第128話 神の畔

 それから。

 ベルザニエル様への面通しが終わって、翌朝。


 僕はシエスと二人でエルフの森の中を歩いていた。正確には、前を歩く道案内のフリエルさんと、僕ら二人だけれど。


「……どこに行くの」


「さあ。フリエルさんに任せたからね。僕も分からない」


 隣のシエスは僕を見上げている。訝しげ、というほどでもないいつもの無表情。

 まだ日は低く、森も仄かに薄暗かった。柔い朝日がシエスの銀髪を照らしている。相変わらず、綺麗だ。


「ただの散歩、だよ。ずっと地下にいたんだ。森の空気を吸うのも悪くない」


 笑って、シエスの手を取る。シエスはいつも通り、何も言わずに僕の手を握る。

 でも握り返す力は、普段よりずっと弱かった。僅かな隔たりを感じる。


 朝、日課の鍛錬を終えてからシエスの寝所を訪ねて、寝惚け眼のシエスを連れ出したのは僕だった。このところ移動続きで、シエスと過ごす時間を取れていなかったけれど、思いがけず時間ができたからだ。

 フリエルさんは、僕らが宿を出たところでちょうど会って、道案内を提案してくれた。僕らの監視も兼ねてだろうか。別に構わない。本当にただの散歩だ。


「長を守らなくて、いいの」


「会合は夕方からだってさ。ガエウスは……宿にいないだろうけど、ルナ=ドゥアリの傍にはカカフとルシャと、たぶんナシトがいる。大丈夫だよ」


「……なら、いい」


 本当はルシャも誘いたかったけど。流石に長を放置する訳にはいかない。長もカカフも、森の中で護衛なんて不要だと笑っていたものの、最低限の責務はきちんと果たさなければ。

 シエスと僕が宿を出るとき、ルシャは何も言わずに、ただ優しく笑っていた。僕の背にそっと触れて、シエスを任せましたよ、とでも言うような柔らかな眼で、見送ってくれた。

 普段なら、自分も行きたいと控えめに主張していたかもしれない。ルシャは意外と寂しがりだから。

 シエスもきっとそのことに気付いているだろう。シエスは時に、僕よりもルシャを理解している節がある。ルシャが普段と違うのは自分のせいだと、責めて落ち込んではいないだろうか。


 横を歩くシエスを見る。いつもの無表情に見えた。

 陰は随分と薄れた。まだふと昏い眼をすることはある。でも塞ぎ込んではいない。

 微妙な距離感だった。シエスから話すことは少ない。いつも通りと言えばいつも通り。ただ静かに、朝の森を歩いていく。


 同じ森の中ということもあって、僕はシエスと出会った直後の逃避行を、ルブラス山までの道のりを思い出していた。

 あの頃もこんなふうに、少しだけ距離があったな。シエスの思いを、胸の内をはかりかねていた頃。彼女に新しい生き方を押しつけて、失恋の気晴らしに利用していたころ。ほんの数月前でしかないはずなのに、遥か昔のことに思える。

