第125話 前夜

『転移』の先、薄暗い建物の中で。

 僕らは王立軍と、どこか見覚えのある茶髪の青年と向き合っている。


「やはり。ロジオンさん、でしたね。弟の恩師と、このような場で出会うことになるとは」


 親しみのこもる軽やかな声。青年は僕らより早く立ち直ったようで、もうその眼に驚きはなかった。穏やかな様子で、こちらへ一歩踏み出してくる。

 弟。言われてみれば、声の雰囲気もよく似ている。とするとやはり、目の前の彼は。


「……レーリクの、ご兄弟、ですか?」


 恐る恐る尋ねてみると、青年はひとつ微笑んで、こちらへ手を伸ばした。


「ええ。私はニカ。魔導都市では弟が世話になっていたと聞きました。妙な縁ですが、会えて光栄です」


 年の頃は僕と同じか、少し上くらいだろうか。真っ直ぐに僕を見るニカさんは、薄暗いこの場に似合わずどこまでも快活な雰囲気だった。

 彼の後ろには幾人かの王立軍兵士と、それに囲まれるようにして立っている男性。何も言わずぴくりとも動かずに、じっとこちらを見ているようだった。……なぜ此処に、王国の剣、王族直属の精鋭がいる?

 戸惑いつつ、黙っている訳にもいかないのでとりあえず差し出された手を握り返す。


「……正直に言うと、まだ状況がよく分かりませんが。私はロジオンです。ええと、こちらは仲間の、ルシャと――」


「おっと、そこまでだ、ロジオン。すまないね。自己紹介の前に、私から少し、いいかな」


 遮ったのは、ルナ=ドゥアリだった。


「フリエル。これは、どういうことかな? どうして今、この森にヒトの子がいる?」


 穏やかな声。けれど普段より、ほんの僅かに剣呑だった。

 振り返ると、ルナ=ドゥアリは僕ではなく、隣に立つフリエルさんを見上げていた。


「なに。……君らの従者として数人連れて来るなら、この際だ。他からもヒトの子を集めると面白いと、思ったまでのこと」


 フリエルさんの瞳は凪いでいる。視線を交わす二人の意図は、よく分からない。

 ただ、この場に王立軍がいることが不自然であることは分かった。僕もルナ=ドゥアリから、エルフとドワーフの会合だと聞いていた。そこに王国が介入している。その事態が彼らに、エルフとドワーフにとってどんな意味を持つことなのか分からなくても、普段通りではないことくらいは分かる。


「……君の冗談にしてはキレが悪いな」


「ああ。私も今まさに、そう思っていたところだよ。どう毒を混ぜたものか悩んでしまった。私もまだまだ経験が足りない、ということかな」


「私にも嘘と分かるほどだからね。……さては、君も動揺してるね? 久々の、不測の事態に」


「さて。それは、どうだろう」


 意味有りげな会話、なんだろうか。それきり、フリエルさんとルナ=ドゥアリは、見つめ合ったまま何も言わなくなってしまった。この二人は本当によく分からない。

 僅かの間、妙な沈黙が場を満たした。僕もニカさんの手を離してそのまま、何も言えず立ち尽くしている。

 隣のシエスをちらと見ると、シエスもちょうど僕を見上げていた。何が起きているのかよく分かっていない時の無表情をしている。また隣のルシャも、背をぴんと伸ばして緊張を示しているけど、琥珀色の眼は困惑気味に揺れている。

 どうしたものか。


 口火を切ったのは、意外なことにニカさんだった。


「……あの。我々は、ベルザニエル様の便りを受けて、此処まで辿り着いたのですが」


 ドワーフの長とエルフの案内人が、同時にニカさんを見た。ベルザニエルという名前には、僕としては何の心当たりもない。けれどその名を聞いたルナ=ドゥアリは雰囲気を僅かに尖らせて、真剣な眼差しになっていた。

