第133話 パヒューム
開店前のアミダ商会を訪ねる者があった。
呼び鈴の音にビアンカが玄関に行くと、歯抜けの笑顔をみせる情報屋のホルガーが頭を掻きながら立っていた。
今は新聞記事の取材をする仕事もしていて、ビアンカともすっかり顔なじみになっている。
ザクセンス産の活版印刷機はまだ完成していなかったが、日本から持ち込んだ印刷機で試験的にA4判の新聞を数枚刷ってアミダ商会の喫茶室に置き始めたのはつい最近のことだ。
まだ試験的な物なのでアミダ商会の新商品の情報や貴族たちの慶弔情報なんかを載せただけだが、客の評判は上々だ。
ホルガーが情報を集め、ビアンカが記事を書くこともあった。
「朝早くからお邪魔しますよ。ヒノハルの旦那はご在宅ですか?」
「ヒノハル様ならお出かけになっております。お戻りは二日後と聞いていますが。お急ぎの用事ですか?」
ホルガーはちらっと周囲を確認する。
「急ぎってほどのことじゃないんでやすが。昨晩、断罪盗賊団が現れたようでございましてね」
「まあ!」
断罪盗賊団と聞いてビアンカは息を飲んだ。
ターゲットは悪人ばかりとはいえ、金品を盗んだうえに強奪相手は確実に殺害する集団だ。
しかもその手口は凄惨を極めている。
「情報を仕入れてきやしたんでヒノハルの旦那のお耳に入れとこうと思いやしたが、お留守ですか……」
「ヒノハル様はおりませんが男爵と騎士爵はご在宅です。すぐにお取次ぎいたしますから事務所にいらっしてください」
男爵と騎士爵とはクララと吉岡のことに他ならない。
ヒノハルの計らいで事務所への出入りは自由とされているが、ホルガーは少し臆した表情を見せた。
「へへっ。男爵様の前だと緊張しちまって……」
取り繕うように首にまいたスカーフの皺をのばし、シャツの襟もいじる。
そうでもしなければクララに叱られてしまうとでも思っているようだ。
「アンスバッハ男爵はお優しい方ですよ」
「そいつは知っているんですがね、どうにも貴族様の前だと緊張しちまうんで。まあ、ヒノハルの旦那は別なんですけどね」
ビアンカは小さく笑った。
「そのお気持ちはわかりますわ。あの方はとても親しみやすいお人柄ですから」
我が意を得たりとホルガーは手を打つ。
「それなんで! こんなことを言っては失礼かもしれやせんが、まるで人懐っこい犬を見ているような気がするんでやすよ。まあその分、悪い奴に騙されやしないかって心配になっちまうんですがね」
ビアンカは頷いた。
「そうならないためにもホルガーさんみたいに事情に通じた方が支えて下さっていると安心ですわ」
「いやぁ、あっしなんぞは……」
照れるホルガーをビアンカはホールへと招き入れた。
陰惨な事件のあらましを伝えにきたというのにホルガーの心の中は温かった。
四谷のアパートの中で忘れ物がないかを確認した。
この部屋の荷物は極端に少ないので忘れ物のしようもないか。
既に所持金は億を超えているので住居を変えてもいいのだけど、面倒だという気持ちが先に立ってしまう。
どうせここにはほとんど戻ってこないのだ。
しかも無職の俺が高級マンションなんか購入したら国税局に目をつけられそうで心配でもある。
小心者すぎ?
生活の基盤はザクセンスにあるのだ。
贅沢はなるべく向こうですることにしよう。
クララ様と一緒にね。
空間収納に入りきらなかった荷物は鞄に詰め込んだ。
空港で購入したショルダーバッグも思わぬところで活躍している。
今回はゲイリー関係の食料品が多すぎるうえ、銃の類もあるんだよね。
どこに他人の目があるかわかったもんじゃないから、アメリカで空間収納に入れて以来一度も取り出していない。
このままザクセンスまで持っていくつもりだ。
そんなわけで今回は食器類の仕入れは少なめだった。
だけどこれまでに仕入れてこなかった新しい商品を思いついたぞ。
それは香水のビンだ。
香水瓶なら小さいからたくさん持ってこられるとふんだのだ。
仕入単価は1000円くらいから10万円を超えるものまで様々だ。
たまたまニューヨークのアンティークショップで見つけた香水瓶を見てひらめいたんだよね。
ザクセンスでも香水は非常によく用いられている。
花や香木だけでなく魔物からも香水の原料がとれるそうだ。
中でも有名なのはエブロミタという水牛のような魔物の尿結石で、かなりの高値で買い取られるらしい……。
でも、ちょっと抵抗があるよね。
いくらいい匂いでも尿結石というのはどうなんだろう?
