第127話 天運

 それからすぐ、僕らはエルフの母娘がいる小屋から出て、また歩き出した。長の屋敷はまだ見えてこない。


 歩き出しても重苦しい空気は変わらなかった。僕自身、考えがまとまらない。

 エルフの長と会えたら、彼と『果て』について話すことになるだろう。『果て』についての手がかりを得ること。それこそが、僕らがエルフの森へ訪れた目的なのだから。会ったその場で交渉にさえなるかもしれない。

 けれど僕の頭の中は、先程見た光景ばかりだった。

 もがき苦しむ少女。彼女を蝕む『魔喰らい』。小屋はもう遠く離れたのに、泣き叫ぶ母親の声がまだ耳に残っている。

 隣を歩くルシャは明らかに暗い顔をしている。彼女たちを救えずに、自分を責めているのかもしれない。でも僕には、彼女の手を握ることしかできなかった。


『魔喰らい』。あれはいったい何だろう。魔素を吸い続けてしまう病。フリエルさんの言では、この病は原因も治癒法も分からず、一度罹れば魔導に長けたエルフさえ数ヶ月と保たずに命を落としてしまうという。

 歩きながらルナ=ドゥアリに尋ねてみても、「私にも多くは分からないんだ。エルフは本当に秘密主義だからね」と、彼自身も悔しげに首を振るだけだった。

 ただ、ドワーフには一人も発症者はいないという。僕の知る限り、王国でも帝国でも魔素病なんてものは聞いたことがなかった。ならエルフ特有の病なんだろうか。けれど流行り始めたのはこの数年と聞いた。風土病というにはまだ新しすぎる。

 前を歩くフリエルさんは、小屋を出たきり無言でただ僕らを先導するだけだった。何か尋ねてもはぐらかされてしまう。

 結局、何も分からない。分かったのは、『魔喰らい』という病の存在と、エルフがそれに苦しんでいるということだけだ。……フリエルさんは、僕らに何を求めているんだろう。

 どうしても、辛そうに呻き声をあげていた少女と、シエスとを重ね合わせてしまう。けれど、僕は薬師でも治癒師でもない。僕にできることは、一刻も早く『果て』へ辿り着き、魔素の根源を潰すことだけだろう。やることは変わらない。そのはずだ。

 そう思うと、少しだけ落ち着いた。


「あの人。魔に、魅入られたって言ってた」


 思いがけず、隣から声がした。見ると、シエスが何か、悩ましげな無表情をしている。


「昔、どこかで、聞いた気がする。……思い出せない」


「昔というと、シエスが城都市にいた頃?」


 シエスはこくりと頷いた。

 シエスの過去。実は、まだきちんとは聞けていなかった。いや、聞きようがないと言った方が正しいのか。シエスが隠している訳ではなく、彼女自身、あまり覚えていないのだという。

 父と母がいて、母が亡くなって、義母が現れて。その義母に虐げられ、命を狙われた。シエスの語った断片的な話からすると、その程度は推測できる。

 けれど今更深く聞くつもりもなかった。家族に捨てられるような、辛かったに違いない過去を振り返っても悲しいだけだ。

 シエスが生きているのは今で、過去じゃない。シエスは出会った時から僕ほどは過去に囚われてはいなかった。僕と違って、彼女は強い娘だ。


「そうか。……エルフだけの病じゃないのかもしれないな」


 聞いたことがある、か。なら城都市にも同じように『魔喰らい』に罹った人がいたのかもしれない。けれど今はそれ以上何も分からない。

 気が付くと、横を歩きながらシエスの頭を撫でていた。シエスは目を細めて、気配を緩めている。

 まだ普段より少しばかり暗い雰囲気だけれど、だいぶいつもの調子が戻ってきた気がする。

 そういえば、シエスと初めて出会ったのも森の中だったな。落ち込んでいても、今のシエスはあの頃よりも、ずっと明るく見える。


「さあ、じきに到着だ。我らのお喋りも長の耳に届く距離だ、気を付けた方がいい」


 前からフリエルさんの声がした。

 目を上げると、少し先にやけに背の低い大樹が見える。幹は異様に太いのに縦に短く、梢は周囲の木々より遥かに低い位置にある。明らかに不格好だけど、大樹と呼ぶに相応しい大きさではあるし、なんとなく、自分が森の中心であることを誇示するような図々しさも感じる。


