第138話 一心
突如現れた赤い龍——いや、赤い蛇。
アルマスクヴェリと呼ばれたそれは、エルフの森の木々を抜けて上空をゆるりと泳いでいる。
騒乱の只中に、また訳の分からないものが現れた。
カカフとドワーフたちのはしゃぎようを見るに、あれは神獣で、彼らの探し求めた浪漫の果てということなんだろうか。
敵か味方かはまだ分からない。ならばまずは、目の前のことだ。
「……あれは、一体」
「神獣か。魔に滅ぼされたはずの巨獣。全く、ふざけたことばかり起きるものだ」
困惑しきりのニカさんと、変わらないヴロウ。二人ともまだ動きはない。
ニカさんは何も知らないのだろうか。王国は自身の軍にさえ何かを隠している。今更それが分かったところで、窮地を脱する機にはならないけれど。
“忌々しい森人の囲いが消えて、久方ぶりに出てみれば。何も、変わらんな”
頭の中に声が響き渡る。低く重く気怠げな、男の声。
アルコノースと邂逅した時のことを思い出す。恐らくはこれが、アルマスクヴェリの『志』の声ということか。
“ヒトの子は、幾星霜を経て未だ、魔を解らずいると見える”
ケルキダ=デェダが小さく見えるほどの巨躯が、近付いてきていた。眼は此方を向いている。鋭い蛇の眼には明らかに知性の光が灯っている。
“……ヴァスクレスと、奴が逝ってからどれ程寝ていたか。どれ程経とうと、ヒトはまだ愚かなままか”
「愚かではないさ。我らは魔を掌握し『果て』を護り、世界に栄えた。魔を疎んじて滅んだ獣よりも、遥かに賢く生き延びている」
神獣に対してさえ、ヴロウは眉一つ動かさずにいる。
……帝国は、戦闘要員でしかないはずの臨戦官でさえ、神獣についても熟知しているのか?それともヴロウが特殊なのか。
そんなことを気にしている場合じゃないのに、世界の秘密がまた、僕の頭に引っかかる。
幸い、この場にいるほぼ全員が、アルマスクヴェリの動きに注目しているから、隙を突かれずに済んでいるものの。
「おいロージャ、どうすンだっ! 触手野郎もそろそろ動き出すぞっ」
ただガエウスだけが、神獣ではなくこの場全てを見ていた。僕も我に返る。見ると確かに、大蛇の群れは神獣へ警戒しつつも、僕ら獲物へ向き直りつつある。
“ヒトの繁栄を護ったのは、貴様らが捨てた神であるのに。ヴァスクレスも、浮かばれんな”
僕は一歩、跳んでヴロウとニカさんの前から消えた。二人から反応はない。僕の狙いが攻撃でないことを察しているのだろう。
僕は一瞬で、少し離れた地に立っていたカカフの目の前まで跳んだ。
ナシトはもう気配を消して、何処かへ消えた。ならば僕が位置を変えても問題ない。そう思って、カカフの護衛を優先したけれど。
「アルマスクヴェリ! アルマスクヴェリっ!」
カカフとドワーフの戦士たちは、僕に気付いた風もなくただ叫んで、歓喜を場へ叩きつけるばかりだった。
“叫ぶな。土小人の嗄れ声は、嫌に響く”
アルマスクヴェリの声に呆れが混じる。
でも、不快に震えているというよりは、先程よりも柔らかいような。気のせいかもしれない、ほんの僅かな変化でしかない。
“懐かしい髭面だ”
赤い蛇の、赤い瞳がまたこちらを向く。その瞬間に、またドワーフたちが吼えて、地が揺れた。
「アルマスクヴェリ! 儂らは届いた! 届いたんじゃ!」
“相変わらず、騒がしい。……土小人と、神具。成る程、奴は継いだということか。妄念を、千年の先へ”
ちろりと舌を出して、目を離す。ぐるりと首を回して、混沌とした森の中を睥睨する。
アルマスクヴェリがどう動くか、分からない。僕だけでなく、皆がじっとその動きを注視していた。
そして、赤い巨蛇は、微笑った。
“癪だが、いいだろう。私は賭けに負けた。魔女の忘却すら越えて、神具を追い求めるとは。馬鹿げた種族だ”
ぼそりとつぶやいて、アルマスクヴェリは次の瞬間、姿を消した。
気配は既に下、地下にあった。どうやってか、尾から土中に潜って消えたのか。速すぎてよく見えなかった。
そしてまた、気配が昇ってくる。轟音と共に地を喰い破って、そのまま傍にいた蛇もどき――ケルキダ=デェダを一匹、喰い掴んだ。
“同じ愚かでも、馬鹿馬鹿しく、面白い。……少しだけ力を貸そう。
