第95話 ビアンカ
クララ様は兵舎での夕食をキャンセルして俺とは別々に門を出た。
外で待ち合わせて一緒に帰るためだ。
夕飯は以前そうしたようにアパートで食べることにした。
空間収納の中に作りたての焼き鳥があるからそれを出してみよう。
クララ様は何でもよく召し上がるから醤油味のタレでも平気だと思う。
保険で塩の焼き鳥も買ってあるから大丈夫だ。
通は素材の味がいきる塩を好むそうだけど、俺はどちらかというとタレの方が好きだ。
天婦羅も塩で食べるより天つゆの方がいい。
塩で食べるのも美味しいけど、寂しい気がするんだよね。
味が孤独な感じでさ。
街路に立ち、クララ様が俺を待っている。
平和な夕暮れ時は人をワクワクさせるような魔法の力が働いているのかもしれない。
家々の煙突から流れてくる煙と料理の香り、沈む夕日、遠くから俺を見つけて嬉しそうに目を伏せる君、蕾がほころびかけているアーモンドの花、今いる空間のあらゆるところに幸福が溢れている。
アパートに戻る前に古着屋によってクララ様の服を買った。
古着屋といっても上等な部類に入る店で、商家の娘が着るような簡素なワンピースと上掛け、毛織のショールなどを購入した。
店の中で着替えて栗色のウィッグを被れば誰もクララ様とはわからない。
剣は俺が預かって空間収納の中にしまった。
「まいりましょう」
「うん」
二人で緊張しながら並んで歩く。
普段なら俺は必ずクララ様の後ろを歩いている。
だからこんな当たり前のことさえ新鮮に感じるのだ。
「どこか寄りたいところはありますか?」
「少し街を歩きたい気分です」
「クララ様?」
いつもと口調がちがうんだけど、どうしたのかな?
「今日の私はコウタさんのフィアンセですから」
ああ、世界中の皆に先に謝っとく。
ごめん!
俺、すごく幸せだ。
「もげろ」「はぜろ」「タヒね」どんな言葉でも今なら受け止められる気がする。
「散歩をしながら帰りましょう。クララさん」
沈む夕日が世界の全てをセピア色に染めていく。
全てが夕日に染まる街の中では、俺たちの頬が少し赤くなっていたとしてもそれに気が付く人は誰もいないだろう。
世界はそこにクララ様がいるだけで素晴らしかった。
遠回りをして散歩を楽しみながら帰ると、紹介してもらった女中さんは既に玄関で待っていた。
歳の頃は俺と同じくらいだろう。
スレンダーというよりもかなり痩せていて、顔色もあまりよくない。
落ち着いた話し方で、優しそうな感じなのだが何処か薄幸そうな人だった。
「ビアンカと申します。よろしくお願いします」
挨拶の声にも力強さというものがかけらもなかった。
西地区に住んでいる女中さんに、俺は逞しいイメージを持っていた。
いつも太い腕で水桶を運び、よく響く大声で喋りながら井戸端で洗濯をしている光景をしょっちゅう目にしていたから。
だけど、目の前のビアンカさんはとても華奢だ。
今にも貧血で倒れてしまいそうだぞ。
「この部屋は3階にありますし、水を運ぶのはかなりつらいと思いますが大丈夫ですか?」
「はい。お仕事には誠心誠意とりくみます。きっとご期待に沿えるよう頑張りますので雇ってはいただけないでしょうか」
結構必死な様子に驚いてしまう。
俺としては三日に一度くらいの頻度で来てもらって掃除、洗濯、水汲みをしておいてもらえれば充分だ。
その都度支払う給金は150マルケスというのが相場だと聞いている。
はっきり言って大した額ではないがビアンカさんにとっては重要な収入なのかもしれない。
「ご家族はいますか?」
クララ様が質問している。
「夫は五年前に他界いたしまして、それからずっと一人暮らしです。子どももおりません」
「親戚は?」
「もともと南部のベネリア出身でございます。結婚の時にドレイスデンに引っ越してまいりましたので近所に親族はおりません」
ビアンカさんが一瞬だけ懐かしそうな、それでいて辛そうな顔をした。
ベネリアっていうのは数百キロくらい南下したところにある海沿いの都市だったと思う。
