第139話 確かなもの
不思議な感覚だった。
振るった鎚の頭が、形のないはずの魔導を捕えて喰い破る。
僕にとって躱すか盾で凌ぐかしかなかった魔導というものを、正面から打ち破る、初めての感触。どうやっても届かなかったものを、生まれて初めて打ち抜く一撃。
カカフの歓声はもう怒号じみていた。
僕を覆う黒は僅かな抵抗の後、呆気なく消し飛んだ。新しい鎚――『一心』が放った白銀の光も、振るった一筋を最後に消えて、視界が開けた。
目を向けた先、ヴロウが見える。表情は変わらない。僕へ向く殺意は、増していた。魔を破られたことに動揺は無いようだった。
こちらも、新たな鎚の感触に浸っている暇は無かった。ここからが本番だろう。
すぐに真横へ跳んだ。ほとんど同時に、僕が数瞬前まで立っていた地へ黒い棘が突き立つ。
ヴロウは既に消えている。気配の位置も分からない。けれど明確に、殺意が僕を囲むように滲んでいる。
何処からか声が聞こえた。嘲りを隠そうともしないヴロウの声。
「神具。魔を呪う過去の遺物。かつて魔に滅ぼされた獣を頼るとは、愚かだな。結果は同じだというのに」
神具か。大層な名前だ。
この男は、この鎚に込められたドワーフたちの想いにも、夢の果てにも気付きはしない。ただ属性だけを比べて、嗤う。
真後ろ、空気が僅かに揺れた。
盾へ持ち換える隙はない。首筋へ迫るヴロウの拳へ、振り返りつつ鎚を振り当てる。
鈍い音がした。
「常人より少し眼が良い。肉体を限界まで鍛え上げている。私と打ち合えるのは確かに、努力の賜物と言える。だが、それだけだ」
拳を数度繰り出しながら、ヴロウが語る。魔導を放たないのは余裕の表れだろうか。僕は、初撃以外には鎚を振るわずに、後ろへ跳んで躱した。
「何も越えられはしない。持たざる者に、魔も、世界も、揺るぎはしない」
この男、驚くほど隙がない。武器ひとつ持たない構えなのに、頭の中でどこから攻めても、挫かれて二撃目に繋がらない。
『一心』のおかげで、大きな魔導ですり潰される心配はないものの、ヴロウ本人に隙がなければこちらも致命打を放てない。
どうしたものか。考えていると、上空、むすりとした気配が膨らむのを感じた。
「べらべらうるさい。これで、終わり」
シエスだった。
慌てて大きく後ろへ跳ぶ。すれ違いざまに、冷気が鎧を抜けて肌を刺す。遥か上から、無数の氷柱がヴロウめがけて殺到していた。
ヴロウは一歩も動かない。僕を追わず、棒立ちでいる。恐らくは例の闇で全て呑み込むつもりだろう。呆と立ち尽くすように見える姿に、僅かな隙を感じる。
好機、とは思えない。動かないのは誘っているとも取れる。僕かルシャが追撃してくるのを待っている。罠かもしれない。ほぼ罠だろう。
でも、飛び込む。そう決めた。
目の前で、シエスの魔導が案の定、ヴロウの闇に呑まれて消えていく。ヴロウの真後ろには、剣を振りかぶるルシャが一瞬だけ見えた。
ヴロウは振り返らずに、裏手でルシャの閃刃を弾いた。ルシャが体勢を崩しかける。
僕は地を思いきり踏み蹴って、ヴロウとの距離を詰めた。握り込んだ『一心』がまた白く輝く。跳んだ勢いのままヴロウの横腹を抉ろうとして。
「軽いな」
ルシャと同じように、僕の鎚も拳で防がれた。構わずに鎚を振り切る。
衝撃で、ヴロウは僅かに重心を浮かせて、横へ数歩分動いたものの、効いた雰囲気はなかった。反撃に移ることもなく、平然とこちらを見ている。
「……しぶとい」
シエスの声はまだむすりとしている。緊張感がないのは、いつものことか。
攻めあぐねるこちらと、余裕を見せるヴロウ。僅かにできた猶予に、考える。
ヴロウの強さは、第一に魔導だ。分からないのは、魔導以外、その武技の程。
果たしてそれは、彼自身が体得したものなのか。
まるで虚空から現れたかのように気配を極限まで消していたルシャも、瞬時に把握された。
続けて僕が狙ったのは、ルシャの剣を受け止めて空いた側の脇だった。そこへヴロウは瞬時に腕を戻し、守ってみせた。
それ自体は不思議ではない。ガエウスだってそれくらい軽くこなしてみせる。奇妙なのは、ヴロウの武技において、目線や呼吸に僕らの攻めへ呼応したような動きが無かったことだ。戦闘中、ガエウスでさえ微かに見せるような、動作の予兆が一切無かった。
技巧と言うには人間離れしすぎている。これも恐らくは魔導だろう。ただの肉体強化――『靭』ではない、僕の知らない魔導。
考えているうちに、僕らとヴロウの間に黒い拳がいくつも現れていた。シエスの魔導。刺々しい気配を纏っている。
「どんどんいく」
「魔素の量も無尽蔵か。規格外だな」
ヴロウが愉しげに笑った。黒い拳の連打を、踊るように躱し始める。僕とルシャのことなど忘れたように、放置している。
ひとつ息を吐いた。警戒は解かず、考える。
ヴロウは分かりやすい。全てが魔導に繋がっていく。彼の強さも、全てが魔導によるものだとすれば。
僕はそれをどう打ち破る?