 ニカさんはそのまま静かに、胸元から封筒のようなものを取り出して、少し掲げて見せた。


「ここから先については、便りの中に何も指示がなく。実はこの場で立ち尽くすばかりで、困っていたところでした」


 ニカさんは照れたように笑っている。人柄だろうか、何か企んでいるようには見えない。本当に、困っていることをそのまま伝えたようにしか見えない。

 空気が弛緩しかけて、瞬間、ニカさんの手から封筒が離れた。誰かからの便りらしいそれは糸で釣られたように機敏に揺れて空を飛び、そのままフリエルさんの手の中へ収まった。彼の魔導、だろう。


「……ふむ。これはまさしく、我らが長によるもの。会合へ呼ぶとは。これはまた、面白いな。長も、分かっているようだ」


 フリエルさんは呟いて、読み終えた便りをニカさんへ投げて返した。そのまま、建物の出口らしき方へ歩いていく。

 長、か。ベルザニエルはエルフの長の名で、彼が会合に王国から人を招いた、ということだろうか。

 フリエルさんが、出口の前で立ち止まり、こちらを振り向く。雰囲気はもう、いつもの曖昧なものへ戻っていた。


「案内人も付けずに呼びつけるとは、無礼を詫びよう、王国からのご客人。まずは仮の宿へ案内しよう。とにもかくにも、我らの森を知ってもらわねば」


 フリエルさんはそう言って、返事も待たずに外へ消えていった。


「……いやはや。私も少しは長く生きてきたつもりだけど、こんなことは初めてだよ。ヒトがいるどころか、ヒトの方が多いかもしれない会合なんて、さ」


 後ろから、ルナ=ドゥアリのぼやく声が聞こえる。肩越しにちらと見ると、いつものようにやれやれと笑っている。言葉の割には、困惑したような気配はない。


「よかった。これで路頭に迷うことはなさそうです。……ロジオンさんがなぜドワーフの方々と共にいるのかは、不思議ですが。事情はひとまず、聞かずにおいた方がよさそうですね」


 ニカさんはほっとしたように緊張を緩めて、僕へ笑った。笑顔は本当にレーリクとよく似ている。


「……我々もエルフの森へしばらく滞在するつもりです。機会があれば、またお話しましょう」


 相手は王立軍で、知らないことの方が多い状況。何をどこまで話してよいか分からない。でもこれくらいは、いいだろう。


「ええ、ぜひ。レーリクの、魔導学校でのこと、教えてください。やけに恥ずかしがって僕には話してくれないので」


 ニカさんはまた一段明るく笑って、それではと告げて背を向けた。後ろの文官と仲間たちへ合図を送って、整然と建物から出ていく。

 ニカさんの歩く姿は、無防備に見えた。周囲を警戒していたようには見えない。けれど不思議と、隔絶した武の気配を感じた。ガエウスに感じるものと同じ、強者の余裕、だろうか。


「おい、ロージャ。なに呆けてやがんだ。さっさと行くぞ。もうエルフの森は目の前なんだろ!」


 ガエウスが吠えて、ずんずんと前へ行く。彼の言う通り、とにかくエルフの森へ辿り着かないと。こんなところで観察してばかりもいられない。


「ああ。みんな、行こう。カカフ、僕らが前を行きます。念のため後ろは、お願いします」


 僕も皆へ合図を送って、外へ歩き出した。

 敵地という訳ではないけれど、これからは知らない場所だ。警戒するに越したことはない。そう思ってカカフへ呼びかけたけれど。


「なに、エルフの森は何も起きん退屈な地よ。気にせず行けばいいんじゃ」


「カカフ。従者として、その発言はどうかな」


 カカフとルナ=ドゥアリはいつも通りだった。

 彼らには勝手知ったる土地ということなら、いいんだけれど。




 ニカさんたちから少し遅れて建物を出ると、そこは既に森の中だった。

 木々が鬱蒼と茂って、天をほとんど覆い隠している。僕らのいた建物は森に半ば呑まれるようにしてひっそりと立っていた。

 しばらく道なりに歩く。森は静かで、魔物の気配も不穏なざわめきも感じない。それでもどこか、おかしな雰囲気に満ちていた。


「……これは。視線、なんでしょうか」


 隣を歩くルシャがつぶやく。彼女も感じていたようだった。何かに見られているような気配。敵意というよりは、好奇の目というか、面白がるような柔らかい視線。自分たちが見世物になったような気分になる。

 山の中、森の中は木こりの仕事で慣れていたつもりだったけれど。こんな森もあるのか。まるで木々に、見られているかのような。


「この森の木々がいつから此処に在るのか。私も、恐らくは長すらも知らないだろう」


 前を行くフリエルさんが、前を向いたまま僕らへ語る。


「千年か、それ以上か。それだけを生きてなお、この森は動くもの全てへ興味を隠さない。ただ視て、それだけだとしても、面白い生き物だよ」


 フリエルさんの声は低く、けれど滑らかで、歌うような調子だった。茶化すような色もない。

 今はどんな眼をしているだろうか。ふと気になっても、彼にこちらを向くそぶりはなかった。


「ふん。お主らはいつもそうやって、自分とこの森ばかり崇めおる。面白いのは、この世界、木ばかりではないじゃろうに」


「おや。土いじりに人生を懸ける貴方から言われてしまうとは。ただ、貴方の言葉は、その通り。世界は広い。我らはそのことを、知ろうともしない」


 食ってかかるようなカカフを、フリエルさんが柔らかく受け流す。声の切れ目に合わせるように、木々が風に揺れて、ざわめいた。


「エルフ。傲慢な種だ。生まれた森こそ世界の全てと断じて、数百年の寿命を森の中で終える者も多い。この森の心地が好すぎるのも確かだが」


 フリエルさんの声に少しだけ、嘲るような色が混じった気がした。誰に向けた嘲りかは、分からない。


「我らは貴方の言葉にもっと耳を傾けるべきだと思っているよ、カフ=カカフ。貴方の声がどれだけ粗野でも、言葉には芯がある。千年の平穏もじきに終わると、貴方のような『よそ者』の声から、気付かなければ」


「は、汚い声で悪かったのう!」


 そこまで口汚く罵られた訳でもないのに、カカフは妙に怒っていた。カカフのエルフ嫌いは相当なようだ。

 それにしても、フリエルさんの言葉が気にかかる。もう少し聞いてみようか。そう思って、口を開こうとした時だった。


「……平穏が終わる、とは。この森で、何か起きているのですか?」


 僕の聞きたかったことを、僕より数瞬だけ早く、ニカさんが尋ねていた。


「……スヴォル卿。先程から少し、お喋りが過ぎるのでは?」


 刺々しい声。ニカさんが護衛している、王国の文官らしき人のものだった。スヴォルというのは、たしかニカさんとレーリクの家名だったか。


「すみません。ですが、危機とあれば手助けしなければ。エルフと王国とは、遠くとも友好な関係であったはずです。友として、出来ることを――」


「なに、じきに分かるさ。森を歩けば嫌でも、ね。我らの平穏は既に零れ落ちてしまった。取り戻せるかは所詮、我ら次第」


 フリエルさんは突き放すように言って、それきり何も言わずに黙々と歩を進めるだけだった。

 平穏が、零れ落ちた。どういうことだろう。木々から感じる視線には、危機感も禍々しさもない。揺れる葉からは楽しげな調子すら聞こえる。それなのに。

 考えても答えは出なかった。不穏さだけが胸に残る。

 隣を歩くシエスは気にした風もなく、顔に当たる森の風へ気持ち良さそうに眼を細めていた。僕が悩むことで、代わりにシエスの憂いを和らげたような気がして、馬鹿げた錯覚だけど、少し嬉しかった。




 それからしばらく歩いて。仮の宿に辿り着く頃には木漏れ日も随分弱くなって、周囲はすっかり暗くなっていた。

 僕らの仮の宿は、エルフの森の外れに位置するという小さな小屋だった。フリエルさんは僕らを小屋まで連れてから、そのままニカさんたちを案内して、何処かへ去っていった。


「さて。いつも通りなら、明日にはベルザニエル様との面通しがあるだろう。色々ありそうでも、とにかく今日は寝て、待つしかないね」


 ルナ=ドゥアリは小屋に着いて、少し疲れたように首を鳴らしただけで、普段通りの涼しい顔だった。流石はドワーフを統べる長だ。


「ロジオンも、今日はお疲れさま。好きな部屋で休んでいいよ」


 僕は頷いて、背を向けた。当然ながら、言われた通りに休むつもりはなかった。

 半ば形だけとはいえ、彼を守る従者、というのが僕らの役割だ。守るためにすべきことには全力で当たろう。それに、そうしていた方が、先程のフリエルさんの言葉を変に考え込まずに済みそうだ。

 そう思って、皆へ声をかけたのだけれど。


「ガエウス、ルシャ。僕らは、交代で番を――」


「カカフのおっさんよ、酒持ってるか?」


 ガエウス。悪巧みを隠そうともしないだみ声だった。


「おう、もちろんよ。お主、相当な酒呑みじゃろ。一度、きっちり呑み交わしたいと思っとったんじゃ」


「んだよ、いけるクチじゃねえか! なら俺もあるぜ、王都の酒だ! ナシト!」


 ガエウスが叫ぶと、一瞬だけナシトが姿を見せた。片手には、彼の管理する荷物から取り出したのか、王都でよく目にする酒瓶が握られていた。……そんなものまでナシトに預けてたのか。


「おい、ロージャ! エルフの森攻略の景気づけだ、呑むぞっ」


 ガエウスは案の定、僕にも叫んだ。小屋に備え付けの机と椅子をガタガタと運んで、酒宴の準備を進めながら、楽しげに笑っている。

 というか、攻略ってなんだ。


「馬鹿言うな。僕らは見張りだよ」


「馬鹿言え、ダンジョンでもねえんだ。んなもん要らねえよ」


 攻略と言ったのは君だろうに。とはいえこうなったらもう、ガエウスは言っても聞かない。困ったな。


「大丈夫だよ、ロジオン。此処には何度も来ているし、エルフはああ見えて律儀な種族だから、客人の守りに人を配置しているはずだ。気配がないのは、隠すのが上手いだけさ。きっと」


 ルナ=ドゥアリまで、いつの間にか席へ跳び乗って、床に届かない脚を楽しげに揺らしている。

 ガエウスはもう、杯に酒を注ぎ始めている。僕の分の杯にもきっちり、なみなみと注いでいる。

 困り果てて隣のルシャを見ても、彼女も困ったように笑うだけだった。


「ロージャ、観念せい! 酒も呑めん男に救われたとあっては、わしらも誇るに誇れんわい!」


「そうだね。まあ、いいんじゃないかな。私たちも、一晩呑み明かしたくらいじゃ、へばりはしないよ」


「んだァ? いいじゃねえか、いい度胸だ!何晩でも、 俺が相手してやるよっ」


「……ロージャ。これはもう、呑むしかないのでは……?」


 笑い声と叫び、困り顔。さっきまでの重い雰囲気は、さっぱり消えていた。これはもう、いつもの冒険の前夜だ。


「……分かった。一杯だけだよ」


 溜め息と共に観念する。ガエウスは喜びの雄叫びをあげて、酒の満ちた杯を器用に投げてよこした。


「…………呑み過ぎは、駄目」


 すぐ傍でぶすりとつぶやいたシエスに、目で謝って。僕らは勢いよく杯をぶつけた。



 もちろん、僕の杯が一杯で許されるはずもなかった。

 ガエウスはカカフと肩を組んで歌い出し、ルナ=ドゥアリは赤い顔で手を叩いて笑っていた。ナシトも、時折現れて酒の肴をつまんでいたような。ルシャまで呑み始めて、急に僕へ抱きついて、シエスが少しむくれて。僕も気が付くと笑ってばかりいた。


 騒がしくて、楽しい夜だった。結局眠りについたのは随分遅くになってからだった。


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