第131話 零
目が覚める。ここはどこだろう。
僕は横になっているようだった。周囲は薄暗く、けれど僕の目の前だけは柔らかな光が灯っていた。
額には手が添えられている。目を向けると、ルシャが僕のすぐ傍にいた。僕と目が合って、緩く微笑む。彼女はまた顔を上げると、どこかへ呼びかけた。
「シエス、ロージャが起きましたよ」
ルシャが言うと、ルシャと反対側、僕の真横で何かがもぞもぞと動いた。毛布の中にいたらしいシエスが顔を出す。僕をじいと見て、何も言わない。
怒っている訳ではなさそうだ。いつもの無表情。
「……ありがとう、ルシャ。それにシエスも」
口にして、起き上がる。鈍く頭痛がした。眼の奥がじんと痛む。でも随分と良くなった。ルシャの『癒し』がなければ、魔素酔いの苦痛はこんなものじゃなかっただろう。
ここは僕らが泊まっている小屋で合っているはず。すると、僕は大樹の脇で倒れて、ここまで運ばれたということか。
すぐに、倒れる前に聞いた使者たちの言葉と、ナシトの声を思い出す。世界の秘密の一端を、僕は覗いてしまった。強引に覗かせたナシトの意図はなんだろう。
「ナシトの声が聞こえて、行くと貴方が倒れていました。敵襲ではないとも言っていましたが」
「ああ、『共有』だよ。ただの魔素酔い。護衛中に倒れてちゃ、従者失格だな」
「それは、ナシトのせい。ナシトが悪い」
シエスがぶすりと言う。まあ、それはそうか。二人の様子を見るに、僕が突然倒れたこと以外、問題は特に起きていないようだ。今日の会合ももう終わっているようだった。
「それで……何が、あったのですか」
ルシャは僕の手を握って、見つめてくる。瞳は揺れていなかったけれど、心配させてしまっただろうな。
「……大樹の中、会合の様子を見せられた」
僕の言葉にルシャは驚いて、目を見開いた。驚いた顔も相変わらず綺麗だ。そんなこと考えている場合じゃないのに、思ったよりも呑気な自分だった。少しだけ落ち着く。
「ナシトが中に? どうやって、とは思いますが、彼なら忍び込めるのでしょうね。けれど、なぜ」
ルシャももうナシトの突飛な行いには慣れているのか、行為そのものよりもその動機に驚いていたらしい。
「分からない。でも、会合では『果て』について話していた。ベルザニエル様が『果て』を封じる案を出して、王国と帝国は、それを否定したがってた。『果て』を守ろうとしていた」
「それは……。まさか、『果て』が何かを、二国は知っていて、それを利用していると?」
「そう見えた。ナシトもそう言っていたよ。どうして彼が知っているのかは、分からないけれど」
ルシャが考え込む。シエスは悩ましげな表情のルシャと僕を交互に見て、何も言わない。このところ落ち込んでいたのはシエスだったはずなのに、今はシエスが一番いつも通りに見えて、奇妙な感じがする。
「……では、王国と帝国は、教会を欺いているということでしょうか。もちろん、本気で『果て』と魔の殲滅を目指している敬虔な信徒は、教会でも多い訳ではありませんが。少なくとも、使徒には『果て』の探索も命じられていました。魔素の源を排除するのは、教会の悲願でしたから」
「どうだろう。教会も、魔導を利用しているのは確かだから」
「……教会まで裏で通じているとは、思いたくありませんが……」
誰よりも敬虔だったルシャだ。今は教えを捨てたとはいえ、教会を疑いたくはないだろう。でも、国が『果て』を保護していると分かった以上、教会だけは違うと言い切るのは難しい。
考えてみれば、誰もが魔素を、魔導を利用して、その恩恵を受けて生きている。魔物の脅威と、未知の魔素病にさえ目を瞑れば、『果て』から生まれる魔素は僕らに利することばかりで、害など一つもない。世界は既に、魔導無しの日々など考えられないほどに魔に染まっている。
そんな中で『果て』を目指している僕ら。世界そのものが敵だとすれば……確かに、足掻いているようにしか見えないか。
ふと、メロウムのことを思い出す。聖教の教えを信じず、ただ自分の意思で魔素の源を消そうとしている男。異常者である彼だけが、僕らと同じく、本心から『果て』を目指している。その事実が可笑しかった。
