第94話 春の詩
食事をしながらバッハ君と話してみたが、なかなか優秀な人だった。
科学的な知識もかなり高度なレベルで持っている。
ザクセンス王国の王立アカデミーの会員でもあるそうだ。
ザクセンス王国の研究機関は王立アカデミーと神殿付属大学研究所の二つがあり、大抵の知識階級はどちらかの組織に加入しているらしい。
だけど、これらの機関は仲が悪いわけではない。
むしろ併存しているといってよいそうだ。
人によっては両方に席を置いている場合もあるし、特に重鎮と呼ばれる人にそういう人が多いとのことだ。
内部での派閥争いはすごいようだけどね。
アカデミーには王族や貴族階級の人が多く、神殿付属には宗教関係者の割合が増えるそうだ、
夕食後に案内された工房は俺のアパートからそう遠くないところにあった。
徒歩で15分くらいの距離だ。
一階は50㎡くらいの一間でこれがバッハ君の工房だった。
二階は居住スペースになっているそうだ。
予想していたよりずっと立派な工房だ。国から仕事を委託されるくらいだから報酬もいいのかもしれない。
工房の中は大きな作業台が部屋の中央を占めていた。
壁には整然と道具が並べられバッハ君の几帳面さが窺えた。
吉岡と気が合うかもしれない。
俺は物凄く汚すこともないけれど、いつも清潔に保てるほど綺麗好きでもない。
ある程度汚れて来たらまとめて綺麗にするタイプなんだよね。
空間収納を開いて3人掛かりで卓上活版印刷機を設置した。
周辺機器も取り出していく。
「とりあえずこいつの使い方をマスターしてほしい。インクなどが足りなくなったらまた買ってくるからね」
爛々とした目つきでバッハ君が印刷機に触れている。
「最終的には紙やインクの開発もしていって欲しいから、そちらの職人にも声をかけてね。開発費用が欲しい時は具体的な見積もりを書面で出して」
「承知いたしました。とりあえずはこの印刷機の使い方をマスターします。すぐにでも印刷を始めるのなら私の他にもう一人くらい専用の職人を育てるべきではないでしょうか?」
印刷を専門に請け負う職人は必要になってくるな。
「バッハ君の言う通りだ。その辺の雇用もバッハ君に任せるよ。だけど採用は人柄重視でお願いね」
やっぱり変な人と仕事をするのは嫌なんだよね。
能力が突出しているけど身勝手な人より、能力は平均くらいでも人を思いやれる人との方が楽しく仕事ができると思う。
もっとも、印刷機関係に関してはバッハ君に全て丸投げする気だから細かいことは言わないよ。
とりあえずやりたいようにやってくれ。
当面の資金を渡して俺と吉岡は工房を後にした。
吉岡に俺のアパートに来てもらって今後のことを話し合っていく。
「印刷機の計画が動き出しましたね」
「うん。ほぼ予定通りだよ。例の話はどうなった?」
俺が聞いているのは吉岡が見つけてきた店舗用の賃貸物件のことだ。
いまのところドレイスデンの一等地にある三階建ての建物が最有力候補になっている。
一階の店舗スペースは240㎡弱で広さも申し分ない。
ただいま持ち主との間で交渉を進めている最中だ。
「3年の借り上げで、保証金として3千万マルケスを預けろと言ってきました。改装については図面を見てから承諾するか否かを決めるそうです」
3千万か。
吹っ掛けてきたな。
保証金の相場は1千万くらいだと聞いていたのに。
「払えない額ではないけど、どうするかな。家賃の方は?」
「建物丸ごとで月72万マルケスです」
東京の一等地と比べてしまえばずいぶん安く感じられるがドレイスデンでは高い方だ。
だけど、年間864万マルケスなら悪くない。
「家賃に関してはこれでいいと思う。吉岡の意見は?」
「自分も同じですね。補償金に関しては相手も本気ではないと思いますよ。1000万以上は欲しいみたいですけどね」
平均を多少オーバーするくらいなら仕方がないか。
「商人ギルドに提出する書類は作成済みです。後は店舗の住所が決まればそれを書き込むだけの状態ですよ」
俺たちの会社名は「アミダ商会」にした。
社名に深い意味はない。
俺が初めてこの世界に来た時に登っていた山の名前からとっただけだ。
ギルド登録料として5万マルケスを徴収されるそうだ。
ちなみに店舗を出す際にも税金を払わなければならない。
売り場や倉庫の面積によって一定の税を年ごとに徴収される。
法人税のように利益に加算されていくわけではないとのことだった。
「物件は今交渉中の場所でいいと思うよ。後は吉岡に任せる」
「わかりました。今週末まで交渉を続けて決めてしまいます」
遂に店の場所も決まりそうだ。
後は内装と従業員だな。
ハンス君のお姉さんとの面接が少し先に迫っている。
どんな人か楽しみだ。
即戦力になってくれればありがたい。
