第73話 聖女と女神
ずっと続いていた寒さも緩み、小春日和の暖かな日差しが優しく街に降り注いでいる。
普段はクララ様の少し後ろを歩いている俺だが、今日は二人並んで辻馬車に乗って出かけた。
目指すはボリアー通りのテイラーだ。
「クララ様はどのような服になさるのですか? いつもは騎士の姿ですが夜会の時はドレスもいいですよね」
「ひ、久しくドレスは着ていない。その……腰に剣がないと不安になるのだ」
俺たちが分かち合うぎこちない一瞬一瞬に季節が春めいていく。
男装のクララ様も凛々しくて好きだがドレス姿も見てみたいな。
まるで中高生のような純情なデートで午後のひと時を楽しんだ。
教えてもらったテイラーで服を購入したけど、新品は全部オーダーメイドなんだね。
日本の感覚で既製品を買うつもりでいたよ。
採寸とデザインサンプルを見せられて、それから生地を決めてとかなり時間がかかってしまった。
店を出るともう夕方だ。
赤く染まるドレイスデンの街を散歩していく。
ここには劇場や闘技場のような娯楽施設もあるんだな。
今日はもう時間が無いけど次のデートは観劇やコンサートも楽しそうだ。
劇場にはお姫様の前で騎士が片膝をついてその手に接吻をしているポスターが張られていた。
今話題のお芝居だと聞いている。
ザクセンスではどんな音楽が演奏されるのだろう。
クララ様はどんな音楽がお好きですか?
他愛のない会話の端々から喜びが溢れて、俺たちの心を満たしていく。
だけど、そんな幸せはびっくりするくらいあっけなく水を差されてしまった。
「もし、貴方は先日の炊き出しの折に警護を務めて下さった騎士爵様ではありませんか?」
街中で声をかけられて振り返ると、そこにはグローセルの聖女ことユリアーナ・ツェベライが数人の紳士と共にいた。
俺はすぐにクララ様の後ろに数歩下がる。
幸いユリアーナは俺には関心が無いようだ。
一別以来僅かな時しか経っていないのに、ユリアーナの美貌は更に磨きがかかったように見えた。
「これはグローセルの聖女殿。今日はお買い物ですか?」
「ええ、父と一緒に参りました。この辺りは何でも揃いますから。でも、聖女という呼び方はおよし下さいませ。私はそのように立派ではございません」
豪華な服に身を包んでクララ様に軽く会釈をした中年紳士がヴェスタービッツ伯爵ツェベライか。
それにしても、見れば見るほどやっぱりこの少女が下水路の殺人現場にいたという事実が嘘のように思えてくる。
その後ユリアーナとクララ様は二言三言雑談を交わして別れた。
ユリアーナは立ち去る時に俺の方を見てにっこりと微笑む。
思わず目礼をするふりをして視線を逸らしてしまった。
なんでこんなにドキドキするのだろう?
多分、今俺の顔は赤くなっているはずだ。
まるで好きな女の子に出合った少年のように。
ユリアーナに見つめられた瞬間に魅入られたように身体が熱くなった。
「どうしたコウタ?」
怪訝そうな表情でクララ様が俺を見ている。
「いえ……」
ユリアーナが浮浪者殺害の容疑者であることを俺はクララ様には伝えていない。
確証がないというのが理由だが、それは建前だ。
本当のことを言えば自分がユリアーナという他の女に固執している気がして後ろめたかった。
どうしてかはわからないのだが俺はユリアーナという女が気になって仕方がないのだ。
その事実をクララ様に告げるのは残酷なことのような気がした。
「コウタもあのような女性に心惹かれるのか?」
「そうではありません」
斜め後ろから見るクララ様の表情はよくわからない。
「そうか……」
こういう時、言葉の力は驚くほど弱々しくなるけど言わずにはいられなかった。
「私は聖女の使徒ではありません。騎士の従者です」
「それもわかっている……」
日が陰り太陽が沈みかけている。
街は再び冬の冷気に包まれていた。
食事はしないままで兵舎へと戻った。
吉岡にレストランには行けない連絡を入れると、予約した店には自分が行くから大丈夫だと言ってくれた。
その代わり全身リラクゼーションを頼まれたが、いくらでもやってやると返事をしておいた。
あいつにはどんどん頭が上がらなくなってしまうな。
夕飯時になり食堂へ向かった。
クララ様の給仕はフィーネの当番だ。
本当は傍にいてぎくしゃくした関係を修復したかったのだが仕方がない。
自分の態度を猛省しながら豆のスープを腹にかきこんでいく。
「どうしたんですかコウタさん? そんなにガツガツ食べて。豆のスープは飽き飽きだと仰ってませんでしたか」
「ハンス君、俺はダメな男さ」
本当にそうだ。
たとえ
……ん?