「屋敷はあの中だ」


 どうやらあのおかしな大樹が長の屋敷のようだった。まあ、これまでも家を兼ねた木々は複数見てきたから驚かない。むしろ、ルナ=ドゥアリのものと違って一応は威厳ある大きさの屋敷なので、分かりやすくて良い。

 ……余計な観察はここまでだ。気を引き締める。『魔喰らい』も森のことも一旦は頭から追い出して、『果て』のことだけを考える。まずは、エルフにとって『果て』がどんな存在か、確かめないと。

 大樹の傍らに辿り着くと、フリエルさんは何気ない様子で、幹に手を伸ばした。

 瞬間、僕が大樹の幹だと思っていたものが、無数の枝に分かれて、フリエルさんの手を躱すように左右へ広がり、隙間を開けた。人がひとり通れる幅の道が、大樹の芯へ向かって現れる。

 これは、どういう原理なのだろうか。エルフの魔導だとは思うけれど。一瞬また目の前の光景に見惚れかけて、気を引き締め直す。そのまま大樹の中へと、足を踏み出しかけて。


「なあカカフ。この森、酒場あんのか?」


「無いな。エルフは酒嫌いが多いからの。じゃからわしもはるばる持参しとったんじゃい」


 場違いに気の抜けた会話が、後ろから聞こえる。引き締め直したはずの空気が、また緩む。


「てことは、長も呑まねえのか?」


「そうじゃの。耳長は爪先から耳の先までカタブツじゃぞ。まったくつまらん」


 カカフの不満げな声に、ガエウスががははと笑う。何があってもいつも通りの二人に呆れつつ、少しだけありがたかった。




「来たか」


 大樹の中、人ひとりが通れるだけの細道を歩き始めると同時に、道の先から声がした。姿は見えない。けれど声にはひどく、重さがあった。


「遅くなりました、我らが長。盟友、土小人の首長とその伴、ここに」


 僕の前を歩きながら、フリエルさんが詠うように語る。長はまだ見えない。けれど、数歩先から開けた気配がする。


「ああ」


「酒の匂いは、ご愛嬌とお流しください」


 フリエルさんは普段の調子は崩さなかった。

 そのまま真っ直ぐに歩いて、細道を抜ける。そうして、まず目に入ったのは、陽の光に照らされた、細く小さな若木だった。

 ……大樹の中に、日差し?

 一瞬困惑しかけて、すぐに我に返る。若木の向こう、円い広間のような空間の先には、老エルフが見えた。

 枝で組まれた玉座に腰掛けて、こちらを鋭く見つめている。表情は険しい。柔和な空気は欠片もなく、長というよりは王に近い覇気で、厳格な視線が僕らへと注がれている。


 そして、彼の前には僕ら以外にも、先客がいた。白い鎧と黒い軍服。いずれも、見覚えが――


「ああ、いつぞやの。こんなところで会うとはな」


 冷たい声だった。言葉は僕に向けられていた。

 黒髪黒眼、鎧までも黒塗りの男。間違いない、『赤坑道』で思いがけず出会った、帝国の臨戦官、ヴロウだった。

 その隣には、昨日会ったばかりの王国文官が立っている。王立軍の将――ニカさんは彼のすぐ脇に控えていた。彼は膝をついて顔を伏せている。あくまで護衛、ということだろうか。


「おや、先客がおりましたか」


「話は終わった。……フリエル」


「ふむ、私に、彼らを宿まで送れということですかな?」


 フリエルさんの問いに、エルフの長は頷いた。フリエルさんが大袈裟に息を吐いて、肩をすくめる。


「まあ、良いでしょう。王国のみならず帝国からも、とは。……長も、森へ引きこもる退屈にようやく飽きた、と」


「戯言はいい。行け」


 フリエルさんと言葉を交わしながら、長はまだ僕らを見ている。睨んでいる訳ではなく、敵意も殺意も感じないのに、ただ重い視線だった。一瞬、息が詰まりそうになる。

 帝国の臨戦官がどうしてか目の前にいるのに、その理由も何も考える余裕がない。聖都で教皇と対峙したときでさえ、こんな重圧は感じなかったな。


「それでは、我らはここで。我らを呼んだそちらの懸案は、明日以降にお話しくださるということでよいですな?」


「ああ」


 長の答えに満足したのか、王国文官は一礼してこちらを振り返った。ニカさんも立ち上がる。彼は何も言わず、ただこちらを見て優しい目で会釈をした。

 彼らはフリエルさんに先導されて、僕らが来た細道を歩いていった。ヴロウもその後に続いて消える。

 王国と帝国。両国の使者がこの場に招かれていた。それが意味することとは、なんだろう。そもそもこの会合の目的はなんだろうか。最早、エルフとドワーフの単なる定期会合ではないことは確かだろう。

