第42話 バーデンの水に抱かれて

 テーブルに並べられた総菜パンをフィーネがハムハムと食べている。

ただでさえあどけなくてかわいいのに、無心で食べている姿はさらに愛らしい。

ザクセンス王国のパンは基本的に味が付いていない。

ちょっと酸っぱくて堅い黒パンが一般的に流通しているパンだ。

だから日本の総菜パンのような味のついたものはこちらでは見たことがない。

「これは玉ねぎとチーズとベーコン……あともう一つがわかりません」

「マヨネーズというソースだよ。その上にパセリのみじん切りをかけて焼いてあるんだよ」

「美味しいです……ベーコン最高……」

食べるのに一生懸命のようだ。

玉ねぎとチーズはこちらでもよく食べられているが、ベーコンは高級食品になるので一般家庭の食卓に並ぶことは少ない。

肩ロースを使ったレンガくらいの大きなショルダーベーコンが一塊4000マルケスで売られているのを見たことがある。

フィーネの手取りは日給600マルケスで一般労働者の平均額より少しだけ少ないが、それを基準にして考えればいかにベーコンが高級であるかが分かると思う。

まあ手取り600マルケスであっても、実は他の労働者よりは恵まれている。

なぜなら食事代と宿泊費用は主人であるクララ様が払ってくれるからだ。

武器や防具だって借りられる。

服はさすがに自分で用意しなければならないが、王都警備隊に入ると制服まで貸与されるので、それだけでもずいぶん優遇されることになるのだ。

「は~美味しかった。こんなに美味しいものを食べているからコウタさん達は大きいのですね」

俺も吉岡もこの世界の平均よりは大きいな。

でもこっちの世界ではイレギュラーもちょいちょい見るんだよね。

余裕で2mを越えてそうな人も何人か街ですれ違っている。

「私もこれをずっと食べ続けたら大きくなれるかな? 胸だってもう少し……」

「やめといたほうがいいよ。胸の前に腹が出ちゃうから」

吉岡がフィーネに殴られているのを横目で見ながら今日の予定を確認した。

本日の旅程は42kmでゴルフスドルフという大きな街にたどり着くそうだ。

ゴルフスドルフにつけば全行程のおよそ半分を来たことになる。

エッバベルクを出発してもう28日か。

随分と遠くへ来たものだ。


 リヤカーの上に座ってうたた寝をしていたら突然フィーネの叫び声に起こされた。

「海! 海ですよコウタさん」

海? ここは内陸のはずだけど……。

「ははは。フィーネ、これがバーデン湖だよ」

クララ様の指し示す先には青い湖が広がっていた。

バーデン湖は南北147キロ・最大幅38キロを誇る巨大な湖だ。

水運業が盛んなことで有名な湖でもある。

今日の目的地ゴルフスドルフもバーデン湖のほとりにある街だった。

ラインガ街道はここで一時水路と陸路に別れるが、俺たちがいくのは水路の方だ。

明日からは船旅になると聞いているので楽しみにしていた。

それにしても大きな湖だ。

これだけ大きいとフィーネが海と勘違いしてもしょうがないな。

しかも対岸は隣国オストレア公国だ。

元々はザクセンス王国の一部だったそうだが、100年くらい前に当時のオストレア辺境伯がザクセンスからの独立を宣言して国家を樹立してしまった。

当然のことながらザクセンス王国とは仲が悪い。

本当は戦争になるはずだったようだけど、当時のザクセンス王国は北からは北方諸国の侵入、東にはポルタンド王国との戦争を抱え、軍をオストレアに向ける余力がなかった。

オストレア辺境伯もその辺は理解していて謀反を起こしたんだろうね。

そういったわけでザクセンス王国は西の広大な土地を奪われ現在に至っている。

でも、国同士は仲が悪いけど民間レベルでは交易が盛んであり対立感情は希薄だ。

元々同じ民族だし、親戚同士が対岸の街に住んでいたりするから当然と言えば当然だ。

その辺の事情もあってか若干の緊張状態ではありながらも、この地域での紛争は起こっていなかった。



 焚火を囲んで俺と吉岡はバーデン湖岸の砂浜にいた。

一足先に次の街であるブレガンツへ向かうためだ。

だって船代が高いんだもん。

ゴルフスドルフからブレガンツへの運賃は人間が一人3000マルケスもする。

馬はもっと高くて5000マルケスだ。

船主にバイクとリヤカーを運ぶのにいくらかかるか確認したら馬と同じ5000マルケスと言われた。

トータルで22000マルケスもかかってしまう。

それだったら俺と吉岡が先行してバイクで湖を渡りブレガンツの街でクララ様とフィーネを待とうということになったのだ。

俺の「水上歩行」を使えばバイクでの走行も問題ない。

だけど流石に水の上を走るのは目立ちすぎるので、こうして皆が寝静まるのを待っているわけだ。

クララ様は皆の船賃くらいの余裕はあるから気を使わなくていいと言ってくれたが、二人分とバイクの運賃は1万1千マルケスになる。

だったらここで節約して次の投資額を増やしてくれた方が俺たちにとってもありがたい。

