第101話 暗雲

 一週間ほど地方回りをして帰ってくると、バッハ君から連絡が来ていた。

ザクセンス文字の活字が一組ついに出来上がったそうだ。

手紙に添付された紙には30文字の印刷された活字が黒く鮮やかに並んでいる。

擦れも少なく、十分に使用に足りそうな出来栄えだ。

一組だけでは新聞の発行はおろか、本の印刷はできない。

大きさの違う活字も必要なので大量発注の許可と資金の追加をバッハ君は求めてきている。

出張から戻ってきたばかりなので今日明日は休みとなる。

手紙を読んだその足でバッハ君のところへ出かけることにした。


「バッハ君、手紙を読んだよ。いい出来だね」

工房にはインクの匂いが立ち込め、部屋に渡された細い紐に刷りたての紙が洗濯物のように干してあった。

今度はお土産に洗濯ばさみとかクリップを買ってきてあげよう。


「ヒノハルさん、お会いしたかったです。新しい活字は気に入っていただけましたか?」

「ああ。この調子でばんばん発注してくれ」


バッハ君は地球産の活版印刷機の扱いはすっかりマスターしてしまったようだ。

俺に見せてくれる一連の作業も流れるような動きで全く淀みがない。


「活字が足りないので文章を作る作業は当分先になりそうですが、インクの開発などもしなければならないし、やることは山積みですよ」


開発のヒントになりそうな資料はネットや書籍からピックアップして既に翻訳して渡してある。

時間はそんなにかからないだろう。

バッハ君も技術者仲間を集めて仕事を割り振り、急ピッチでザクセンス産の印刷機の開発をしているそうだ。


「とりあえず文字数が少ない名刺でも作ってみようか?」

「名刺?」


ザクセンスでも地球の名刺に似た物が存在する。

使われ方は訪問先が留守だったときに、自分が来たことを伝えるために名前・住所などを書いたカードを残していくのだ。

日本のように挨拶時に名刺交換をする感じではない。

メモ帳を取り出して簡単に名刺の概要を伝えた。


ザクセンス王国王都警備隊

伍長 コウタ ヒノハル

南駐屯所 アンスバッハ小隊所属


「こんな感じのカードを印刷するんだよ。アポイントを取る時や、訪問時に取り次いでもらう時に出してもいいし、相手が不在の時にメモを書いて残すのも便利でしょう」

「面白いですね。私の名刺も作っていいですか? みんな欲しがりますよ、きっと!」


新しいものが好きな技術者だけあって、自分の名刺を仲間に見せびらかすことを考えてワクワクしているようだ。


「ああ。どうせいろいろ試さないとダメなんだから、バッハ君の名刺を作って練習してみればいいさ」

「ありがとうございます! 新しい活字の作成を急がせなきゃ」


この程度で作業が早く進むなら安いものだ。

紙を切るための裁断機が必要になってくるかもな。

次回の帰還時に買ってくるとしよう。


 新しく雇った印刷職人や技術者仲間も工房に呼ばれ、顔合わせをした。

活字は複数の職人に依頼しているので今月中には納品されるそうだ。

技術を秘匿する気はまったくないのでその分だけ開発は楽に進む。

外注に出せるモノはどんどん請け負ってもらい、仕上がりのスピードを重視するようによく言っておいた。


「こうしてみると色々な形の文字があったほうがいいですよね。形や太さ、大きさで用途が使い分けられる気がします」


まさにその通り。

フォントは大事だよね。


「美術工房に文字のデザインを追加注文しますか?」

「この名刺というやつは図柄があったほうが綺麗に見えると思うぞ。合わせて美術工房に注文した方がよくないか?」

「インクの色も黒一辺倒(くろいっぺんとう)というのは良くないな。紺や藍色があってもいいと思う」

「それを言うなら紙の質や色だって変化させられるはずだ。職人たちと話し合えば更なる向上が可能だろう」


技術者や職人が集まっているので意見がどんどん出されていく。

活気のある現場に身を置くというのは気持ちのいいものだ。

当座の開発費として100万マルケスを渡した。



 活字が出来れば日本から持ち込んだ印刷機でとりあえず新聞の発行はできそうだ。

そろそろ記事など内容の心配をするべきだろう。

情報屋のホルガーには前から話はしてあり、取材の協力は取り付けてある。


「もともと、情報を売るのがあっしの仕事ですからね。旦那の為なら貴族のスキャンダルから将軍の性癖までなんだって調べてきやすぜ」


俺は文春砲を撃ちたい訳じゃない。

ゴシップ記事も人気は出そうだが、お偉方に目をつけられるのは問題だ。

ここは法律で言論の自由が守られている世界じゃないんだよね。