ケルキダ=デェダを咀嚼しながら、アルマスクヴェリが頭の中で告げる。その目はカカフと、僕を見ていた。
この一瞬で状況を理解したのか、僕らへ敵意は無かった。その殺意はただ、魔物へと向いている。
ケルキダ=デェダの群れはほとんど恐慌状態に陥っていた。自分たちが喰われる側に回るなんて、生まれてから考えたこともなかったのだろう。
“……ロジオン。貴様、何者だ”
アルマスクヴェリの蹂躙が始まるのとほぼ同時に、宰相の声が響いた。
“神獣さえ従えるだと。また見誤ったというのか、この、私が――”
「ざまねえな、アダシェフ! こいつは『不運』なんだよ! 歩くだけで冒険を呼び寄せて、誰の思う様にもならねえ、最高最悪のなあっ!」
ガエウスが心底嬉しそうに笑っている。宰相を煽るためだけだろう、わざわざ姿を現して僕の隣に立った。
宰相の問いは、僕自身疑問だった。
どうしてアルマスクヴェリが僕らの味方をするのかは分からない。古の昔、ドワーフと何かを賭けたらしいけれど、それ以上推察する余裕は無かった。
ケルキダ=デェダのことはもう神獣に任せる。後は、王立軍と帝国臨戦官。彼らを越えれば、『果て』が見える。
「ガエウス、君はニカさんを頼む」
正面に敵を見据えながら、ガエウスへ伝える。
「構わねえが、そっちはどうすンだ」
「僕は、あいつを殺る」
僕の視線の先には、ヴロウが立っている。こちらが動くのを待っているのは、何か策を巡らせているのか、それとも余裕からか。分からないが、先に動く様子はなかった。
彼の相手は、僕だ。
「はっ、お前もああ見えて帝国に腹立ってたんだな? いいじゃねえか」
ガエウスが笑う。この男だけは、本当に普段と変わらない。だからこそ任せられる。
「違うよ。僕は手加減できない。勝つには殺すしかない。でも君なら、ニカさんを殺さずに済ませられる。だから、この分担だよ」
「んだと?」
「君は、殺しちゃ駄目だ。 君ならそれでも、勝てるだろ」
ニカさんは、敵だ。でもできれば、殺したくない。そう願うのは甘えだろうか。
「てめえ、また俺に押し付けるつもりじゃ――」
騒がしくなりかけた一瞬、ガエウスは言い切らずに気配ごと消えた。
ニカさんが動くのを察知したのだろう。次に見えたのは、ニカさんの上空を跳びながら、弓を構える姿だった。
ニカさんの一歩前、踏み込む寸前だった彼の目の前へ矢を放つ。ニカさんは重心を無理矢理に後ろへ引き戻して、矢を躱した。
「まあ、しゃあねえか。本番はまだこの先だからな。来いよ、デカ剣。 遊んでやる」
「……」
ガエウスとニカさんの視線が交差する。そこからはもう、そちらを意識する余裕はなかった。
目の前のヴロウが、気配の圧を増した。黒々とした魔素のうねりが、彼の背に見えるような、錯覚に囚われかける。
彼は強い。でも、圧倒されはしない。僕の今持つ全てをぶつけるだけだ。この先へ進むために。
「ルシャ、シエス。僕らを支援して。どうするかは、任せるよ」
踏み込む直前、それだけつぶやいた。
指示とも言えない曖昧な内容。でも二人なら大丈夫だろう。
この程度の死地、もう何度も潜ってきた。その全部を、僕らは一緒に乗り越えてきた。その記憶が、背を押す。
僕ら二人の殺気が、僕らの間で混じり合う。
ドワーフたちが歓声を止めた。一瞬だけ、静まり返る。
聞こえるのは、赤い巨蛇が地と魔を砕く音と、自身の心音だけ。
息を吐いて、止める。
『力』を全身へ流して、踏み込む。踏み蹴った地が割れた。
跳びながら、腰の手斧を掴む。鎚はあと一度しか振れない。振り当てる隙を作り出す必要がある。
手斧を正面へ投げる。『力』に呑み込まれて、斧は風を突き破り飛んだ。
「『
ヴロウは躱さずに魔導を唱えた。黒い壁のような何かが突然生じて、手斧を呑み込んだ。斧はそのまま黒から出ず、何処かへ消えた。
すぐに二つ目の斧を放る。けれどそこにはもうヴロウはいなかった。
首筋に怖気が走る。感じると同時に真横へ跳んで、転がる。僕の立っていた地は、先程と同じ黒い何かに呑み込まれて、土ごと大きく抉れていた。
「遅い。動きも判断も、全て」
耳元で声が聞こえた。意識するより速く、僕はもう盾を呼び出して、構えていた。