それに船で10時間揺られるよりはバイクを2時間走らせた方がよっぽど楽でもあるのだ。

どうせ船旅なので従者としてやることは少ない。

身の回りの世話はフィーネに任せて大丈夫だろう。

彼女もすっかり従者の仕事が板についてきている。


「そろそろ行きますか?」

時刻は夜の10時だ。

ボーデンの湖畔にバイクのエンジン音が響き渡る。

「この音で寝ている人を起こしちゃいそうですよね」

その通りなんだけど、こればっかりはどうにもならない。

エンジン音が静かな電動のモトクロッサーもあるにはあるが、確かまだ市販はされてないんだよな。

あれさえあれば隠密行動が楽になるのに……。

「水上歩行」をアクティブにして、おっかなびっくり水の上にバイクを進めた。

大丈夫、沈まないぞ。

「こっちも問題ないです」

リヤカーの車輪もちゃんと水の上だ。

俺たちは水上の上を滑らかに走り出した。


 低く垂れこめた雲が夜空を覆い辺りは真っ暗だ。

バイクのライトは明るいLEDのものに付け替えてあるので視界は悪くない。

それでも何があるかわからないから速度は時速60キロ以上にならないように抑えて走ることにしよう。

「到着はどれくらいですか?」

「ブレガンツまで110キロくらいだから2時間かからないな」

おそらく日付が変わる前にはブレガンツにつくことが出来るだろう。

この時間の港は封鎖されているだろうから街道の近くでキャンプを張る予定だ。


 バイクを走らせて1時間、俺は強烈な眠気に襲われていた。

だけど水上なので吉岡に運転を代わってもらうわけにもいかない。

俺が下りたらバイクは沈んでしまうし、吉岡は後ろのリヤカーに乗っている。

「眠い~。死ぬぅ~」

インカムで吉岡に愚痴ることで何とか眠気を誤魔化しているのだが、もう限界が近い。

「先輩、左方向を見て下さい。小さい島がありますよ!」

これぞまさに天の助け。

あの島で仮眠しよう。

薄れゆく意識をなんとか繋ぎ止めながら島を目指した。


 小さな島だった。

広さは500坪くらいで木がまばらに茂っている。

普段から何かに使われているらしく船着き場が整備されていた。

だけど水上からバイクで上陸できるようにはつくられていない。

大きな岩がゴロゴロとしている岸で苦労してバイクを引っ張り上げた。

俺も吉岡も汗だくだ。

「ごめん……」

「どうしたんですか?」

「すっかり目が覚めた」

我ながら何のために苦労したんだって感じだけど、しょうがないじゃないか! 

バイクを引き上げている内に覚醒しちゃったんだもん。

「もういいですよ……ちょっと休みましょう」

二人して草地の上に寝転ぶ。

湖を渡る風が火照った体に心地よかった。

「湖見てたらうなぎがたべたくなってきたなぁ」

「吉岡……ものすごく同感だ」

次回の送還時には絶対に食べると心に誓う! 

なんか小腹が減ってきたな。

空間収納の中に色々あったはずだが……お、アーモンドパッキー発見!

「川越って鰻も名物なんですよ。海がなかったから荒川とか入間川いるまがわで獲れる鰻や川魚が貴重なタンパク源に――」

となりで喋っていた吉岡の言葉が突然止まってしまった。

「どうした?」

「湖の上に明かりが」

言われて気づいたが暗闇の中にぼんやりと灯りが揺れている。

あれは松明の光か?

「こんな夜中でも船を出しているんだな」

「大丈夫ですかね? 普通の船ならいいけど悪い人間が乗っていたら……」

それは怖い。

海賊、この場合は湖賊こぞくか、そんなのに目を付けられたらいやだもんな。

慌ててLEDランタンを消した。

「先輩、こっちにやってきますよ」

「今からバイクを湖に戻してる時間はないよな」

バイク単体なら何とかなるがリヤカーを繋いでいるとゴロゴロ岩を越えるのが難しくなるのだ。

とりあえずバイクを船着き場の反対側に移動して息をひそめた。


 島の船着き場に小さな船が接舷された。

一本マストで船体は10メートルくらいだろうか。

「やっぱり相手の船はどこにもありませんぜ。まだ来ていないようです」

「おかしいな。白っぽい光が見えた気がしたんだが」

粗野な声が夜中の小島に響いている。

松明の明かりに照らし出される人々は髭面の赤ら顔ばかりでとても紳士的な感じには見えなかった。

「挨拶してみるか?」

「自分は人見知りっす」

顔で人間を判断してはいけないと言うけど、人間の性格はやっぱり顔に現れると思うんだよね。

船でやってきた人達はどう見ても堅気の商売人には見えませんよ。

全員が武器を携帯してるし……。

「どうしましょう?」

「どうするって……パッキー食べる?」

「ノンキだな!」

焦ってもしょうがないだろう? 

見つかっても対抗手段はあるんだ。

それにまだ悪い人達かどうかはわからない。

「いらないの?」

「下さい……あ、イチゴのやつ」

島の隅の暗闇の中で、パッキーを食べながら男たちの様子を窺った。

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