最終章
第141話 ヴァスクレス
光の中を落ちていく。
前も後ろも白しか見えない。目を閉じても、瞼の裏まで白で染まる。
以前と同じ光の奔流。違うのは、何故か身体を、四肢を動かせない。周囲を見回すことさえできなかった。声も出せないから、皆の無事を確かめる術もない。
何かがおかしい。何もできず落ちていく。
ふと、声が聞こえた。
“――
誰の声だろう。パーティの誰かのものではない。低い、男の声。
僕に語り聞かせているのか、それともただ、独り言なのか。分からないまま、男は轟音の中悠然と語り始めた。
“目覚めし獣は、初めに目覚めた。その『志』はまず我らを啓き、獣に知恵を齎した。我らは友で、ただ友情から共にいた。原初の者たるヴァスクレスに、敬意を抱くものもいたが”
“ヒトが現れたのはその後だった。南を泳ぎ渡ってきたか、二足の獣から変じたか。瞬く間に増えて、いつの間にやら地に満ちていた。その頃にはもう騒がしい生き物だったな。好奇心のみで、私の寝床まで掘り抜くほど”
“ヴァスクレスはヒトを愛した。それ自体は珍しいことではない。
声の主の姿は見えない。頭の中で響くだけだ。昔を懐かしむような声には、舌を鳴らす高い音も時折混じっている。
僕の脳裏には、とぐろを巻いて眼を細める、大蛇が見えるような気がした。
アルマスクヴェリ。声の主が彼だったとしても、僕へ語る理由は分からない。
声は変わらず、続きを語り始めた。
僕はただ、聞くしかできない。
“ヒトもまた、原初の獣を愛した。強大な力で慈愛のままに導く獣を、神と呼び崇めるのも早かった。ヴァスクレスに乞われれば、他の獣もヒトに手を貸す他ない。そうしてヒトと獣は長い間、共に過ごした。楽園ではなかったが、『志』は我らに等しく在り、意志を以て苦難を超え、心砕けた者から死んでいく。ヒトも獣も変わりはしなかった。全て、『巣』が現れるまでは”
“今でも憶えている。『巣』は、『果て』は空を切り裂いて墜ちてきた。墜ちてすぐ、魔を振り撒き始めた。初めに触れたのが、ヒトであったことが全ての始まりだったのだろう。ヒトの満ちるより遥かに早く、魔は世界を覆い尽くした。そしてヒトは、魔に魅入られた”
“魔の危うさは、知っているか。生温い意志でも、載せれば世界を歪め得る、魔は劇薬のようなもの。弱きヒトは容易く溺れ、代わりに『志』を失っていった。ヒトの意志は頼ることに慣れ、世界を穿つ狂気を失くした”
“ヴァスクレスはそれを赦した。そもそも奴は何も求めてなどいなかった。ただ護れれば良いと笑っていた。ヒトが『志』を失い、崇める先を魔へと変えても、奴は友で在り続けた。神などではなく、良き友でいたかったのだろう。ヒトはそうでなかったが”
声は続く。
僕はうまく集中できずにいる。感覚がおかしかった。ずっと光の中へ落ちているはずのに、身体は進んでいない。時の感覚が狂っているのだろうか。
声が語る内容も、僕には壮大でありすぎる。世界の真実を語り聞かせられているような。
釈然としないながらも、声はそんなこと意にも介さずに、滔々と語り続けている。
“魔の劇毒は、ヒトを蝕む。命まで喰われてもヒトはそれを手放さなかった。ヴァスクレスは危うさを説いたが、最早誰も聞かなかった。『志』は、ヒトには重すぎたのだ。世界をも貫く意志より、吸えば扱える魔を選んだ”
“ヴァスクレスはそれでも、ただ友として憂いていた。ついに、親しい友たるヒトと獣を率いて、『果て』を除きに赴いた。恨まれてでも救わんとした。それをヒトは愚かにも、跳ね除けてしまった。魔と手を取って、目覚めし獣に剣を向けた”
“あの時の絶望も憶えている。嫌気が差して遠く寝ていた私にさえ届く嘆きだった。見返りなど求めず、強さも請わず、ただ友でありたかった神も、愛だけは求めていた。それに気付いた時には、全てが遅かった。ヴァスクレスの絶望は獣へ遍く染み渡り、獣はヒトと魔を憎み始めた。憎しみは僅かな内に膨れ上がり、すぐに殺し合いが始まった”