ふと笑いそうになって、また、自分が思ったよりも動揺していないことに気付く。
世界を敵に回す事の重大さに、ただ頭が追いついていないだけな気もするけれど。
思考が逸れた。今は、これからどうするかの方が大事だ。そう思って、思い出した。
「そういえば。ナシトは、これが最後と言っていた。僕はどうするのか、と」
「……? よくわからない」
僕も同じだよ、シエス。会合そのものも、不可解といえば不可解だけれど、ナシトの意図の方が分からない。ルシャも困ったように眉を落としている。
どうするのか、はまだしも、最後、か。どういう意味だろう。
僕に問うのがこれで最後、僕が行く道を決めるのはこれで最後、ということなら。身勝手すぎるな。身勝手なのはいつものことでも、今回ばかりは少し腹が立ってきた。
「ナシト。いるんだろう」
声をかける。気配は感じなかった。あんな意味ありげなことを言った後では、出てこないかもしれない。でも、ナシトはいつだって僕らを見ている。とりあえず、腹に力を溜めて、また呼びかける。今度は少し声を張る。
「ナシト。言いたいことがあるんだ」
会いたいという意思を載せる。示さなければ、伝わるものも伝わらない。
僕の突然の大声に、ルシャが目を丸くしていた。さっきのとは違う気の抜けた顔で、それでも驚くほど綺麗で、可愛らしい。
僕の視線に気付いたのか、ルシャが顔を赤らめて、シエスの目が少し、じとりとして。
「……」
いつのまにか、部屋にはナシトがいた。寝台に座ったままの僕を見下ろす黒い影。
フードの下、昏い眼が僕をじっと見ている。相変わらず何を考えているのか分からない。
でも。
「勝手に最後にするなよ」
僕は少し腹が立っている。
魔素酔いさせられたことでも、僕に何も言わずにいることでもなく、ただ僕を、僕らを信じようとしないナシトに対して。
ナシトの影がゆらめく。
「最後だ。進むか、退くか、此処より先は――」
「旅の終わりを決めるのは、君じゃない。僕でもない。決めるのは、僕らだ」
遮って、言い切る。
『果て』を目指すのは当然としても。僕らの冒険の終着点はそこじゃない。
シエスは魔導を失っても、まだ先を見ている。ガエウスが冒険を止めるとは思えない。ルシャも隣にいてくれるだろう。
何より、僕も。皆ともっと先まで行きたかった。
分からないのは、ナシトの意思だけだった。
立ち上がる。ナシトと正面から向き合って、笑ってみせた。言いたいことを言ったからか、苛立ちはもう随分と萎んでいた。
「もちろん、君がもう止めたいと言うなら、考えるけど。それならきちんと、話してくれよ」
声はもう普段通りになっていた。締まらないな。そう感じながら、思う。
ナシトが隠し事をするのはいつものことだ。けれど今はいつもより、寂しかった。
それは、僕を信じてくれているか、分からなくなっているからだろうか。
「……ロージャは甘い。そもそも倒れたのはナシトのせい。ナシトは、謝るべき」
「まあまあ。シエス、彼にも何か、考えがあってのことでしょうから」
「さっき、いちばん怒ってたのはルシャ」
「シ、シエスっ」
僕がきちんと怒らなかったからか、シエスは不満げだった。ルシャはその隣でまた顔を赤くしている。怒ってたのか。
じとりとした眼のシエスを撫でてなだめつつ、またナシトを見る。
彼は現れたときから、顔色も眼差しも何一つ変えていなかった。ただ暗い鉄面皮。
「それで、ナシト。今、聞いてもいいかな。いずれ話すと言っていたこと」
聞いてみる。シエスの魔導のこと。ナシト自身のこと。ヤガーの仔と呼ばれる彼が、僕らの旅に何を求めているのか。
話してくれないかもしれない。けれどどうしても、ナシトが隠している全ての、その一片でも知りたかった。
少しの沈黙の後で。
「…………人は、何かを失っても、代わりのものでそれを埋める」
ナシトが口を開いた。意外だったのか、シエスが少し驚いたような無表情をした。
「俺の空白は、魔導が埋めるのだと思っていた。俺だけの魔導。消し去る『
「……」
「だが、魔導ではなかった。魔導では、空虚は埋まらなかった」