 急ごしらえの従者でしかない僕らに知る術もないとはいえ、情報が少なすぎる。嫌な予感がするな。いつものことではあるけれど。


「お久しぶりです、ベルザニエル殿。お招き感謝します。この森はいつ来ても美しい」


 沈黙を破って、ルナ=ドゥアリが前へ出た。

 僕はカカフと同じように脇へ下がって、膝をつき目を伏せた。今この場では、僕らは従者だ。礼を失する訳にはいかない。


「久しい、か。ルナ=ドゥアリ。息災だったか」


「ええ。あいも変わらず土を掘り続けていますよ。まずいものも掘り当てましたが、縁に恵まれて事なきを得ました」


 厳かな雰囲気を崩さないエルフの長と、柔らかく語るドワーフの長。おとぎ話から想像していたのとは少し異なる光景だった。


「話は聞いた。奇異なる魔物の襲来と、我らが施した『離隔』の乱れ。不可侵の約を違えるつもりはない。魔を復し、強めておこう」


「それはありがたい。悩みがひとつ、晴れました。ですが、どのように我らの、アルマの事情を?」


「先程の帝の遣いだ」


「ああ、彼もアルマにいたのでしたね」


 僕は顔を上げずに二人の会話を聞いていた。

 関係は、今のところ悪くは見えない。ただルナ=ドゥアリの言葉には終始遠慮がうかがえた。彼も相当な地位にある人だが、老エルフは歳も何もかも別格ということだろう。それだけの気配は、ある。

 ふと隣で、ガエウスがあくびをする音が聞こえた。……まあ、従者として大人しくしていること自体がそもそも奇跡だ。あくびだけならましな方か。


「ベルザニエル殿。お招きには感謝していますが。私は、常の会合と聞いて参りました。ですが、先程の彼らも、会合に招いたということでしょうか」


 ルナ=ドゥアリの声が一段、真剣なものになる。ガエウスのせいで緩みかけた空気がまた張りつめる。


「ああ」


「……今、理由を聞いても?」


 ベルザニエル様は、一瞬の沈黙の後で、答えた。


「決しなければならぬ。世界の在り方を。今、滅びるべきは何なのか、誰なのかを」


 謎掛けのような答えだった。


「……それは、魔素病にも関係するのでしょうね」


「……」


 ルナ=ドゥアリの困惑した声に、エルフの長は答えなかった。

 フリエルさんといい、エルフの人たちは持って回った言い方を好むんだろうか。学のない僕には、言いたいことの核心が見えてこない。

 けれど、『果て』は関係しているはずだ。先程見た魔喰らい、魔素に苦しむエルフの娘。自分たちが滅ぶべきなのかと零したフリエルさん。そして長の言葉。

 因果はまだはっきりしない。でも、『果て』には近付いている。そう感じる。


「……私にはまだ、何のことやらさっぱりです。ただ、あの異様な土モグラといい、魔喰らいといい、世界で何かが起きているのは、感じます」


「ああ。委細は明日語ろう。王の遣いも帝の遣いも集め、皆の前で。……だが、その前に」


 その時だった。

 エルフの長からの気配が、強くなる。顔を上げなくても分かる。威圧するような視線が、また僕らへ注がれている。


「ルナ=ドゥアリ。この者たちは、何だ」


 険の増した声。口を開こうとして、従者としての立場を思い出す。問われているのは、まだルナ=ドゥアリだ。口は挟めない。


「私の従者です……と言っても、納得はしないでしょうね。事前に伝えられず申し訳ありませんでした。何分、彼らと出会ってから今日まで、日がなかったもので」


 ルナ=ドゥアリは気にした風もなく、変わらない調子で答えた。


「彼らは、冒険者です。緩んだ地から墜ちてアルマを訪れ、例の魔物を討ち果たした勇士。アルマを救った英雄です。彼らは、『果て』を目指している」


「……」


「我らドワーフのことは、良くご存知でしょう。恩を受けたなら必ず返す。ロジオンは『果て』の手がかりを、貴方がたが持つと信じている。引き合わせる程度なら、ベルザニエル殿も約違いと断じはしまいと、勝手ながら連れて参りました」