親兄弟がいたとしても気軽に会える距離じゃないな。
「コウタさん。どうでしょう先ずは2,3日働いてもらって様子をみたら」
それがいいだろう。
せっかくここまで来てもらって手ぶらで返すのもかわいそうだ。
体力はなさそうだけどやる気はあるみたいだし、真面目そうでもある。
いつから働けるかを聞くとすぐにでも仕事が欲しいという返事だった。
「それでは明日から来てもらいましょう。よろしくお願いします」
仕事が決まるとビアンカさんは安堵したような表情をした。
ひょっとすると収入がなくて困っていたのかもしれない。
嬉しそうに何度も礼を言い、青白い顔に僅かな赤みがさしていた。
帰ろうとして椅子から立ち上がったビアンカさんが軽い目眩を起こしていた。
本人は誤魔化そうとしていたが、必死でテーブルを掴む手が痛々しい。
「コウタさん……」
クララ様が一生懸命目で訴えてくる。
大丈夫、俺も心配ですから。
「ビアンカさん。これを持って行ってください。たくさんもらったのでお裾分けです」
袋にドライプルーンを包んで大きなホットドッグと一緒に渡してやった。
ビアンカさんはびっくりしたようにこちらを見つめている。
いきなり暖かい食べ物が出てきたから驚いたかな?
作りたてを購入して空間収納に入れておいたから熱々なんだよね。
「今夜はそれを食べて明日は元気に働きに来なさい」
「奥様!」
ビアンカさんは涙ぐんでいた。
―――――――
暗くなった通りで足を急がせながらビアンカは新しい雇い主が持たせてくれた包みを開けた。
途端に食欲を刺激する芳香が立ち上る。
細長いパンには大きなソーセージが挟まれていた。
昨日の昼にひとかけらのパンを食べたきりずっと水しか飲んでいない。
我ながら浅ましいとは思ったが空腹には耐え切れず、建物の陰に忍び寄りビアンカは貰ってきたばかりの食べ物を口に入れた。
口内にジューシーなソーセージの肉汁が広がり眼には涙が溢れた。
パン以外のモノを口に入れるのは本当に久しぶりだった。
美味しいものが食べられたという感激、今日を生き延びられたという安堵、そんな気持ちがない交ぜになって涙という形で感情が発露してしまったのだ。
瞬く間にホットドッグを食べつくし息をつく。
あまりに夢中だったので何故か貰ったパンが出来たてのように暖かいことに疑問を挟むことすら忘れている。
あるのは食事を得られた安心感、充足感、感謝の念だけだ。
明日は早速お部屋にうかがって隅から隅までピカピカに磨き上げようとビアンカは考えた。
自分にはそれくらいしかお返しするものがない。
もしも、先ほど食べ物を貰っていなかったら翌朝には起き上がれない程衰弱していたかもしれないのだ。
先週ビアンカは風邪をひいた。
仕事は体調を誤魔化しながら頑張っていたがそのうちに起き上がれないほど悪くなり、五日のあいだ床から離れられなくなってしまったのだ。
週ごとに払わなければならない家賃を払ったら蓄えはすぐに底をついた。
今、ビアンカの財布に残っているのは僅かに銅貨が2枚だけだ。
20マルケスではせいぜいパンが一つ買えるくらいが関の山だ。
それまでの奉公先は病気の間に首になっていた。
迫りくる餓死に怯えながら今日の面接を最後の希望として受けたが、神様は自分をお見捨てにはならなかったとビアンカは感謝した。
通りの向こうに西の大門が見えた。
城壁の上には時空神の使徒セラフェイム様の彫像が見える。
ビアンカは両手を合わせて頭こうべを垂れた。
セラフェイム様はドレイスデンの守護天使だ。
「(時空神様、セラフェイム様、ヒノハル様たちにお引き合わせくださいましてありがとうございました。お陰様で今日を生き延びることが出来ました)」
ビアンカは短く祈り家路を急いだ。
既に自分が運命の転換期に差し掛かったことをビアンカはまだ知らない。
この夜から、幸薄い女の運命は大きく変わろうとしていた。
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