第93話 ナンパ師

 襲われていたオリヴァー・バッハの傷は大したことはなかった。

治療の必要もなさそうだ。

「そうか、君は技術者なんだね!」

探していた技術者に会えたので嬉しくて仕方がない俺にバッハは不審の眼を投げかけてくる。

怖がらせてしまったようだ。

「ありがとうございました。私はこれで……」

そそくさと帰ろうとするバッハを慌てて引き留めた。

「ちょっと待って。これを見てくれ」

ポケットからフラッシュライトを取り出す。

「それは?」

技術者なら自分の知らない技術を見せられたらきっと興味が湧くと思うんだよね。

「まあ見ててよ」

既に薄暗くなりかけていた路地裏がフラッシュライトの灯りに白く照らし出される。

「お、お、お……」

言葉にならないほど驚いているな。

好奇心が恐怖を凌駕しているのだろう。

先程まで逃げようとしていたのに、今のバッハはもうフラッシュライトのことしか目に入っていない様子だ。

フラッシュライトを渡してやると怖ず怖ずと手を伸ばしてきた。

「眩しいからこちらにライトを向けないでね。自分で光を見るのもダメだよ」

それは軍に正式採用されるほどのフラッシュライトだ。

一般の数倍にもなる明るさと堅牢性を備えている。

バッハは緊張しながらもしきりにライトを観察して材質などを調べているようだ。

「やっぱり興味があるみたいだね」

「はい。とんでもない代物です」

今の「はい」に嘘はないな。

「虚実の判定」を使うまでもない。

尋常じゃない興奮がバッハから伝わってくる。

「これはどういったものなんですか? 魔道具のようですが、どのような原理で光っているのか僕にはさっぱりわかりません」

「そいつは異世界の道具だよ」

「異世界の道具!?」

「うん。俺は異世界人だからね」

バッハ君は声も出せないようだ。

だけど俺に興味は持っているな。

正確に言うと俺の持っている道具にだけど。

「ちょっと付き合わないかい? もっと面白いものを見せてあげることだってできるよ」

生まれて初めてのナンパが男相手になるとは思わなかった。

「ホテル・ベリリンに部屋をとってあるんだ。いろいろと君の興味を引くものがあるはずだ」

いきなりホテルに誘うのはどうかと思ったが、外で気軽に見せられないものも多い。

アパートの場所を現段階で知られるのも問題だろう。

だったら吉岡が滞在しているホテルの部屋が一番いいと判断した。

バッハ君が優秀ならいろいろな技術を彼に託してもいいし、例えそれが無理でも優秀な技術者を紹介してもらえるかもしれない。


 無線機を取り出して吉岡に連絡する。

「突然ですね。 緊急事態ですか? どうぞ」

「技術者をみつけたんだよ。そっちに連れて行くけどいいかな? どうぞ」

「マジっすか!? 自分は今部屋なので来てもらって大丈夫ですよ。どうぞ」

「了解。すぐに向かいます。以上」

「了解。以上」


バッハはハンディー無線機を茫然と眺めている。

「これは通信機ね。流石にいきなりこれの開発は無理だと思うけど、もっと違う技術もあるからね。印刷機っていってさ――」

喋りながら歩き出すとバッハは何も言わずについてきてくれた。

夢中で俺の話を聞いてくれている。

彼の中から情熱の塊みたいなものを感じるよ。

鞄から羊皮紙とペンを出してメモを取ろうとしたので、小さなメモ帳と水性ペンをプレゼントしてあげた。

こっちの方が使いやすいよ。

「今日はなんて日だ……」

水性ペンとメモ帳を見つめながらバッハが呟く。

「セラフェイム様のお導きだと思うよ」

たぶん、本当にそんな気がするんだよね。

イケメンさんは何も言ってこないけど。



 ホテルの一室で吉岡とバッハを引き合わせた。

吉岡はカワゴエに偽装したままで新たに部屋を借りていた。

慎重な吉岡らしく自分の部屋で会うことは避けたようだ。

俺もショウナイに偽装しておければよかったのだが暴漢からバッハを助けた時はヒノハルの姿だったので今更変装も無意味だ。


「こちらはオリヴァー・バッハ君22歳。ドレイスデンで技術者をしているそうだ。バッハ君、彼はカワゴエという知り合いの商人だ」