どんな報復があるかわかったもんじゃないよ。

それにイケメンさんに頼まれているのは神殿各派の討論記事だしね。

そろそろ神殿関係者と知己になっておいたほうがよさそうだ。

宰相のナルンベルク伯爵かお得意先のベルリオン侯爵あたりに紹介状を貰うとしよう。

新聞のサンプルが出来たらそれを見せながら説明することにした。



 目下の悩みは記事を書く記者や編集者がいないということだ。

例え週刊や隔日の発行にしたとしても俺たちだけではとても手が足りない。

しかも、これまでにない事業なので経験者を雇うことも出来ないことが不安だった。

執務室のソファーにクララ様と並んで座りながら話し合う。


「とりあえず、王都の大学などに求人をだしてみてはどうか?」


新卒狙いか。それは大変いい考えだ。


「知り合いの貴族に読み書きができる人を紹介してもらうというのも手だぞ。貴族の次男次女以下は職が無くて困っている者も多いと聞いた」


大多数は文官や武官になるのだが、就職枠は無尽蔵にあるわけではない。


「そうですね。広く募集をかけてみるしかないですね」

「そうしてみるがよい」


パチンッ!

そう言いながらクララ様がまた俺の爪を切った。

何が楽しいのか嬉しそうに俺の爪を切ってくれている。


「クララ様……楽しいですか?」

「うむ。私はこういうことをするのが好きらしい……」


楽しんでいるならいいんだけど、さっきから俺は誰か入ってこないか気が気ではないのだ。


「コウタ」

「なんでしょう?」

「機会があったらコウタの耳掃除をしてみたい……」


えーと……どう答えるのが正解だ?


「昔、母上にして貰ったのだが、誰かにしてやったことはまだないのだ。だから、やってみたいのだが、このようなことはコウタ以外には頼めないだろう?」


普通は耳掃除をさせてくれなんて気軽には言えないか。

ステディーな間柄だけだよな。

クララ様が他の男の耳掃除なんかしていたら嫉妬で身悶えしてしまうだろう。


「わかりました。それは今度、私の部屋で」

「うん、今夜だな」


やっぱりそうなるんだ。

僅かに頬を紅潮させながら爪切りを続けるクララ様が愛しい。

でも最近、俺とクララ様のことが兵舎で噂になりつつあるんだよね。

ちょっと気をつけなければ。

それでも今夜のことを考えると顔も心も緩んできてしまう。

今晩はクララ様に何を作ってあげようかな? 

春キャベツが市場に出回り始めたから、それを使ってロールキャベツでも作ろうかな。

最近は俺の料理の腕も大分上がってきた。

日本に帰った時に「今日もお料理 ビギナーズ」という本を買ってきて勉強しているのだ。

クララ様を癒すことが俺の悦びなんだよね。


 ドアがノックされたので二人は瞬時に離れた。

流石は一流の武人だ。

重心移動にいささかのブレもなく、高速ながら優雅な動きは舞踊のようでさえある。


「失礼します」


エマさんが入室してきた時、俺はソファーの前に立ち、クララ様は窓辺に立っていた。

直前までの甘い雰囲気は微塵もない。

エマさんも全く気が付いていなかった。

あれ? 

というよりエマさんの表情がやけに厳しいぞ。

俺が摘発した娼婦に手を出したという誤解は既に解けているはずなのに。


「クララ様、大変です。国境線が破られ、ローマンブルクの街にポルタンド軍が侵入しました」


ローマンブルクは隣国ポルタンド王国との前線近くにある防衛拠点となっている都市だ。


「戦況は?」

「父から聞いた話ですので確認は取れていませんが、国境で指揮をとっていたベーア将軍が敵の夜襲によってお亡くなりになったそうです。副将のアンカー将軍が敗残の軍をまとめてローマンブルクまで撤退したのですが、追撃を受けました。城門は破られ、現在は市街戦となっている模様です」


街の西にザクセンス軍、東にポルタンド軍が陣を構えて一進一退の攻防を繰り広げているそうだ。

前線都市らしく街中もいくつもの壁で区切ってあったのでザクセンス軍も持ちこたえることが出来たようだ。

将軍は討たれたようだが兵力全体の被害はそれほどでもなかったらしい。


「軍部は増援を出すだろうな。軍の再編にともない警備隊から移動の可能性もある」


クララ様の言葉が不気味に響く。

戦争か。

クララ様がいくなら俺も行くしかないよな……。

まだ、どうなるかはわからないが暗鬱な気分になりながらも俺の心は既に決まっていた。

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