ヴロウの拳が、盾ごと僕を吹き飛ばす。
「っ!」
重い一撃だった。身一つで放てる重さではない。この臨戦官は、武技も魔導もまだ底が知れない。
体勢を立て直し、前を向く。目の前には黒い棘のような魔導弾が無数に迫っていた。僕はまた跳び退こうとして。
「させない」
ぶっきらぼうで力強い声が響いた。黒い棘は、僕には見えない何かに弾き落とされて、僕へ届かずに消えた。
「歳の割に見事な練度だ。これ程の才は、帝国でも稀」
ヴロウの攻め手が一瞬、止む。彼は僕の上、浮かぶシエスを見ていた。
その称賛に嘘はないのだろう。僕へ向けるような嘲りはなかった。
「幼女に守られる、か。貴様はただ惨めだな」
この男は、分かりやすい。
魔導を至上として、その巧拙でしか人を見ない。魔導どころか魔素も感じられない僕など、その辺の虫にも劣る存在なのだろう。
「だがそれも今日までだ。この娘は、私が研究する。腹の底、臓腑の裏まで覗けば、黒の魔導の謎も解るだろう」
シエスを脅す言葉。僕への挑発ですらない。魔導の探究が進むことを喜んでいるだけ、だろう。
ヴロウは強い。けれど僕の胸の内はまだ凪いでいる。
その理由が、ようやく少しだけ分かった気がする。
たしかに、この世界では力とは魔導だ。魔導を扱えない僕は弱者だった。
でも、魔導に代わる力を、『志』を得ても僕は弱かった。
全てを失って、また得た今なら分かる。
強さとは、力ではない。
力は手段だ。道具でしかない。
強さとは、それを振るう者の中にある。
僕はそれを知っている。皆のおかげで、ようやく気付けた。
魔導を盲信して、強さとは何か知ろうとしないこの男には、僕は負けない。
こちらの攻め手は有効打が見えない。状況は芳しくない。僕にあるのは、静かに滾る思いだけだ。
盾を構えながら、思わず笑ってしまう。そんな時だった。
「ロージャ、こいつを使えっ!」
カカフの声だった。僕めがけて、白銀の何かが飛んでくる。
掴み取る。それは、鎚だった。
かつて僕が扱っていた鎚と同じ重さ、同じ長さで。違うのは、鎚の柄と頭に文字のような、文様のような何かが彫り込まれ、僅かに熱を持っている。
「クルダの、いや、儂らの全てを込めたっ! それで『果て』まで、ぶっ潰せい!」
思い出す。これはクルダの、神獣の武具ということか。ドワーフの地底都市で預けた、神獣の羽根が織り込まれた鎚。
盾を背に回して、柄を両手で握ると、不思議なほど手に馴染んだ。
「ありがとう、カカフ」
カカフはにっかりと笑っていた。彼らにはこの窮地も、輝いて見えるのだろう。一族全てで追い続けた夢が叶った地なのだから。
彼らを無事、故郷へ帰す。それができるのは今、僕らだけだ。
「神獣の武具か。面白い。魔導で打ち砕けば、貴様らの夢も醒めるか」
ヴロウが嗤う。
「『
瞬間、視界が漆黒の闇に包まれた。目の前にいたヴロウも、上を飛んでいたシエスも気配ごと消えて見えない。
すぐに闇が圧を増した。近付いてくる。これは、先程の『晦冥』と同系統だろう。僕を包み込んで呑み込み、かき消す。
対象は恐らく、僕だけだろう。ヴロウは分かりやすい男だから。
「ロージャっ!」
シエスの声。案の定、かな。
大丈夫。僕は負けない。それだけの日々を生き抜いてきた。
僕はもう、僕を信じている。
仲間を守り、ここまで来た僕を。ここまで来れた自分を、信じている。
鎚を構える。『力』を込めると、喜ぶかのように熱を増した。文様が光を放つ。
真っ暗な世界を塗り潰すように、白銀の光が強く、僕を照らす。
「叫べロージャ、高らかに!」
カカフの声が躍っていた。
何を、とは思わなかった。
ただ腰を落として、構える。
「それがそいつの銘、儂らの浪漫の名、幾百年見た夢の名よ!」
鎚の光はもう、闇を呑み込んでいた。取り囲んだ闇を透かして、不安げなシエスと、破顔したカカフが見える。
左足を軸に、鎚を振るう。闇を払うように、『力』と光を解き放つ。
胸の内に湧き上がった言葉を載せて、振り切った。
「『
叫びと共に、闇が弾けて、白銀が迸った。
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