俺たちが出した手紙もそろそろリアに届いた頃だろう。
リアたちが王都に来てくれれば更に助かるはずだ。
話が一段落したところで緑茶を淹れた。
やっぱり俺は日本茶が一番好きなんだよね。
今日は佐賀県嬉野産の茶葉だ。
「そういえば、先輩はハウスキーパーを雇わないんですか?」
雑然とした部屋を見渡しながら吉岡が聞いてくる。
日本式の住居と違い土足厳禁ではないので部屋の床にはうっすらと汚れが目立つ。
ランドリーボックスも洗濯物で一杯だ。
日本に帰った際に洗濯機で洗うように心がけてはいるのだが、前回の帰還の時は忙しくて洗濯まで手が回らなかった。
だからといってユリアーナが勝手に洗濯を持ち帰るのも嫌なんだよ。
なにかされそうなんだもん。
「吉岡はどうしてるの?」
「自分はホテル暮らしですから」
そうか、ホテルなら掃除は毎日やってくれるし、金さえ払えば洗濯のサービスもある。
これからどんどん忙しくなりそうだから、俺も通いの女中さんを頼んでみるとするか。
家事から解放されればその分副業に精が出せるというものだ。
朝の出勤時にアパートの管理人さんに家事代行をしてくれる人を紹介してもらえないかと頼んだら、今日の夜にでも引き合わせると言ってくれた。
午後の執務室で俺とクララ様は寛いだ時間を過ごしていた。
エマさんは実家に急用が出来て帰っていたし、ハンス君もそれについていった。
フィーネは本部に書類を届けに行き、吉岡は相変わらず別行動だ。
窓から差し込む光は暖かく思わず眠気を誘ってくる。
二人で微睡まどろんでいられたら最高なのだがここは兵舎だ。
小さくあくびをしたクララ様が可愛かった。
「濃い紅茶でミルクティーを作ります。少し休憩してください」
「うん、頼む。用意ができるまでにこの書類を書き上げてしまうよ」
眠気を覚ますべく紅茶をいれた。
オレンジ色の紅茶がカップに波打ち、柔らかな香りが部屋へ広がっていく。
クララ様の前に紅茶を置いてあげたら唐突に手を握られてしまった。
「どうしました?」
「なんでもない」
照れながらもクララ様は手を離さない。
最近クララ様は突然ちょっとだけ甘えることがマイブームらしい。
そんなに長く甘えているわけではなくて、ちょっとした隙を伺って1分くらいくっついてきたり、こんな風に手を握ってくる。
どうやら甘えるという感覚が新鮮で楽しいようだ。
クララ様は小さい頃にお母さまを亡くしている。
お父上は厳しい人だったようだし、誰かに甘えた経験がほとんどないのかもしれない。
それなのに責任感の強い人だから小さい頃から周囲の期待に応えようと頑張ってきたのだと思う。
俺としてはもっともっと甘やかしてあげたいくらいだ。
でもクララ様は多くを望んでくれない。
本当に慎ましやかな人なのだ。
クララ様のこれまでの苦労を考えたら涙が滲んできそうだ。
なにか気晴らしをさせてあげられたらいいのに。
そう考えた俺はいいことを思いついた。
「クララ様、変身ごっこをしませんか?」
「変身ごっこだと?」
空間収納から擬装用のウィッグを取り出した。
「これですよ」
「それはコウタがショウナイになる時のカツラだな」
その通り。
俺はもう一つ、予備の暗い栗毛色のウィッグを出してクララ様に渡した。
クララ様は満月の光を落とし込んだような銀髪をしている。
だからウィッグを被っただけで印象がだいぶ違うはずだ。
「いかがです?」
鏡をクララ様の前に出して差しあげた。
「別人みたいだ……」
うん。
相変わらずの美貌だがちょっと見ただけではクララ様とは気づかれないと思う。
「それを被って服装も庶民の服を着て遊びに行きませんか?」
戸惑っていたクララ様の顔がパッと明るくなった。
「その、デ、デートなのか?」
「その通りです。これなら変な噂が立つこともないでしょう」
再び手を握られてしまった。
さっきよりもずっと強くだ。
「いつがいいでしょうね?」
「今夜がいい!」
やっぱり?
あ、でも今夜は新しい女中さんが挨拶に来るんだよね。
俺は事情を話した。
「そうか。それでは仕方がないな」
しょげるクララ様を見ると胸が痛む。
「では、クララ様も一緒に面接をして下さい」
「私が?」
「ええ。偽装して私のフィアンセということにしましょうか?」
冗談めかして聞いたのだがクララ様の眼は真剣だった。
「いいのか?」
だから俺も誠実に答えた。
「勿論です」
その日のキスはいつもよりどこか荘厳で儀式めいたもののように感じた。
でも、全然嫌な感じじゃない。
せっかく入れたミルクティーは冷めてしまったが、俺たちの眠気もどこかへ行ってしまっていた。
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