第146話 冒険

 それからしばらくは、思いの外何も起きず、平穏な旅路だった。

 黒山羊の背は快適だった。高級な寝具でもここまではいかないほどの柔らかさと滑らかさで、時が許すなら寝入ってしまいたいほど。

 僕の下にいる山羊の魔物――カズョルが、魔導で造り出された幻影なのか、校長が連れてきた本物なのかは分からない。手触りだけで言えば、本物としか思えない。


「もふもふ……もふもふの楽園……」


『門』と『鍵』の魔導に頭を悩ませているはずのシエスも、定期的に顔を埋めては頬を綻ばせていた。珍しくふにゃりとしている。


「シエス。気を抜きすぎですよ」


 横で窘めるルシャも平然を装っているものの、僕らに見えないところで密かに何度か寝転ぼうとしていた。


 黒山羊の群れが進む速度も、想像よりずっと速かった。丘陵をぐんぐんと飛ばして、王都ももう城壁が見えるころだろう。

 道中、冒険者はちらほらと見かけた。僕らの姿はもう既に、人目にはついている。


 あっという間に酒を空にしたガエウスが、山羊の上で立ち上がった。めけけ、と足元で苛立たしげな啼き声。重かったのだろうか。

 ガエウスに聞いてみる。王国はどう出てくるだろうか。


「どうかな。流石にもう気付かれていると思うけど」


「まあそうだろ。あのじいさんが、『溢れ』直前の面倒くせえダンジョンをほっとく訳もねえ。監視の網から、もう見つけて一報くらいは行ってるだろ」


 ガエウスは目を細めて先を見ていた。空気は徐々に張り詰めている。僕らも、王都も、もしかすると黒山羊たちも、衝突の気配を感じているのかもしれない。


「ただまあ、知るのは早くても、対応しきれるかは別の話――ほら、見えてきたぞ」


 土埃の先、遠くに王都の城壁が見えた。

 今はまだ小さく、でも僕らを阻む巨大な鋼鉄の壁。


 当初の案では、黒山羊の群れの幻影を王都へ雪崩込ませて、僕らは王都に入った後、どこか気付かれないうちに群れと離れて、『門』のあるだろう中心へ向かうつもりだった。

 でも、まだ門の場所は分からない。ならできるだけ、勢いのあるうちに真っ直ぐ、王都の大通り――『王の道』を駆け上がってみる。その間にシエスが手がかりを得られれば上々、そうでなければ、後は出たとこ勝負。そういう作戦だった。


 もう巧拙は考えない。今は真っ直ぐ進むだけだ。


「見た感じ、普通の警備に毛が生えたようなもんだな。矢と魔導が少々ってとこだろ。余裕だな」


 まだ王都は小石程度の大きさなのに、ガエウスはその警備の数をもう見極めているらしかった。


「見てねえよ、気配を数えんだ。あとは勘だな」


「そっちの方が難しいと思うけど」


 もう感心もしなくなってきた。ガエウスの武技はいつまで僕の先を行くのだろう。

 まあ、そのままずっと先にいてくれて良いのだけれど。追い付くのはまだずっと後でいい。それだけ、これからの日々を楽しみにしていたい。


「まだ門は開いてんな」


 それは流石に僕も見えた。

 正面に聳える王都の象徴、主門は、まだ大きく開いたままでいる。けれど今ごろ、大急ぎで閉門作業を進めているはずだ。


「日中は門をほとんど閉めないからね。いちいち開け閉めするには大きすぎる。商いが成り立たない」


 王都はもう長いこと平和の中にある。主門は、防壁としての門というよりは、王の威光の象徴として見られることの方が多い。


「ただまあ、この前襲撃があったばかりだから、流石に今回は――」


「ああ。もう閉まり始めてんぞ」


 門が動き出した。僕にはまだ動いては見えないが、ガエウスには、主門が土を削る音でも聞こえたに違いない。


「あんときゃ酷かったもんな。軍なんて腑抜けそのものだった。俺たちがいなきゃ、もっと死人が出てたぜ」


 あの時。まだ僕ら『守り手』に、ユーリがいた頃。王都では魔物による不可解な襲撃があった。どのダンジョンにも兆候はなく、軍も冒険者も、誰ひとり気付かないうちに、王都のすぐ脇で魔物が突如湧き出した。