脚を止めた僕の横へ、ルシャが駆けてきた。僕のすぐ傍で、声を落とす。
「ロージャ。貴方の鎚、恐らくは効いています」
「そうかな。あまり響いていない気がするけど」
視線の先からヴロウは外さずに、言葉だけを交わす。ヴロウはシエスの魔導を愉しんでいる。
「鎚を防いだ後、あの男の周囲から魔素が勢い良く減っていました。あの光に魔導を散らされて、展開し直しているのでしょう」
魔素か。やはり、源は魔導。
魔導を貫く術は手に入れている。でも、打ち負かすには足りない。神獣の武具も、手段でしかない。
魔の極地にいるヴロウを叩き潰すには、同じだけの究極をぶつける。僕が持つとっておきをぶつける。
それは、神具でも『力』でもない。
「だからといって、どうにかなる訳でもないのですが……。此処はエルフの森、魔素はそれこそ、湧き出すように――」
「ありがとう、ルシャ。おかげで思い付いたよ。ヴロウの倒し方」
ルシャの言葉を遮ってしまった。見えた答えに、知らず興奮している自分がいた。感じ取ったのか、ルシャが思わず僕を見る。
「我慢比べだ」
言って、僕は笑った。ガエウスのように、獰猛に見えたかは、分からない。
僅かな準備の後、僕は全力で跳んだ。
地を踏み蹴って、真っ直ぐ、ヴロウの目の前へ。シエスの黒い拳も気にせずに、乱打の只中へ。
ヴロウの気配が僕へ向く。視線が分かりやすく嘲りの色を帯びる。
「邪魔をするか。貴様は最後に、縊り殺す筈だったが」
飛び込みながら、鎚に『力』を込める。惜しみなく全力で。
ヴロウの脳天目がけて鎚を振るう。隙の生まれやすい縦振りでも、構わず振り切る。
激突する瞬間、ヴロウは消えた。笑みさえ見えた気がした。
消えた跡、何も無い地に、『一心』の頭が落ちる。刹那に指と、手首の力を全て抜く。鎚の芯を軽くする。
鎚は地面を叩いて、抉りはしなかった。地に弾かれて、頭が跳ねて、上へ返る。
感触に、切株を掘り起こした後の整地、森で土を叩いた昔を一瞬だけ、思い出した。
なんだよ、随分と余裕だな。
死地の中でも思考に空白がある。自分に笑いそうになる。
すぐ横、迫っていたヴロウの拳を、鎚の小振りで打ち返した。『力』を込めて、『一心』が光る。魔素を散らす。
そこからすぐに、連打を繋ぐ。
大小問わずに、振りかぶる。打ち付ける。ひたすら攻めて、ヴロウの拳を殴り続ける。
息をする隙はほとんどなかった。
風を裂く轟音と、金属音。その中で、ヴロウはまだ涼しげに嗤っていた。
「考えるのを止めたか。雑魚にしては潔い」
豪打の怒濤を拳で受けて、ヴロウは堪えた風もない。拳の動きはいなす訳でもなく、僕の鎚を正面から、不自然に止めていく。
時間はかけられない。敵は国そのもので、猶予を与えれば次の手を打ってくる。その分窮地に陥るのは僕らだ。
ヴロウの魔素を散らすために、神樹の森、『神の畔』へ移るのも、駄目だ。フリエルさんたちから離れすぎる訳にはいかない。
僕はただ、打ち続けて、魔素を散らす。僕の『志』と体力が尽きるのが先か、ヴロウの魔が崩れるのが先か。
完全な策ではない。いつにもまして行き当たりばったりの、穴だらけな計画だ。
乱打の中で、ちらと上空のシエスが見えた。顔までは見えなかったけど、きっと不安げに見ているのだろう。
シエスにはルシャ経由で指示を出してあった。規格外のシエスといえど、この地全ての魔素を吸えるとは思えない。けれど、ヴロウの周りに浮かぶ魔素を減らすことくらいは朝飯前だろう。
打ち続ける。ヴロウの拳の重さはまだ変わらない。