 あの頃もこうやって、木々の間を歩いた。

 荒れた道に苦しんで、疲れ切っているくせに夜になると魔導について知りたがる。僕を信用し始めたようで、どこか疑っている。

 不思議な娘だった。……不思議なところは、今も変わらないか。


「……?」


 気が付くと、シエスがまた僕を見ていた。何か問いたげな眼。もの思いに耽りながら、僕はシエスを見つめていたようだった。


「いや、昔を思い出してさ。シエスと出会った頃のこと。今のシエスは、あの頃みたいだなって」


「昔の、私?」


 ああ。なんだか、薄い壁――『魔導膜』のようなもので一枚、隔てたような。


 そう返しかけて。ちょうど遮るように、フリエルさんの呼ぶ声が聞こえた。


「さて、到着だ。ただの散歩でも良かったが、ね。稀の客人だ。折角なら、森の見所を知って帰ってもらいたいだろう?」


 フリエルさんは道の半ばで立ち止まっている。大仰に手を広げて、僕らへ何かを誇示するように薄く笑っている。


「ようこそ、『神のほとり』へ」


 けれど、よく分からなかった。森の中の絶景と言えば、滝や小川、大樹などを想像するけれど。フリエルさんの示す先を見てもそれらしいものは何も見当たらない。

 多少開けてはいるものの、ただの広い空き地にしか見えない。円く空いた地を囲むように生えているのは、ここまで歩いてきた道と同じ、奇妙な形をした木々だけだ。


「此処は最も古き地。我ら森人が、最期に魔へと還る円。我らの奉ずる魔と木々が、戯れる場所」


 フリエルさんが詠う。

 魔というのは、魔素のことだろうか。がらんとして見える先には、魔素が溢れているらしい。

 けれど僕には何も見えるはずもない。フリエルさんの意図が、分からない。


「おや。ロジオンはまだしも君なら視えると思ったが。君は小さくとも、魔導師の眼をしている。私などよりずっと広く深く、視えているのだろう?」


 フリエルさんはそう言って、シエスを覗き込んだ。

 普段なら、シエスは魔素の溢れる絶景を喜んだだろう。シエスは初めて見る景色が好きだから。……好意からの案内だと分かっていても、折が悪すぎるな。

 シエスはまた落ち込むだろうか。一瞬、不安になって。


「……小さくない」


 シエスはむすりとしていた。気になるのはそっちなのか。

 声はいつも通りに聞こえた。


「エルフは、死んだら魔素になるの?」


「さてな。そう信じている者もいる。死後どうなるかなど分かるまいよ。……魔を奉ずる我らだ、最期は魔に溶けたいと、願う者が多かったのは確かだが」


「魔に溶ける、ですか」


 思わずつぶやいてしまう。不思議な信仰だ。


「我らは魔の信奉者だ。そう生きてきた。魔は意志を形にする。魔こそ我らを導く力だと、我らが依って立つべき友だと、信じていた」


 フリエルさんは語りながら手を掲げて、指で中空をなぞった。漂う魔素に触れているのだろうか。


「なればこそ、父神ヴァスクレスを奉ずるヒトも、土を愛する土小人をも遠ざけて、こうして魔の森に留まり続けた。魔を愛し、何よりも愛されるのは我らだと、誇るかのように」


 父神ヴァスクレス。あまり耳にする機会がないから忘れがちだけど、聖教の唯一神の名だったはずだ。かつてカカフが語ったように、ドワーフにはドワーフの神というか、信じるものがある。僕らヒトには、聖教がある。それらと同じように彼らエルフは、魔を信じている。そういうことだろう。


「だが、それもどうやら片想いだったようでな。魔は導く代わりに、我らを呑み込み始めた。我らの愛は、独り善がりだったということかな」


 皮肉げな声。昨日の母娘の嘆きと呻きを思い出してしまう。

 それだけじゃない。信じて全てを捧げた神から、背を向けられる。聖都で見たルシャの涙まで思い出してしまった。連想は伝播して、魔導を仲間の証明として生きるようになった、シエスのことも。


 どんな形であれ、信じてきた生き方を否定されるというのは、重いことだ。


「……『魔喰らい』は、発症した場合、どうしようもないのですか」


「今のところ、打ち手は無いな。それこそ、魔素そのものを消し去りでもしない限りは」


 フリエルさんは振り向いて、僕を見た。笑うようで睨んでもいるような、強い視線。


「ロジオン。どうやら君は本気のようだ。『果て』を攻略すると、本心からそう言ってのける冒険者には、久方振りに出会った」


 フリエルさんの纏う空気が変わった。戦闘時のようなひりつく気配を肌で感じる。いつ魔導が飛んできてもおかしくない。そんな錯覚さえ感じる。

 フリエルさんの意図は分からない。この人のことは本当によく分からない。何が目的なのか。何を言いたいのか。

 でも、自分たちエルフの未来を案じる眼に、嘘はないように思えた。

 だから、臆せず答える。


「はい。『果て』を潰す理由が、僕らにはありますから」


 答えると、フリエルさんは笑って、また背を向けた。気配が緩む。

 合わせて息を吐くと、シエスが僕の手をきゅうと握っていたことに気付いた。


「……それは本来、我らを敵に回す言葉だ。『果て』は魔の源。我らがそれを許すはずもない。だが君らは、長の言う通り、運が良かったということかな。今なら違う道もあるだろう」


