気が付かないでいた。
ガコッ‼
突然大きな物音がしたと思ったら、後ろの方でどこかの船に積み上げる荷物が崩れていた。
搬入用の滑車が壊れて落ちてしまったようだ。
現場は騒然としている。
ユリアーナさんと俺は同時に走りだしていた。
荷崩れの起きた場所は壊れた滑車や木箱、荷物などが散乱して酷いありさまだった。
埃っぽい空気の中を俺のよく利く鼻が血の匂いを嗅ぎ分けていた。
「誰かが下敷きになっているぞ!」
見れば、崩落した積み荷に獣人が一人巻き込まれてしまっていた。
「ホイベルガー、すぐに治癒士を呼んできなさい!」
「はっ!」
駆け出すホイベルガーを横目で見ながら俺も荷物をどかす作業に加わった。
その場にいた獣人たちと協力して作業に当たったので、荷物はすぐにどかすことができたが巻き込まれた人の容体は酷く、息も絶え絶えだ。
口からは血を吐き、脚をかなり損傷していて、血がどくどくと流れ出ている。
ユリアーナさんは同行していた船医の顔を見たが、彼は力なく首を横に振った。
この世界では治癒士があらゆる怪我や病気を治してしまえるので医学の発達が非常に遅れている。
「なんとかならないのですか?」
「私の力ではなんとも……。ホイベルガー様がどれだけ早く治癒士を連れてきてくださるかにかかっております……」
獣人は熊人族でかなり屈強な体つきをしているのだが、今はもう息も顔に生気がない。
そしてそんな傷ついた男の横には息子らしき少年が泣きながら縋り付いていた。
「とうちゃん! とうちゃん!」
息子の呼びかけに男はわずかに手を上げようとしたが激痛が走ったようでその手もすぐに下ろしてしまう。
もう話すこともできないようだ。
このままでは治癒士が到着するまでもちそうになかった。
何か自分にできることはないのか?
……そうだ!
止血だ。
俺はシャツを脱ぎ袖をはぎ取った。
「コウタさん何を……」
「これで、血が流れ出るのを少しでも食い止めます。血が流れ出ることを止められれば生存率は上がるはずです」
「承知しました」
傷口の上の部分で太ももの付け根の少し下をシャツできつく縛った。
ユリアーナさんも躊躇うことなく俺と一緒に怪我人の傷口を押さえて止血を始めた。
手に生ぬるい血の感触がする。
いつショック死してもおかしくない量なのだが、生への執着が彼を死の淵の寸前で引き留めていた。
彼の霞む視線の先には息子の姿があった。
「大丈夫だ、すぐに治癒士がくる」
俺は男と息子の両方を元気づけるためにそう言ったが、意味が分からなかったようだ。
「なんて言ったの?」
息子の言葉はブリタリア語だった。
そして何故か俺はその言葉が理解できたうえ、話すこともできた。
不思議な感覚ではあったが今はそのことについて考えている余裕はない。
「大丈夫だ、すぐに治癒士がくるからな」
今度はブリタリア語で話してやると少年は小さく頷いた。
だが怪我人の呼吸はだんだんと弱くなっており、目の焦点も定まらなくなってきている。
船医が俺に語りかけてきた。
「ヒノハル様、この怪我人はもうダメです。意識のあるうちに最後の言葉をかけるように少年に言ってやってください」
最後の言葉?
こんな幼い子にそんな残酷な通訳をしなければならないのか……。
そんなことは……。
だが傷口を押さえる俺の手は血で浸したように真っ赤になっている。
なんとか……なんとか止まってくれよ‼
……。
……?
えっ?
なんだこの感覚は!?
わかる……。
どうすれば流れ出る血を止めることができるのか。
どうすれば砕けた骨を元に戻し、断ち切れた肉を再びつなげられるのか。
どうすれば彼に再び立ち上がる力を与えられるのか。
スキル「
「戻ってこい‼」
俺の指先から魔力が迸り、みるみる男の傷が癒えていく。
「グゥゥゥ……」
熊人族の男は不思議そうに俺の顔を見た。
「急に起き上がろうとしないで。まずはゆっくりと上半身を起こしてみよう」
手を貸してやると男は問題なく起き上がることができ、その胸に少年が飛び込んだ。
「とうちゃん!」
もう大丈夫のようだ。
男は太い腕でしっかりと息子の体を受け止めていた。
「コウタさん……」
白い服を真っ赤に染めてユリアーナさんが俺を見つめていた。
「どうやら自分は治癒魔法も使えたようです。あとブリタリア語も……」
「ええ。本当に……素晴らしいです……」
俺を見つめる視線が熱い気がする……。
「ユリアーナさんの服が血だらけに……」
「そんなのどうだっていいですわ!」
そう言って人前なのに突然抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、こんなところで……」
「いいのです。すこしだけ動かないで」
そして、両手で顔を掴まれたと思ったら……思いっきりキスされてしまった。
いきなりのことで頭の中が真っ白になってしまったよ……。
「ず、随分と大胆なことを……」
「それくらい私は感動しているのですよ」
二人とも血だらけになってしまったから着替えに帰らなくてはならないな。
ユリアーナさんに新しい服を買ってあげたいけど、考えてみれば俺は一文無しだ。
情けない話だが治癒魔法が使えるのなら今後は食うには困らなさそうだ。
それに怪我や病気の治療だけじゃなくてマッサージなんかもできそうな気もする。
もしもユリアーナさんと結ばれたとしても生活に困ることはないかもしれない。
俺はそんなことを考えていた。
治癒士を探しに通路を走っていたホイベルガーは前方に見える二人の人物を認めて、即座に建物の陰に身を寄せた。
彼の視線の先にはクララ・アンスバッハと吉岡秋人の姿があったのだ。
二人は何かの書付を見ながら熱心にしゃべっていたのでホイベルガーに気が付くことはなかった。
ホイベルガーにとっては青天の
いずれ追っては来るだろうと考えていたし、追跡をかく乱する方法はいろいろ考えてはあったのだが、それは西大陸にはいってからのものだった。
まさかこんなに早く追いついてくるとは完全に想定外のことだったのだ。
手勢はこちらの方が多いのだが、正面からぶつかればクララ・アンスバッハ一人にさえ敵わないだろう。
ましてや吉岡秋人はダンジョンから溢れ出した魔物の大群をたった一人で殲滅した化け物だ。
戦いにすらならないことは目に見えていた。
ホイベルガーは治癒士を探すことをやめてそっと今来た道を引き返した。
ユリアーナ・ツェベライにこの現状を伝えることの方がずっと大切なことだと判断したのだ。
彼はユリアーナと違って獣人が嫌いだったし、熊人族の男が死んだところで、わずかな心の痛みさえ感じない。
そんなことよりも敬愛する主のためにこの危機を何とか乗り切ることの方がよっぽど大切だったのだ。
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