「魔素を抜く、か。小賢しいな。その程度で、私が潰れると思ったか?」
「……」
「散らされた魔を吸い直して、私が魔素に酔うとでも? 舐められたものだ。埒外の存在が、小娘だけだと思ったか?」
僕の鎚を捌きながら、ヴロウは無表情に、目だけが嘲笑うように光っている。
早くも気付かれた。気付いてもなお、ヴロウは揺るがない。
「次はなんだ? どうやって私を超える? ロートリウス卿の不意打ちでも狙ってみるか」
無視して、打ち続ける。
こちらも、帝国の臨戦官がこの程度で崩せるとは思っていない。この調子なら、魔素酔いで自壊するなんて望むべくもないだろう。絶対に僕が先に駄目になる。
ヴロウは少し前から攻めず、守りに徹するようになっていた。この我慢比べに付き合っている。僕をとことん絶望させたいらしい。好都合だった。
打ち続ける。風と金属音。時折僕を包む柔らかな光は、ルシャのものだろうか。考える余裕はなかった。
息が苦しい。でもこの程度、どうということもない。毎朝の鍛練でさえ、この程度は追い込んでいる。
苦しくとも、鎚の振るい方は知っている。身体が憶えている。
鎚が重くなってくる。『志』が粘りを増したような錯覚もする。右腕の違和感さえ強くなっている。
シエスが立ち直って前を向いても、僕の腕に残る何か、黒い魔導の痕は消えなかった。
でも、もう気にならない。違和感なんて、呑み込んでみせる。
この程度、もう全て、超えてきた。
打ち続けて、息を吸うのも忘れて、ようやく、一瞬。
ほんの僅かに、変化が見えた。
ヴロウが振るう拳の、初動が微かだけ遅れ始める。拳の芯に柔らかなものが混じり始める。鎚を振り抜いた後の、柄を伝わる重みがずれて気付いた。
誤差とも言える、ごく僅かな乱れ。
ヴロウはまだ嗤っている。自分の変化に気付いていない。間違ってはいなかった。僕は正しく敵を捉えている。
今度こそ、好機だった。
振りかぶる。鎚を大きく、横薙ぎに。
ヴロウの拳が、これまでの何百と同じように、鎚の頭を迎え撃つ。
『力』は込めなかった。ただ僕の力だけで振るう。鎚の疾さは変わらずに、光だけが鈍く落ちた。ヴロウは、気付かない。
鎚は簡単に弾かれた。
「軽い。何度打とうと――」
軽くしたんだ。さっきよりも。
ヴロウの拳は鎚の重さを取り違えて、常より前に流れている。上体が開く。
そこへ、思いきり踏み込んだ。足が地を抉る。
開いた身体へ、肩をぶち当てる。
「――っ!」
ヴロウの防御は初めて間に合わなかった。胸を吹き飛ばす勢いで突進した。当たったが、肉を突く感触ではなかった。恐らくはこれも魔導。
息が触れ合う距離。ヴロウの目が至近に見えた。見開いている。
まだ気付いてはいまい。
眼の動き、戦場の音、気配のちらつき、武具のしなり。戦いを形作るそれらを、ヴロウは意識しない。これまで、意識する必要すらなかったのかもしれない。
魔素と魔導。あるのはそれだけだ。
ほんの僅かに溜まった疲労も、魔素の毒も、膨大な魔の才で塗り潰す。そんな男に、負けるはずもない。
ヴロウが後ろへ吹き飛ぶ。土煙が上がる。
結局は防がれたが、体勢は崩した。逃さない。
踏み蹴って、前へ跳ぶ。もう一度鎚を握り込む。
息が上がっているのに気付く。身体と、瞼が重い。
でも、まだ走れる。身体の芯は少しもぶれていない。
正面、土煙の中で、殺意が弾け飛んだ。
「ふざけた男だ。転ばせて、破ったつもりか」
嘲りではなく、怒りに満ちた声。
視界が急激に暗転した。煙越しですら見える黒。漆黒の球がヴロウを呑み込んでいた。