一通りの挨拶も終わり、俺たちは早速、活版印刷の説明をすることにした。

取り出したのは「趣味の科学マガジン」のミニチュア活版印刷機だ。

以前クララ様と一緒に組み立てたものをテーブルの上に置いて説明していく。

「これが活版印刷機のミニチュアだ。同じ文字を大量に印刷することが出来る機械なんだ」

百聞は一見に如かずなので実際にやって見せることにした。

紙に印字された文字を見てバッハ君は興奮を隠せない。

「今ある活字は俺の故郷の文字だからわかりにくいと思うけど、これと同じものが作れたら、記録というものに革命がおこると思うよ」

知識の集約と拡散が加速度的に早くなるだろう。

「ヒノハルさん、あなた方はいったい何を望んでらっしゃるんですか」

バッハ君がかすれた声を上げた。

「俺たちが依頼されているのは聖典の印刷だよ」

「聖典の印刷……。依頼されているとおっしゃいましたが、いったい誰に依頼されているんですか? もしかして神殿の枢機卿とか、まさか法王様!?」

いや、もっとずっと上だ。人ですらない。

「セラフェイム様だよ」

バッハ君が滝のような汗をかいている。

「とんでもない話なのに嘘をついているとは微塵も思えないところが凄いです。

先程のフラッシュライトから始まり、通信機、水性ペン、メモ帳、そしてこの印刷機。

これだけのものを見せられたら疑うことも出来ません」

俺は「虚実の判定」をアクティブにする。

「俺たちに協力してくれるかい?」

「もちろんです! 私もノルド教の信徒です。ヒノハルさん方にお会いできたことを天啓と受け止めますよ。それに、こんな素晴らしい機会を与えていただいて技術者として奮い立たないわけがないです!」

バッハ君の言葉に嘘はなかった。

だけど俺はノルド教の信者ではないんだけどな。

ややこしいことになるから今は黙っておくか。


 既に小型の卓上印刷機は日本で手に入れてあるので、最初はザクセンス文字の活字を作ることから始めることにした。

ザクセンス産印刷機のプロトタイプを作ることも同時進行でやっていく。

「最初はこれで大まかな活版印刷の概要を理解してね。文字の翻訳はこちらの紙に書いておいたから」

新たに買いなおした未開封の「趣味の科学マガジン」を渡す。

バッハ君はとても真剣な目で読み始めた。

今読まなくてもいいんだよ。

「組み立てキットもテキストを読みながら組み立てていいからね。それによって理解が深まると思う」

「わかりました。今夜はとても眠れそうにないですよ! 家に帰ってすぐに組み立ててみたいです!」

やる気に満ちていてたいへんよろしい。

バッハ君は自分の住居兼工房を持っているそうなので、食事の後に送っていくことにした。

工房を見ておきたいというのもあったし、空間収納の中に入っている卓上活版印刷機を届けるためでもあった。

なにせ本体の重量が50キログラム以上あるので、一人で運ぶのは非常に困難なのだ。

その上、周辺機器も多岐に渡る。

インクや油を扱うのでおいそれと開封することも出来ない。

その点、工房なら問題もないし、バッハ君も是非工房に置かせて欲しいと言ってくれた。


「開発資金に関しては全額こちらで用意する。ただし10万マルケスを越える金銭の授受は当面はカワゴエか自分を通してもらうね」

バッハ君の裁量権は月々10万マルケスまでだ。

その範囲内だったらどう使っても自由だ。

俺たちの仕事が煩雑になってしまうがトラブルを避けるためには仕方がない。

職人を雇う場合や消耗品費が予想以上にかかる場合は応相談とした。

その内、信用できる人を会計に雇いたいものだ。

「全く問題ありません。明日にでも活字を作ってくれる工房を探して見積もりを取ってきます」

物凄いやる気を見せてくれている。

とりあえず活字さえ出来れば印刷機はあるので印刷は開始できそうだ。

後は本の装丁だが、これもバッハ君の方で知り合いを当たってくれることになった。


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