 また語り始めたフリエルさんの後ろで、なんでもないよと答える代わりにシエスを撫でると、シエスは僅かに目を細めて、心なしか嬉しそうにする。


「本当に運が良い。あまりにも運が良すぎるとも、言えるほど。それも冒険者の素質と言えば、それまでだが」


 運が良い、か。僕もそう思う。

 僕は仲間に恵まれすぎている。


 半分聞き流すようにフリエルさんの朗々とした語りを聞いていた、その時。

 またしてもフリエルさんの気配が変わった。


「まあ、我らの意志は、結局のところ長次第。長が何を考えているかは、私には分からぬよ。会合の結果次第では、君らをこの森を二度と出られぬ、ということも——」


「『魔喰らい』も、何とかできればとは思っていますが。僕らはただ僕らのために、『果て』を潰しに行きます」


 今度は少し、おちょくるような。でも僅かに不穏な空気。

 思わず言葉を遮って、伝えていた。不思議なほど自然に声が出た。

 言う必要はない。そう思うのに、止まらなかった。


「そのことは、揺るぎません。何があっても」


 言い切って、僕らの間に沈黙が落ちる。

 僕は相変わらず、交渉じみたことが下手だな。笑ってしまいそうになる。

 こんな、脅すようなことを言っても何の意味はないのに。僕らはドワーフの皆とフリエルさんの厚意でここまで来られたんだ。その親切を無下にするようなことは、したくない。


 でも、僕らにも矜持があった。僕らは僕らのために旅をしている。

 エルフのためでも王国のためでも、世界のためでもない。この冒険は、僕らのものだ。


「……なるほど。よく理解した。君らは正しく冒険者、というところか」


 訳知り顔で頷くフリエルさん。

 ……敵対すれば殺す、と伝わっていなければいいけれど。流石にそこまで強い意味は、込めていないはず。

 ひとり勝手に冷や汗をかき始めた僕をよそに、フリエルさんはまた、シエスに話しかけていた。


「さて。妙な話をしてしまったが。魔素が見えないなら、一つ、我らの言い伝えを教えてやろう」


「……?」


「エルフは皆、魔素が視える。程度の差はあれ、ロジオンのような者は生まれない」


 僕のような者。言い方に少し棘があるが、魔素を全く感知できない者のことだろう。

 エルフは魔導に長けているとは聞いていたけれど、魔素の感知からして違うのか。


「なぜか。簡単だ、生まれる前から血に浸かっているからだよ。魔の滲みた血、エルフの血に。エルフの血は、魔絡みの治癒に用いられる」


「……本当ですか。聞いたことがありませんが」


「それもそうだろう。エルフの血など、この森以外ではそうそう手に入らん」


 そうだったのか。そういえば、ルルエファルネも森でしか扱えない治癒があるとつぶやいていた気もする。

 いずれにせよ、物騒な治療法もあったものだ。

 そう思っていると、フリエルさんがにやりと笑うのが見えた。嫌な予感がする。


「血で魔素が視えるかは、分からんがな。ある程度の量を飲み干せば、あるいは――」


「フリエルさん。止めてください」


 凄みのある声でシエスに吹き込み始めたフリエルさんを、再度遮る。流石に、無茶苦茶だ。

 シエスは変わらずに無表情のままで、けれど何も言わずに一歩下がり、そのまま僕の背に半ば隠れた。フリエルさんから、距離を取っている。

 ……これは、嫌いなものを見たときのシエスだ。


「おお。これは失敬。怯えさせてしまったか。なに、ただの俗信だよ。迷信でしかない。エルフでさえ、ときに縋るものではあるが、ね」


 フリエルさんはあからさまに空気を変えて笑った。そのまま来た道を戻るように歩き始める。

 血云々は冗談だったようだ。冗談や皮肉が好きなのはなんとなく分かるけれど、この人のは大抵、たちが悪いな。

 遠ざかり始めたフリエルさんを、シエスはじっと見つめている。視線は僅かにじとりとしていた。


「シエス。気にしないで。ただの冗談だよ」


「……」


 シエスは何も言わずに、僕を見上げた。なんだろう。


「……ロージャは、私が血を飲んだら、嫌がる。たぶん」


 ぼそりとつぶやいた言葉は、予想外なものだった。


「魔導のことは、まだ、わからない。魔素、星は、また見たい……けど、ロージャの嫌なことは、いや」


 そう言うと、シエスはぶるりと身体を震わせて、また僕の腰元へ一つ、身を寄せた。


「……そもそも、血なんて、いや」


 嬉しくなる。

 シエスは僕を想ってくれている。僕の傍にいたいと思ってくれる。少しずつでも、また前を向いている。

 それら全てがどうしようもなく嬉しかった。


 僕は何も返せずに、ただしばらくシエスの頭を撫で揺らす。

 出会った頃と違って、僕のことなどとうに熟知しているのか、シエスは何も言わずに僕の手に頭を預けてくれた。



 しばらく撫でて、フリエルさんの背が遠く小さくなり始めているのに気付いて、慌ててシエスと一緒に歩き出す。



 その時だった。



“面白いね、面白い やっぱり人の子は面白い”



 あまりにも唐突に、頭の中に声が響いた。からからと笑う、幼い声。

 周囲を見回しても気配はない。シエスは聞こえていないのか、止まった僕を見て首を傾げている。

 これは、一体。



“父さまの遺志が消えかけて 人から生まれた最後の勇士 魔の只中にやってきた”


 複数の声が僕らを囲むように、楽しげに歌う。魔導ではない。これは――『志』の声。


“僕らを持っていきなよ それがいい”


 僕らを囲むのは、『神の畔』の木々。その木々が、笑っていた。

 笑い声の中、風が吹いて、僕の足元に一つ、木の枝が落ちる。

 その枝から、一際明るい声が響いた。



“僕らに『巣』を、見せておくれよ”


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