憎悪に呼応するように、闇は波打って、ぐつぐつと沸き立っていた。
鎧の下、全身が総毛立つ。
「もういい。死ね。――『
呪詛と共に、闇が溢れ出した。
黒い奔流が僕に向かって、大蛇のようにのたうち迫る。闇の這った跡はごそりと抉れて、何も残らない。
触れれば一瞬で跡形もなく消えるだろう。
考えるより先に、鎚が一際強く瞬いた。『力』を纏って、鎚に白銀の文様が浮く。
一歩、前へ跳んだ。跳びながら、振りかぶる。
黒が目の前へ迫る。冷気に似た薄ら寒さを感じる。感じても、手は震えなかった。
何もかも超えてきた。
仲間と、鍛練と、持ちうる全てで。それが僕だ。
仲間と僕の旅路を、僕らの超えてきたものを、為した冒険を。
何よりも、僕自身を、
僕はもう、心の底から信じている。
目の前の黒へ、『一心』を振り放つ。
叫ぶ。
『
振り抜く。闇の頭を、鎚の光が喰い破っていく。
ガエウスの、山吹色の一撃に呑まれた大蛇のように、闇は一瞬で掻き消えた。
意識を目の前へ戻す。ヴロウは立ち上がっていた。僕を見ている。変わらずに殺気立っていて、けれどどこか、視線が揺れ始めていた。
大きな魔導を放ってようやく、身体に蓄積したものに気付いたか。不利を悟って、警戒を強めたか。
僕はヴロウの前に立ち、構えた。
『力』を使い過ぎて眼の奥がじんと痛むけれど、構えには何の影響もない。この程度で揺れるような鍛え方はしていない。
「魔導は効かない。全て吹き飛ばす」
淡々と告げる。ヴロウの無表情に、余裕はもう見えない。
「殴り合いなら、どれだけでも続けられる。君を叩き潰すまで、止める気はない」
はったり含みだけど、見破られる筈もない。ヴロウにそんな眼はない。もう見極めた。
「……雑魚が。随分と、粋がる――」
「此処で殺す。そう決めた」
話すのはもう終わりだ。ここからはただ、叩き潰すだけ。潰れるまで殴り続けるだけ。
ヴロウにもまだ、引く気は見えない。けれど明らかに、違和が生まれている。
仕切り直しだ。鎚を握って、前へ跳ぶ。
「もう手遅れ。ロージャを怒らせた」
ふと聞こえたのは、僕でもヴロウでもない、場違いに自慢げな声。
いつの間にか、僕の後ろにいたシエスのものだった。
それからは、一方的だった。
勿論、隙を見て逆転の魔導を放とうとするヴロウに気は抜けなかったけれど。ルシャとシエスの牽制もあって、ヴロウは追い込まれていった。
僕の鎚がついに右腕を圧し折ってからは、早かった。
胸を潰して息を止め、返しの一撃で顎を砕いて、終わりだった。
ヴロウの身体中から血が吹き出す。
「……馬鹿な。この私が、木樵などに……」
最期の言葉を遮って、頭蓋を真上から潰し割る。
動かなくなったヴロウの前で、ようやく深く息を吐いた。
千を超えて打ち合い、幾多の魔導を打ち払って、それでも僕は立っている。全身が汗みずくだった。
頭の奥が軋んで、気を抜けば意識を失いそうなほどの眠気さえ感じる。それでも、僕が鎚を握っていられるのは。
僕が積み重ねた鍛練の証。魔導でも『志』でもない、僕自身の強さだ。
気が付くと、自身の手を見つめていた。
そんな場合じゃないのに、まだ切り抜けるべき危機の只中にいるのに。すぐにガエウスと、ナシトの元へ駆けるべきなのに。
手の中に確かなものを、ようやく掴めた気がして、どうしようもなく嬉しかった。
らしくない感慨に、今は少しだけ浸っていたかった。
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