 当時の僕は、拠点にしていたティティの宿と、仲間みんなの身を守るだけで精一杯だった。ガエウスが嘯くほど大したことはしていない。


「あれも今思えば、不可思議な事件じゃったの」


 酒瓶を直に咥えて、底まで空っぽにしたらしいヴィドゥヌス校長も僕らの会話に加わった。

 一目で酔っ払いと分かる赤ら顔だけれど、眼は全く普段通りで、本当のところは酔っているのかいないのか。


「あの後、わしら魔導師は王国に頼まれて色々調査したが、なんも見つからんかった。新しくダンジョンが生まれた訳でもなかった。普通、魔物は魔素の濃いところで、その地の生物が時間をかけて溶け合って、魔に至るもんじゃ。じゃがあの時は、全く違った」


 校長が調査されていたことは、僕も当時から知っていた。

 あの時は自分の未熟さと、守り切れた達成感にばかり意識がいって、あの出来事の裏にある不穏を気にもしなかった。


「魔素の濃さも何も異常はなかったんじゃ。明らかに、なんの前触れもなく其処に湧いて出た。それこそ手品か、魔導のように、の」


 魔導のように、か。

 なんとなく、あの襲撃さえ、僕らが今まで見てきたものと繋がっているような気もする。それが王国、帝国による陰謀なのか、それとも『果て』の住人による凶行なのか、判然とはしないものの。


「『果て』も魔物も研究成果はさっぱりって、駄目駄目じゃねえか。校長先生よぉ」


「そうなの。だからわしもう校長辞めたい。ナシトに押しつけたい」


 ほろ酔いには違いない二人が、ぐははと笑い合って、この話は終わった。

 王都はもうかなり近く見えている。見るからに魔物の大群だ、警告もなく攻撃されるだろう。いつ矢が飛んで来ても不思議ではない。


「さて。向こうもだいぶ本腰を入れつつある。こちらも山羊の駆け足を、全速前進、尻を叩いとるが、ちょいと間に合わなさそうじゃの」


 間に合わない。門が閉まりつつある。今度は僕にも見えた。軋む音まで聞こえる気がした。

 校長が僕を見る。深い眉の奥、愉しげな眼には、どうする、と書いてある。

 どうする。考えるまでもなかった。いつも通りだ。


「矢と魔導は、校長先生とシエスでお願いします。門は僕が」


 そう言って立ち上がる。柔らかい毛並みの上、慎重に歩を進めて、山羊の群れの先頭を目指す。


「ほいきた、任されて。シエスは『果て』探しに集中しててもいいぞい」


「……『壁』を張るくらい、探しながらでもできる。門も、壊せる。あれくらいなら」


 シエスはやる気に満ちていた。ふんすと息をついている。

 いや、やる気というよりは、苛立ちに近いか。見つけ方も分からないもどかしさ。ちょうど目の前には、違う門がある。巨大でも、シエスなら魔導でどうとでもできてしまう、目に見える壁。

 気持ちは分かるけど。笑って、首を横へ振る。


「壊すのは駄目だ。僕らは王都を脅かしたい訳じゃないんだから」


 シエスは何も言わず、すんと鼻だけ鳴らした。

 眼はもう遠くを見ていた。考え事をしているときの無表情。

 僕もまた歩き出した。群れの端まで来て、最後に肩越し、校長へ伝える。


「門を抜けたら、できるだけ真っ直ぐに。山羊の、魔導は、いつ放つかは任せます」


 手筈は既に話し合ってある。また伝えたのは、僕の癖だろう。

 手は震えなくなっても、習慣はそう簡単には抜けない。


「あい分かった」


 涼しげな返事。

 僕はそのまま、群れから離れようとして。


「あの時を思い出すのう。儂に預けられて、ロジオンに置いていかれて、泣き喚いておった」


「わめいてない」


「ほほ。――若い時代はあっという間よ。今この時も、いずれ思い出になる。いつか年老いて、過去を肴に酒を呑むようになる。あの時は馬鹿だったと、愚かであればあろうほど、酒は旨い」