もしかしたらグローセルの聖女はこの魔法が使えるのかもしれない。
だとすれば俺の感情にもある程度の説明はつく。
もしも殺人事件のことがなかったら普通にユリアーナに惹かれただろう。
だが事件のことを知っている俺は少し変化球気味にユリアーナに固執したのかもしれない。
全ては憶測の領域の中か……。
この仮説が事実かどうかの判定は難しな。
単に俺が絶世の美少女に心奪われている可能性だってある。
どうしたものか……。
「コウタさん」
思い悩んでいるとフィーネが食堂にやってきた。
「どうしたの、クララ様のお食事はもうすんだのかい?」
「食欲がないんだって」
心がずしんと沈んで今食べた豆を戻しそうになる。
「それでね、用事があるから15分くらいしたらコウタさんに執務室に来て欲しいんだって」
「わかった」
何の話だろうか?
きちんと謝ってもう一度自分の気持をはっきり伝えないとな。
俺が好きなのはクララ様だけなのだ。
大きなパンを幸せそうに頬張るフィーネを横目に食堂を出た。
一瞬だけ躊躇ったが、大きく執務室のドアをノックした。
「ヒノハル伍長、お召しにより参上いたしました!」
……。
あれ?
返事がない。
いないのかな?
「入れ!」
あ、やっぱり居たんだ。
……だったら、あの間は何だったんだろう?
「失礼します。ご用があるとお聞き……」
ドアを開けて俺は硬直してしまった。
「どうだろうか? 母上から譲り受けたドレスを直したものなのだが……」
イブニングドレスを着た女神がそこにいた。
ドレスは少しくすんだスカイブルーで大きく膨らんだ裾にはひだがたくさんついている。
首から肩にかけては大胆に開いていて美しい肌が見えていた。
「何か言ってくれぬと困るのだが……」
クララ様が少し怒ったように顔を赤らめて目を伏せた。
暫くの間茫然と見とれていたらしい。
どうしよう?
もうね、胸のキュンキュンが止まらないんだよ。
俺30歳だぜ。
こんな気持ちになるなんてもう一生無いと思ってたんだ。
だけどさ、まだこんなに純粋に人を好きになれるもんなんだな。
「貴女が、クララ様が世界で一番美しいです。ドレス姿も、騎士のお姿も。いえ、貴方の美しさはその見た目だけではありません。貴方の内面の気高さが表に滲み出ているのです」
「バ、バカ者。そのような恥ずかしいことを! ふ、普通に褒めてくれれば……」
いや、俺だって普段なら恥ずかしいんだよ。
でもさ、正直に思ったことを言葉にしたらこうなっちゃったんだよね。
他に思いつかないんだから仕方がない。
「用件はその……これだけだ。時間をとらせて悪かった」
横を向いてしまうクララ様の傍に行って、昼に見た劇場のポスターのように片膝をついた。
「え? ……」
「クララ様、お手を」
思い返したら死ぬほど恥ずかしいんだろうなとか思いながらも衝動は止められない。
おずおずと差し出された手を受け取りその甲にキスをした。
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