第102話 MISTY BLUE
隣国ポルタンド王国との戦争は長く膠着状態であったが、ついにその均衡は破られてしまった。
現在戦闘が展開されているローマンブルクは重要な戦略拠点であり、この街を奪われることだけはどうしても避けたい。
ザクセンス王国としては何とか戦線を、国境線であるナイセル河まで押し戻したかった。
ドレイスデン第1補給部隊、これが俺たちの新しい所属部隊の名前だ。
規模は100人ほどの部隊だ。
部隊長はクララ様が勤めることになった。
一応、軍での階級は上がるので出世ではあるのだが、警備隊での任務を二カ月も勤めれば自動的に中隊長くらいにはなっていたので、若干それが早まっただけとも言える。
ザクセンスからの補給物資をローマンブルクの手前にある集積地まで送り届けるのが主な任務内容だ。
直接最前線に行かされるようなことはないと聞いて、俺は心の底からホッとした。
「それでもいつ敵の奇襲を受けるかはわからんのだぞ」
あからさまに安堵した俺を窘めるようにクララ様が言う。
集積基地とローマンブルクは20キロ程しか離れていない。
基地にも編成される部隊が集まってきているが全くの安全圏ではないのだ。
出発を2日後に控え、クララ様の直属となる俺たちは全員で今後の方針を話し合った。
見習い騎士であるエマさんと、その従者であるハンス君も補給部隊に編入される。
「フィーネは私からの書状をエッバベルクに届けてくれ。私の軍務は8月までだったのだが、場合によっては任期が伸びるかもしれない」
暫くは領地であるエッバベルクには帰れない可能性も出てきた。
フィーネは家令のエゴンさんに渡す手紙を届ける役目を仰せつかる。
向こうからも緊急の案件について手紙が来る可能性もあるのだ。
俺が手紙を届ければポータルを設置できるのだが、さすがにエッバベルクまでは遠すぎる。
たどり着く前に出発の時間になってしまうだろう。
「アキトはこのまま王都へ残り連絡役を務めてくれ。もちろん店舗の準備をそのまま続けてもらっても構わない」
これは俺からクララ様にお願いしたことだ。
吉岡を戦争に連れて行く気にはなれないし、王都での準備に徹してくれた方がありがたい。
印刷機や店舗の改装、インテリア類の購入にスタッフの確保や教育も必要だ。
全てを吉岡に託していくのは心苦しいので、無理をせずに好きなことをしておいてくれとは言ってある。
できればビアンカさんやバッハ君達と協力して頑張って欲しい。
「コウタには従者として私の側で働いてもらう」
俺は従者らしく頭を下げた。
クララ様の部屋で買い物リストを作成する。
補給部隊が出発する前に一度日本へ帰還して買い物を済ませておきたかった。
買い物メモ
クリップ
裁断機
予備のインク
傷薬
包帯
三角巾
消毒薬
水(ペットボトル)
食品
双眼鏡
携帯スコップ たくさん
「他になにかあるかな?」
ペンを止めて吉岡の意見を聞いてみる。
「五本指靴下を買っといたほうがいいかもしれないですよ。それと水虫薬」
戦場では滅多に靴が脱げないそうだ。
しかも革のブーツはかなり蒸れる。
俺はゴアテックス製のブーツを履いているけど、それでも用心に越したことは無い。
そういえば兵隊たちは99%の確率で水虫持ちなんだよね。
でも、氷冷魔法が使えるクララ様はそんなものとは無縁だ。
流石は完璧なご主人様だけはある。
「足が痒くなるのは嫌だな。ドラッグストアで強力なやつを買っておくよ」
「自分がいれば魔法で治療できるんですけどね」
回復魔法って水虫にも効くんだ!
でも、なんかファンタジーっぽくないよな。
「先輩、偵察用にカメラ付きのドローンとかもあったほうがいいんじゃないですか?」
「それは便利そうだが充電が問題になると思うぞ」
詳しくは知らないが一回の充電で飛べる時間はそれほど長くないだろう。
ソーラーパネルとポータブルの電源を馬車に取り付けるという手はあるけど……。
「電源を取り付ける予算と手間を惜しまずに持っていくべきだと思います」
吉岡の眼が真剣だ。
重さは5㎏以上になるが3.7V 170000mAくらいの容量のポータブル電源があるそうだ。
「わかった。ちゃんと買うから、アドバイスをよろしく頼む」
俺がそう言うと安心したように吉岡は笑顔を見せてくれた。
なんだかんだで吉岡にはいつも心配をかけてしまう。
吉岡の提案はなるべく受け入れるようにしたほうがいいな。
日本の自分のアパートに戻ってきた。
前回は別々の場所から召喚されているので吉岡はここにはいない。
今は自宅にいるはずだ。
時刻は16時。
今から二手に分かれて買い物をしに行くのだ。
いつ連絡が来てもいいようにスマートフォンの電源を入れた。
財布の中身をチェックして、着替えをすませる。
相変わらず東京はまだ年の瀬のままだ。
ダウンコートを引っ張り出して上にはおった。
携帯電話がメールを着信する。
吉岡かな?