 会話が聞こえた気がした。


は、随分と良いつまみになりそうじゃの」




 山羊の背を、できるだけ優しく蹴って、前へ跳ぶ。


「展開」


 発動句を唱える。兜と鎧が僕を飲み込む。

 地を、『力』の限り強く蹴って前へ駆けた。足元で土が吹き飛ぶ音と同時に、遠くで空気がぶんと震えた。

 弓の弦が一斉に弾けた音だった。


 矢が飛んでくる。かなりの数だ。想像よりずっと多い。

 標的は僕ではない。僕の後ろ。


 そのまま無視して、もう一歩跳んだ。

 風を突き抜ける。


 王都の主門はもう近かった。ほとんど閉じかけている。門の隙間から差す逆光は既に細く、かき消えそうだった。


「なんだ貴様――と、止まれっ」


 警備らしき王国兵の一人が、僕に気付いて叫んだ。兵はカズョルの群れを阻むように、数十人が列を成していた。

 まだ遠いが、あと数歩でぶつかる。相手をしている時間はない。


 兵列の前。

 思いきり踏み込んで、斜め前へ跳んだ。

 ぐんと伸びて、警備の頭上、すれすれを跳び越す。槍も剣も、構える隙は無かったはずだ。穂先が僕の鎧を引っ掻く音も、鞘走りの金切りも、全く聞こえなかった。


 主門が、鈍く黒い門扉が目の前へ迫る。

 止まる暇はない。足で数度、地を引っ掛けて僅かに減速して、門を僕の体当たりで壊さないようにして。

 それでもほとんどぶち当たるように、門へ飛び込んだ。

 門扉の隙間へ両手を挿し込んで、止めた。

 隙間はもう、腕しか入らなかった。掌を目一杯広げて、無理矢理押し止める。


 間に合った。


 門を打ち破る訳にはいかなかった。門は都市の要だ。破れば魔物が群がる。ティティもきっと怖がるだろう。

 これしかなかった。僕がこじ開けるしか。


 刹那、門がぐんと重くなった。

 門扉の鉄縄を引く人手が増えたか、魔導で押したか。

 鎧がぎしりと軋む。重い。

 後ろからは、金属音。殺気がいくつも僕の背に迫っていた。兵が来る。


 指へ『力』を込めた。右腕の違和感が疼く。問題はなかった。

 門へ爪を立てるように、指を押し込む。主門は分厚い鋼鉄だ。ただの鋼鉄。


 初めて見たときは圧倒されるだけだったな。見たことのない高さと大きさ。

 でも今はもう、負けない。ただの鉄の塊に、負けるはずもない。


 息を止めて、腰溜めに、押す。指が手甲ごと、門へめり込んだ。

 ――やり過ぎた。そう思っても、止めようもない。


 そのまま両腕を、外へ叩きつけるように振るう。『力』が迸る。


 門扉が、轟音とともに弾けた。

 門の下端が地を思いきり抉り取りながら、勢い良く開いて、城壁と激突する。



 その衝撃で、王都が揺れた。



 僕を追っていた王国兵も、みな倒れ伏している。


「ロージャ、此方へっ」


 後ろ、声の方を向く。一瞬、目を疑った。

 黒山羊の群れが飛んでいた。道を塞いでいた王国兵の上、何もない中空を泳ぐように駆けている。

 茫然と見上げている、兵の槍は全て折れていた。穂先だけもげている。ガエウスの矢に食い破られたのだろう。


 群れに埋もれながら、ルシャが僕へ手を伸ばしていた。

 呆けている場合じゃない。すぐ跳んで、手を取った。


「飛べるなら、門を開ける意味、なかったんじゃ……」


 山羊の鳴き声にまた包まれつつ、思わず口に出してしまう。


「城壁までは越せんよ。こりゃちょっとした、小粋な演出ってやつじゃ」


 ヴィドゥヌス校長は歌うように杖を振っている。

 振るたびに、山羊の群れは明らかに増えていた。城壁へ半ば食い込んだ主門を越えて、黒い波が王都の入り口を埋め尽くしていた。……山羊を増やすのは話していた計画にない。まあ、もうこの程度では驚きもしないけれど。

 どこまでが魔導なのか本物なのか、僕には分からない。大魔導師さまの良心を信じるしかない。



 少し浮いた黒山羊の群れに乗ったまま、王都へ入る。

心なしか、山羊たちの声も愉しげだった。空を駆けるのが心地好いのだろうか。そうだと良い。



 また王都へ帰ってきた。

 此処からどうなるか。一瞬先も読めない、いつも通りの冒険が始まっていた。

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