 ベルザニエル様は押し黙ったまま、こちらを見ている。

 ルナ=ドゥアリが僕の肩に手をのせた。僕は顔を上げて、エルフの長を見る。碧眼が僕を射抜くように見据えていた。

 腹に気合いを込めて、声を出す。正面から見つめ返す。向こうに敵意はない。これくらいの重圧なら、慣れているさ。


「ロジオンと申します。『果て』の門は貴方がた、森人が護ると聞き、参りました」


 一息置いてから、告げる。


「『果て』への道を、知りたいと思っています」


 シエスを、仲間を救うためという理由は、後でいいだろう。今は、意志だけを伝えるべきだと思った。

 ベルザニエル様は動じた様子もなく、何も言わずに僕を見ている。視線の圧は、心なしか緩んだ気がした。

 少しの沈黙が流れて、彼の反応を待っていると。


「『志』の英雄と、ヤガーの仔か」


 ぼそりと零れたようなつぶやきに一瞬動揺しかけた。僕の『力』と、ナシトの素性を知っている?


「諦めろ。『果て』には至れぬ。主らには、『果て』は重すぎる」


 続く言葉は、否定だった。

 でもこの人は、確実に『果て』を知っている。そのことに、まずは手応えを感じる。


「欠片も、どのように得たのかは知らぬが。冒険者如きが担えるものではない」


 シエスの『果て』の欠片まで。全て、一瞥して気付いたのだろうか。

 そんな人が、僕らには無理だと言う。


「冒険者も、英雄すらも。この世界では末節、塵芥に過ぎぬ」


 僕らは『果て』に届かないと言う。呆れるでもなく、ただ事実を告げるように。僕らの底を見透かしたように。


「諦めろ。世界に押し潰される前に」


 今更、そんな言葉に揺らぐはずもなかった。


 世界の在り方なんて、どうだっていい。

 僕らは『果て』に辿り着く。

 そして、叩き潰すだけだ。


 僕はエルフの長を見たまま、答えた。変わらぬ意志を、眼に込める。


「ありがとうございます。僕たちの冒険は、間違っていなかった」


「……」


 ベルザニエル様にも動じた様子はなかった。

 先程の言葉は、僕に揺さぶりをかける目的ではなかったと思う。きっと本心からの警告だろう。嘲る色はなかった。純粋に、僕らでは『果て』に至れないと思っている。そういうことだろう。

 このままでは、『果て』の手がかりは何も手に入らない。でも、僕には幸い、あと一つ打ち手がある。


「ベルザニエル様。これを、お読みいただけますか」


 言いながら、少し遠くにいるナシトに合図する。次の瞬間には、僕の手の中には封のなされた封筒が一つ、現れていた。

 それを掲げながら、説明する。


「エルフの冒険者、ルルエファルネ様より預かりました。森へ至ったなら、長へこれを見せろと」


「……!」


『蒼の旅団』のエルフ。彼女の名を口にして、ベルザニエル様はようやく僅かに表情を変えた。

 何事か小さく口にして、瞬間、僕の手の中から封筒が消えた。もう長の目の前に浮いている。封はそのまま魔導で破られた。

 長は中の手紙を読み終えると、僕を見た。どこか悩むような視線。しかもどうしてか、先程より雰囲気が柔らかくなっていた。

 手紙に何が書かれていたか、僕らは知らない。単なる案内状かと思っていたけれど。


 ベルザニエル様は、ほんの少しだけ溜め息じみた息を吐いた。手を振ると、浮いていた手紙が何処かへと消えた。


「……少なくとも、主らに運はあったようだ。選んだ男ではなく主らを寄越すとは。意図も分からぬ。だがそれも主らの運、か」


 ぼそりとつぶやく。

 先程までの厳しい雰囲気はすっかりと消えていた。眉根を寄せて、困ったような目をした長は、急に外見の歳相応の、穏やかな老人に見え始めた。

 また一つ溜め息を吐いて、つぶやく。


「……娘からの、久方振りの便りを運んだ礼だ。近く、此処へ呼ぶ。その時は一人で来い」


 苦々しげな声だった。そんな長はルナ=ドゥアリも初めて見るのか、目を丸くしている。

 ……ルルエファルネ、長の娘だったのか。

 僕も相当間抜けな顔をしていたのだろう、ガエウスがこちらを見て、馬鹿にしたように笑っていた。

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