“それからは、知っての通りだ。魔は戦いの果てに獣を屠り、ヒトは獣を忘れた。忘れたのは、あの魔女の仕業だろう。ヒトも魔さえも愛した奇人が、その『志』で世界を塗り替えた。昔の通り、大仰にヒトを試したか、それとも魔を護ったか”
“ヴァスクレスも報われんよ。裏切られてなお、消えゆく最期にヒトの幸を願ったのに。その強大な『志』が千年もの間、魔の呪いを遠ざけて、ヒトは喰らわれずに在れたのに、な。ヒトは自らの栄華を誇るばかりだった。ついに願いは潰えて、魔の毒は世界を冒し始めた”
声が笑う。
父神ヴァスクレス。『果て』の襲来。魔の呪い。これまで断片的に知っていた数々を、初めてひと繋ぎに聞いた気がした。
頭の整理はまだつかないが、それが太古の隠された歴史、王国と帝国が『果て』を守る理由なんだろうか。
声はまだ出せない。身体はほとんど動かないままでいる。でも僕は、叫び出したい気分だった。
『果て』の存在。僕が冒険だと思っていたもの、小さな頃からユーリが憧れ続けて、僕もいつしか思い描いていた旅の果てが、ずっと昔から人の手垢に塗れたものだったと突き付けられた。
お伽話の真実が、本当に夢のような話だなんて信じている訳ではないけれど。こんな結末じゃ、ガエウスだって満足しないはずだ。
“お前のことは、よく知らぬ。私はヒトなどどうでもよかった。だが、私の寝床を掘り抜いた、喧しい髭の小人と、契っていたのでな。面白いものを見せたら、代わりに一つ、面白い話をしてやると”
“奴はいない。ヴァスクレスも、残滓すら消えてしまった。お前に話したのは、何故だろうな”
恐らくは神獣の昔話。
僕はそれを聞いて、不満を、もっと言えば苛立ちさえ感じている。僕の望む冒険は、もっと違う形だったはずだ。
国の欺瞞へ立ち向かうとか、世界の謎を解き明かすとか、そんなことじゃなかったはずだ。
僕がしたいのは。見たことのないものを、感じたことのないものを、仲間の皆と一緒に見つけに行く。一緒に驚いて、はしゃぐ皆を見て笑う。
そんな、もっとちっぽけで、ずっと大事な冒険だったはずだ。
それを改めて思い出した。
声が続く。でも僕はもう、あまり聞き入ってはいなかった。
“獣の時代はとうの昔に終わり消えた。魔の時代は千年続き、今再び、弾けようとしている。ヒトの時代となるか、世界ごと魔に呑まれるか。小さき護り手、お前が、区切りをつけるのかもしれぬ”
――勝手に期待しないでくれ。僕らは僕らの望むように生きる。その生き方を、邪魔するなら叩き潰すだけだ。
僕らはただの、冒険者なのだから。
“ああ、それもいい。したいようにすればいい。時を弄るのもここまでとしよう。精々面白い譚にするといい。私がいつか、奴へ語って聞かせられるよう”
始まった時と同じように、声は唐突に途切れて消えた。一瞬、『転移』の光が明滅して、身体がふっと弛緩する。
手を握り込んでみると、意図通りに動いた。神獣が僕に何かをしていて、今それから解き放たれたのだろう。
すぐに身体が、『転移』の奔流に呑まれて、宙へ投げ出されるような感覚に陥る。
皆と離れすぎていないだろうか。誰か、特にシエスは皆からはぐれてはいないだろうか。
不安に思いながら、同時に強く、脳裏に焼け付く思いがあった。
王都にも『果て』にも、僕の目指す冒険が無いのなら。
このいざこざなんて叩き潰して、僕らは先へ、次の冒険へ行こう。
皆はきっと、頷いてくれるはずだ。
そう信じて、今度こそ『転移』の先へ、身を任せた。
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