香りというのは流行に左右されやすいそうなので地球の香水がドレイスデンで受けるかは判断の難しいところだ。
ただし香水瓶を作る技術は段違いなのできっと人気が出ると思う。
一応は香水も仕入れた。
俺の「犬の鼻」が厳選したザクセンス人にも受けそうな香水だ。
けっこう歴史のあるものが多くなったな。
シャリマーとかミルとかオピウムなんていう商品だ。
シャリマーとかオピウムなんて名前からして妖しい雰囲気を醸し出しているよね。
シャリマーはムガールの皇帝が妃のために作らせた庭園の名前だけど、実は愛の営みのための園だったらしいし、オピウムなんて英語で阿片(アヘン)のことだもんな。
発売されたころは「第二次アヘン戦争」を起こしかねないなんて言われるほど熱狂的なブームを巻き起こしたそうだ。
どちらも官能的な匂いがする。
クララ様がこんなのを下着に染み込ませていたらクラクラしてしまいそうだ。
でもクララ様にはフィジーとかの方が合う気がするな。
つけてくれるかどうかは分からないけどこちらも仕入れておいた。
腕時計のアラームが鳴った丁度5分後に俺は狭間の小部屋に飛んでいた。
クララ様は時間通り召喚してくれたようだ。
セラフェイム様がいたらゲイリーをお母さんに会わせてあげられるかどうか聞いてみようと思ったのだが、どこにもお姿はなかった。
「セラフェイム様ぁ……」
小声で呼んでみるが返事は返ってこない。
今日はこちらからの呼びかけには応じてくれないようだ。
そのうちに機会もやってくるだろう。
気を取り直してスキルカードを引くことにした。
スキル名 計量
手に持った物質の重さを0.001gの単位まで正確に量ることができる。
計れるのは持ち上げられる重さの物だけ。
どこかのデパ地下のお総菜屋さんにこういう人がいたよな……。
近所のお弁当屋さんで量り売りの物を買う時とかも便利そうだ。
あとは……マジックボムの重さを知るのに便利かな。
クララ様には内緒にしておいたほうがいいかも。
二度と抱っこをさせてくれなくなる可能性がある。
クララ様のことを考えていたら居ても立っても居られなくなった。
早くザクセンスに帰ろう。
すぐにドレイスデンダンジョンの探索は始まってしまう。
一緒にいられる時間は限られているのだ。
両手に手提げ袋を持ったまま赤い扉のドアノブに触れると、そこはクララ様の部屋だった。
「お帰りなさいコウタ。今回も沢山の荷物なのね」
他の人には滅多に見せない柔らかな笑顔で俺を迎えてくれるクララ様。
「ただいま帰りましたクララ様」
俺の言葉にクララ様は顔を曇らせる。
「やっぱりクララとは呼んでもらえないのか?」
「なぜでしょうね。クララ様の方がしっくりくるのです。でも……」
荷物を置いて両腕を広げると、クララ様は嬉しそうに身を寄せてくれた。
優しくハグしながら久しぶりのクララ様の匂いを嗅いだ。
落ち着くなぁ……ワンワン。
「コウタ? なんかいい匂いがする」
さっそく気が付いてもらえたみたいだ。
俺もほんの少しだけどローズ系の練り香水をつけてみたんだよね。
今回、いろいろ買っていたら自分もちょっとだけつけてみたくなってしまったのだ。
「不快でしたか?」
「そんなことはない。私の好きな匂いだ」
クララ様は俺の首に顔をうずめて香りを楽しんでいる。
だから俺もクララ様の髪の匂いを嗅がせてもらった。
この人は何もつけなくてもいい匂いがしている。
官能的でも爽やかな香りでもない。
だけど世界中で一番心が安らぐ、何よりも愛しい香りだ。
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