――離婚届を提出してきました。とりあえずご報告まで
絵美からだった。
随分とつまらないことでしみじみと日本に帰ってきたんだなと感じてしまった。
――はい
とだけ返信した。
日本で今日は12月28日。
二人が別れて8日という時間が経過している。
だが俺にとってはもう3ヶ月くらい前のことだ。
そう、俺の中ではもう冬は終わってるんだよね。
ザクセンスはすっかり春だ。
それは俺の心の中も一緒だった。
ちょっとメールが素っ気なさすぎたかなという気もするが、俺も忙しいのだ。
クララ様のためなら命を賭けて傍にいるつもりだが、死なないための努力を惜しむ気はない。
まあ、クララ様とこういう関係になってしまった今、いまさら絵美に対して恨みなどはない。
離婚届を出してくれたのならそれでいい。
「ありがとう」くらい書いても良かったのかな?
ダウンのポケットに電話を突っ込んで通りでタクシーを拾った。
運転手さんに秋葉原まで行ってもらうように告げる。
車が走り出してしばらくするとまたメールが来た。
―― 一度、お会いする機会を作っていただけませんか。共同で貯めていた定期預金を折半したいと考えております。
俺にとってはどうでもいい金なのだが、絵美にしてみれば気になってしまうのかもしれないな。
人の金を持っているみたいで落ち着かないのかもしれない。
どこかに募金でもしてもらえればいいのだが、それを他人の絵美にやらせるというのもどうかと思う。
考えてみれば俺も金遣いが荒くなったと苦笑してしまう。
昔だったらこの程度の移動にタクシーなんて使っていない。
四谷駅まで歩いて秋葉原まで中央線に乗っていたはずだ。
――お金は以下の口座に振り込んでください。急ぎませんのでお手すきの時で結構です。
一度お会いしたいとのことですが、私は現在予定が立て込んでおります。日本にいないこともあるかと思います。あと何か月か経って、それでも新府(しんぷ)さんが私に会う必要があると感じたならご連絡ください。
その頃には絵美の気持も落ち着いているだろう。
そして、もう俺たちの人生が二度と交わることなく進みだしていることに気が付くんじゃないかな。
メールを送信し終わると、タクシーはもう秋葉原駅の手前に来ていた。
新府絵美はマンションのリビングでスマートフォンを握ったまま、メールの返信を待っていた。
待っている間に何かしようかとも思ったが、何も思いつかないまま時間は過ぎて着信音が鳴った。
返ってきた返事は「はい」の二文字。
少しだけ胸が痛む。
これが現在の自分と公太の関係であり、その原因を作ったのは自分だ。
公太は大丈夫だろうかと再び心配になる。
人づてに公太が会社を辞めてしまったことを聞いた。
公太の後輩で仲良くしていた吉岡に連絡を取ってみたが、返事は返ってこない。
どうやら無視されてしまったようだ。
もともと公太は熱心に仕事をするタイプではなかった。
仕事はきちんとこなすけど出世欲などはなく、なるべくなら趣味に生きたい人間だったと思う。
そこが自分とはかみ合わなかったのかもしれない。
絵美は上昇志向が強く、大きなことを成し遂げることに喜びを見出すタイプだ。
新たに好きになってしまった男も同類だった。
会社を辞めたのも深い意味はないのかもしれないとは思う。
だけど……。
公太と一緒に過ごしたこのマンションから絵美は引っ越すつもりでいる。
年末年始の休みは荷物の整理に充てるつもりだ。
片づけを再開する気にもなれず、絵美はもう一通メールを書いた。
気にする方がおかしいのに公太がどうしているかが知りたかった。
暫くして帰ってきたメールを読んで絵美は大きくため息をついた。
流れ出す涙の原因がわからない。
罪悪感?
喪失感?
我ながら勝手だと思う。
「さっさと片付けよう」
決意を声に出す。
きっと身一つで出て行った元夫は正しいのだ。
さっさとリセットして新たな生活を始めるのが賢明なのだろう。
溢れ出る涙をぬぐうことも忘れて、絵美は公太との生活の痕跡をゴミ袋に詰めていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます