第119話 諦める

 シエスが泣いている。彼女は泣き虫だから、泣き顔なんてもう見慣れたと思っていたのに。いつもとはまるで違う空っぽな表情に、僕は一瞬、どうしようもなく動揺してしまう。

 シエスは寝台からぴくりとも動かずに、瞬きすら忘れたようにただ泣いている。僕の方を向いて僕を見ているようで、その目には何も映っていないようにも見えた。出会った頃よりも深い、絶望の色。胸が苦しくなる。

 シエスが泣いている。僕が揺れている場合じゃない。もう間違えないと誓ったはずだ。


「シエス。落ち着いて」


 動揺を胸の奥で潰し殺して、寝台に腰掛けながらシエスの手に触れる。恐ろしく冷たかった。すぐに空いたもう一方の手で頬に触れた。いつもは僕の手より温かくて心地好いのに、今は感触さえ違うような気がする。


「……ロージャ」


 シエスの眼に焦点が戻って、僕を見る。そのまま僕の名を呼んだ。顔色は悪いけれど、意識はしっかりしている。病などではなさそうだ。

 けれど涙が止まる様子は無い。溢れた涙の粒を親指で拭ってやる。


「大丈夫。傍にいるよ」


「……」


 返事は無い。でも、頬に触れる僕の手へ、シエスは手を重ねてくれた。空っぽな様子は薄れて、代わりに堪えるような、苦しそうな表情。


「僕のことは、見えている?」


「……見える。……でも、魔素が。いつもは、いつも、傍にあるのに」


 僕のことは見えている。視力を失ったという訳ではなさそうだ。魔素だけが見えなくなった。理由は、何だろう。


「寝るまでは見えていたんだよね?」


「……ん」


 シエスは頷きながら、目を閉じた。まるで、普段と違う目の前の光景を拒否するような必死さで、固く目を瞑って動かない。

 魔導を暴走させた後も魔素は見えていた。すると『果て』の欠片が何か悪さをしている訳でもない、のだろうか。シエスの首元に取り付いたこれは、僕らには余りにも得体の知れないものだから、関係無いと今すぐに断定はできないけれど。

 魔素の見えない僕が考えても答えは出ない、か。とにかくナシトに相談すべきだろう。そう思って、僕が部屋に入る前、彼が此処に立っていたことを思い出した。

 まさか、ナシトが何かしたのか? 一瞬疑いかけて、すぐに止めた。ナシトは、シエスが魔導を学ぶ上で一番近くにいた存在だ。シエスがどれだけ魔素と親しんでいたか、どれだけ魔導に真剣に取り組んでいたかは、彼が誰よりも良く知っている。だからこそあの時、魔導を暴走させた後も、叱責するでも慰めるでもなくいつも通りにシエスを見ていた。そのはずだ。

 そのナシトが、シエスから魔導を取り上げるだろうか。そもそも、いかにナシトといえど、人から魔導を奪うなんてできるとは――


「……ロージャ」


 力ない声。思考を打ち切る。

 シエスはまだ目を閉じている。涙は閉じた瞼から溢れている。ひどく哀しげな姿だった。


「……魔素を、吸えない。…………どうして」


 涙がぽろぽろと零れていく。シエスの頬も手も、まだ冷たい。僕はもう、見ていられなくなった。

 頬から手を離して、両手でシエスを抱き上げる。そのまま無理矢理、抱き締めた。

 シエスは脱力したまま、嫌がることもなく僕へ体重を預けている。僕の胸の中で、僕を見上げている。目は開けてくれたけれど、まだ濡れていた。

 魔素が見えず、吸えもしない。シエスは今、僕と同じように、魔導を扱えない身体になってしまったということだろうか。そのことに、この娘は絶望している。

 どうすれば、シエスの憂いを拭えるだろう。


「……私、もう、魔導師になれない」


 聞いたことがないくらい、シエスの声は震えていた。


「皆のこと、傷付けて。魔素も見えなく、なって……」


 言葉一つひとつを絞り出すごとに、涙が溢れ出す。自分の言葉に自分が一番傷付いている。そんな風に見えた。


「ようやく……隣に、ロージャの隣に、立てたのに。…………私、もう、仲間じゃない」


 シエスはまた目を瞑ってしまった。全身が恐ろしく震えている。嗚咽が漏れるのを無理矢理抑え込んでいるのか。

 黙り込んでしまったシエスの頭を撫でながら、考える。

 仲間じゃない、か。『赤坑道』でもそんなことを言っていたな。シエスが絶望しているのは、魔素が見えないことよりも、仲間でいられないことなのかもしれない。

 もしそうなら。


「ねえ、シエス」


「……」


 シエスは反応しない。いつもなら、返事は無くても僕へ視線を返してくれるのに。


「シエスはさ、僕が『力』を使えなくなったら、どうする? 『力』だけじゃないな。盾も鎚も、扱えなくなったとしたら」


 シエスはまだ俯いている。

 いつもなら、どこにいても僕の声に振り向いて、僕を見てすぐにとことこと隣へ寄ってきてくれる。そうして僕を見上げる、気が抜けていて無関心そうな瞳。でも本当は感情豊かで、好奇心に満ちた眼。それが僕を見てくれないだけで、僕まで落ち込んだ気分になりかけてしまう。


「僕が弱くなって、もうシエスのこと守れなくなったとしたら、さ。シエスはどう思う?」


「……」


 シエスはようやく目を開けてくれた。でも眼には分かりやすく憂いしか見えない。

 返事は無かった。答えを聞きたい訳ではないから、構わない。


「先に僕のことを話そうか。僕が今よりさらに弱くなったら。僕は落ち込むよ。皆を守り続ける力がないなんて、受け入れられることじゃない。皆の傍にい続けられるか、ひどく不安になって、泣いてしまうかもしれない。今のシエスみたいにね」


 シエスは僕の腕の中で、僕をじっと見上げて動かない。窓の向こうで鳥が一つ、鳴いたような気がした。

 シエスの憂いは、僕がかつて間違えたこととよく似ている。僕にはそんな気がする。


「そんな僕を見たら、シエスはどうする?」


 意地悪な問いだろうか。シエスの眼に一瞬だけ、いつもの光が灯る。


「……私が、守る。隣にいる。それが私の、生きる意味だから」


 シエスは震えながら、言い切ってみせた。けれどまたすぐに俯いてしまう。


「だけど、もう――」


「僕が弱くなっても。シエスは僕のこと、諦めたりしないだろう?」


「……っ」


 今度は僕が言い切って、笑ってみせる。シエスは、僕の仲間たちは、僕を諦めたりしない。そのことを、僕はもう何よりも強く信じている。


「シエスもルシャも、隣にいてくれる。ガエウスだって、弱くなったんならさっさと鍛え直せって、うるさいはずだよ。ナシトだって、きっと後ろをついてくる。何も言わずに」


 僕には皆がいる。だから、たとえ全ての力を失ってしまったとしても、ひとしきり落ち込んだ後で僕はまた鍛え直すはずだ。皆を守るために。鎚も盾も『力』も使えないなら、別の手段を考える。それが何なのかは、僕にはまだピンとこないけれど。

 力を失っても、僕はまた立ち直れる。守れない自分に絶望しても、僕は諦めないはずだ。ただ皆の傍にいたいから、また強くなってみせる。

 僕はそう思っている。それは皆だって、シエスだって、きっと同じだ。


「僕だって同じだよ、シエス。僕らは仲間だ。僕が君のこと、諦める訳ないだろ。魔導を使えなくなったくらいで、さ」


 力を込めて、シエスを見る。


「一緒に考えよう。また魔素が見えるようになるまで、できることは全部やってみよう。それでも駄目なら、そうだな、剣でも弓でも、なんでも教えるよ。魔導を教えた時みたいに」


 シエスも僕に見つめ返してくれた。憂いは拭いきれなくても、きちんと僕を見てくれている。そんなシエスに、もう一度笑ってみせた。


「だから大丈夫。僕が、傍にいるよ」


「……」


 シエスは何も答えなかった。黙り込んだままで、いつにも増して無口なまま。不意に視線を僕から外して、僕の胸に顔を埋めて、腕をいつの間にか僕の背に回して抱きついている。抱き締める力は、普段より少しだけ強い気がした。

 僕もしばらく何も言わずに、ただ銀の髪を撫で続けた。

 撫でながら、考える。

 僕は滅茶苦茶なことを言っているのかもしれないな。こんな小さな娘に、落ち込むことも認めずに、力が無くても僕に付いてこいと言い放っている訳なのだから。僕がシエスの傍にいたいからという身も蓋もない理由で、シエスが諦めるのを許さない。考えるほどに滅茶苦茶だ。僕はいつからこんな、どうしようもなく我が儘な男になってしまったのだろう?

 でも、僕にはこうするしかなかった。もう僕には、大切な人と距離を置くなんて、一瞬でも耐えられそうにない。

 皆と一緒にいる。そのために生きる。どんなに情けなくても、それだけはもう、譲る気も無い。

 だから、シエスが僅かでも僕と共にいることを望んでくれるなら、僕は諦めない。仲間じゃないと勝手に思い込んで、それが辛くて泣いているうちは、僕はシエスの傍から離れるつもりなんてないんだ。


 そんな、自分への言い訳じみたことを考えていると。ふと、部屋に漂う甘い匂いに気が付いた。流石に長居しすぎたかな。ルシャが下で困っているかもしれない。

 同時に、シエスの肩の震えがおさまっていることにも気付く。ぽんと一つ頭を撫でて、シエスの身体を離す。


「とりあえず、朝食にしよう。ルシャが待ってる。それから、ナシトに相談してみよう」


 シエスの眼は案の定赤く腫れ始めていた。目元に残った水滴を指で拭ってから、身体を支えて寝台から立たせてやる。

 シエスはふらつくことなく、自分の足で立って、けれど歩き出す気配はない。立ち上がった僕を、またじっと見上げていた。

 視線は悲しげでもなく、怯える訳でもない。いつものふてぶてしくすらある無表情とはまだ少し遠いけれど、幾分落ち着いてはいるらしい、そんな無表情。


「シエス、ほら。行こう」


 手を伸ばす。シエスの眼がゆっくりと僕の顔から手に移る。なんだか、出会った頃を思い出すぎこちなさ。


「…………ん」


 シエスはようやく返事をしてくれた。いつもより遠慮がちに僕の手を取る。昔のシエスは、こんな感じだったな。


「ロージャ」


「ん?」


「……私、も…………なんでもない」


 シエスは何か言いかけて、止めて俯いた。僕の手を握って、そのまま腕にぴとりと擦りつく。

 少しの違和感。まだいつも通りのシエスではない。まだわだかまりは残っているのかもしれない。シエスにも、仲間であることに対して簡単には譲れない思いが、あるのかもしれない。

 でも、手はしっかりと握ってくれている。手も身体も、もう冷たくはない。シエスは僕の傍にいようとしてくれている。なら今はまだ大丈夫だろう。


 シエスが惑うなら、僕が傍で支えるだけだ。


 もう一度、言葉にはせずにそう誓って、シエスと二人で下へ降りた。

 甘い匂いが僕らを包む。食卓に並んだリヌイを見ても、シエスは表情を変えなかった。

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