ナシトの語りは、常と変わらない。感情の起伏もなく、ただ事実を伝える口調。でもその声で、自分のことを語るのを聞いたのは初めてかもしれなかった。
「……魔導は、ただの道具」
「ああ。そう気付いた頃だ。王都でロージャと出会った」
ナシトとの出会い。どうしてか、僕はその日のことをよく憶えていない。
勧誘したことは憶えていても、どうやってパーティへ勧誘したのかはっきりしない。
そんなことをふと思い出して。
「出会った時、お前は俺を警戒していた。俺はお前の警戒を消した。その後でお前は、その空白を好意で満たした」
「……っ!」
ナシトが、僕に魔導をかけた? それが、彼の言う『零』なのだろうか。
そして、一瞬、ナシトの気配が揺らいだ。珍しい。感情が漏れ出たような揺らぎ。他は何も変わらないのに、少しだけ小さく見えたような。
「それがお前だ。人を信じようとする。…………その本質を、歪めるつもりはなかった」
「……何を、言ってるんだ?」
「俺は間違えた。消すべきでないものを消し、恐れ、逃げた。行くべきでない道を選んだ」
消すべきでないもの。行くべきでない道。
深く理解してはいけない気がした。そう感じたのは、なぜだろう。
「お前は歪み、それを踏み越えた。道は既に、違えている」
僕が彼の言葉の奥に怯んだ一瞬。
ナシトは黒の外套を翻していた。部屋の中で、緩く風が吹く。
「ナシト、まだ――」
「全ては動き出した。これが、最後だ。俺にできることの最後。お前たちの道を開く」
そう言ってナシトは消えた。
いつも以上に投げっぱなしの言葉。けれど何か、ナシトの真意を垣間見た気がして僕は何も言えず、動き出せずにいた。
「ナシトは、いつもそう」
ぽつりとつぶやいたのは、シエスだった。
「言いたいことだけ言う。言いたくないことは誤魔化す。……会話が、へた」
ぶっきらぼうな言い方で、でも寂しそうな顔をしていた。
僕も同じだ。今日はいつにもまして、拒絶を感じた。そのことが寂しかった。
これが最後。仲間としての最後ということだろうか。そんなもの、認めたくない。
ナシトを追って、問い詰める。そんなことが頭をよぎった。ちょうどその時、僕らの部屋へ、慌ただしく近付く気配を感じた。
「ロジオンっ、起きているかな」
入ってきたのはルナ=ドゥアリだった。少し息を切らせている。急ぎここへ来たのだろうか。
常に傍で護衛しているはずのカカフの気配はなかった。そういえば、先ほどからこの小屋のどこにもいない。どこへ行ったのだろう。
「ああ、無事そうだね。良かった」
「すみませんでした。護衛中に倒れてしまうなんて」
息を整えている長へ、まずは謝罪する。
「ああ、いいんだ。君たちに何もなかったならそれでいいさ。それより、呼び出しだよ」
「……?」
「ベルザニエル様からだ。今すぐに大樹まで来い、とのことだよ。君ひとりで、だ」
ルナ=ドゥアリは息をふっと吐いて、笑った。少し自嘲するような、おどけるような、フリエルさんにも似た雰囲気。
「あれだけの会合の後で、君を呼ぶか。もしかすると君が、僕らの命運を握っているのかもしれないな」
会合の中身を聞いていないことになっている僕は、何と返したらいいか分からなかった。
僕の沈黙を惑いと受け取ったのか、ドワーフの長はまた涼やかに笑った。
「まあでも、好きに話してくるといい。君らの冒険は、君らのものだ。世界がどうなってもドワーフはドワーフでいつも通り、なんとかするさ。そら、行っておいで。会合での話は、帰ってきたら話そう」
「はい。……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちさ。君たちが来てから、退屈しなくていい。やはり若者は、いいもんだね」
先の青い顔などどこへやら、ルナ=ドゥアリはさっぱりとした眼をしていた。彼には、世話になりっぱなしだな。
僕は小屋から追い立てられて、歩き出した。道中、エルフの長に伝えるべきことを考えても。ナシトの言葉の方が気になって、考えは何もまとまらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます