第117話 ヤガーの仔

 僅かの間、何も言わず向き合う。

 帝国軍の青年。歳は僕より少しばかり上だろうか。背は高くない。それでも眼の冷たさに少しだけ気圧されてしまう。

 ……いや。気圧されているのは、眼のせいだけではない。彼の歩く様子にも立つ姿にも、一切の隙が無かった。彼の全身から何か、言いしれぬ何かが滲むのを感じて、僕の肌がひりつく。これは恐らく、ガエウスから時折感じるような、隔絶した強者の気配。


「……貴方は。どうして貴方が、ここに」


 僕が圧倒されて何も言えないうちに、後ろからルシャの声がした。

 ほとんど同時に、僕に隠れるようにして、小さな気配が僕の背に縋りつくのを感じた。シエスだろう。落ち込んだ様子は、まだ変わらないようだった。

 青年は僕からちらと視線を移して、ルシャを見た。感情の動きは全く感じられない。


「久しいな、シェムシャハル殿。すると貴公らが、『守り手』か」


「何の、用ですか」


「大した用ではなかった。先程までは」


 警戒を隠そうともしないルシャ。その彼女に一切親しみを向けない、帝国軍の青年。

 彼はルシャの知り合いだろうか。彼女は使徒時代に帝国にも派遣されているだろうから、軍と接点があっても不思議なことではない。けれど彼の声にもルシャの声にも友好的な雰囲気は無かった。知り合いだったとしても、友ではなさそうだ。


「私は『守り手』のロジオン。私たちは、依頼を受けてここに来た冒険者です。……同行を求められる、理由を聞いても良いでしょうか」


 ルシャに続けて僕も話しかけた。冷たい視線がまた、僕へ戻る。


「説明しよう」


 一言の後、青年は緩やかに手を挙げた。すると後ろの兵たちが、身じろぎ一つしないのは変わらず、ただ気配だけを僅かに弛緩させた。警戒を緩める合図のように見えた。

 明確な敵意は感じない。今のところは手元に武具も見えない。けれど僕には帝国軍に対して、拭いがたい不信がある。『サルニルカ島』で見た、禁忌の魔導で歪められた生物たち。彼らの秘密を知る僕らを、帝国軍が好意的に見る訳もない。

 だからこちらは警戒を緩めなかった。油断なく相手の所作を見る。ドワーフの都市で感じたような善意を、帝国軍に期待するつもりは微塵も無い。


「紹介が遅れた。私はヴロウ。帝国魔導軍の臨戦官」


 臨戦官。聞き慣れない役職だった。でも昔、本で見かけたことがある。たしか別名は、『孤軍』。


「臨戦官ねえ。まだあんのかよ、それ。帝国は相変わらずだな」


 ガエウスの呆れるようなつぶやき。

 軍に属しながら皇帝のみに従う者たち。戦術への知識も組織を統率する能力も問わず、ただ人も魔物も殺す力だけを求められる個の軍隊。それが臨戦官。本にはそう書いてあった。


「その臨戦官様が、どうして兵なんざ率いてんだ? 似合わねえぜ」


「貴方ほどではないさ。ガエウス・ロートリウス。貴方ほどの人が、子守りとは」


「はっ」


 ガエウスは鼻で笑って、それきり何も言わなかった。


「私は別命で地底都市に滞在していた。そこへ『外れ種』討伐支援の勅命が下った。帝都から派遣された兵と共に、という指定付きで。……私は他の臨戦官よりも御しやすいと思われているようだ」


 ヴロウと名乗った男は淡々と語り始めた。最後の言葉は不満を零したものと思うが、それにすら抑揚が無く、ただ事実を述べただけにも聞こえた。


「兵と合流し直ちに当地へ侵入、速やかに『外れ種』と交戦した。同個体は、我らが撃滅する前に戦地を離脱した。その後、君たちが始末したようだ」


 ヴロウの視線は僕らの傍ら、最早大蛇とも呼べないほど原型を失ったケルキダ=デェダの亡骸の方を向いていた。


「二体いたとはな。協力には感謝しよう」


 むごたらしく引きちぎられた大蛇の骸を見ても、ヴロウは眉一つ動かさない。その無表情ぶりは、シエスをゆうに超えてナシトと同じ域にある。


「だが」


 そんな彼の声に、初めて感情が乗った。短く、けれど明らかに、こちらを脅すかのように威圧する響き。冷たいままの視線がゆっくりと僕へ向けられる。

 シエスがきゅうと、僕の背に身体を押し付けるのを感じた。


「魔素が膨れ上がるのを感知した。地底都市周辺ではあり得ない程の量と密度。地の、黄の魔素ではない魔素が溢れて、そして消えた。興味深い」


 鼓動が早くなる。彼はシエスの暴走に、気付いている?


「溢れたのは、黒の魔素。ただの黒ではない。闇より深い漆黒。人には吐き出せぬ色。……此処で何が起きたのか。話を、聞かせてもらいたい。同行を願ったのはそのためだ」


 ヴロウは言い切って、じっとこちらを見つめた。僕の腹の底まで見通そうとするような、温度を持たない眼。

 後ろのシエスは僕に強く、ぎゅうと抱き付いている。鎧越しに少しだけ震えているのが伝わってきた。いつになく弱気で頼りない。撫でてやりたいのに、できない。

 彼はこちらを見ている。シエスに注意を向けている様子はない。遠くの魔素さえ正確に感知できる彼が、シエスの中で魔素を生み出し続ける『果て』の欠片に気付かないのは不自然だが、それはナシトが上手く隠しているのかもしれない。今彼が気付いているのは、魔素が溢れかけたことだけだ。

 どうすべきか。ただ、彼に正直に話すつもりはなかった。シエスは今、震えている。


「私たちは、依頼に基づいてここに来ました。得た情報は依頼主に提供するのみです」


 軍は関係無い。言外にそう示す。

 ギルドは独立勢力ではない。王国では各都市の支配層が、帝国では皇帝と帝国軍が、ギルドに対してそれぞれ強い影響力を持っている。だがそれでも、冒険者個人はそうした支配層から自由であるはずだ。自由である代わりに庇護も受けないのが冒険者なのだから。


「そうじゃい! 情けなくもわしらが頼んで、こやつらが成し遂げた! トドメもさせん軍如きが、後から偉そうに来て連行なんぞ、わしらの誇りが許さんわい!」


 割って入ったカフ=カカフのだみ声は、明らかに怒ってくれていた。それでもヴロウの顔には欠片も変化が無い。


「無論、強制ではない。私にそのような権限は無い。これは個人的な依頼になる。私は、魔の深奥を知りたい。ただ魔導師として、興味がある。だが」


 ヴロウがまた手を掲げた。瞬間、後ろに控えた兵たちの手に、一斉に杖が現れた。黒の長杖。彼らも全員魔導師なのか。

 そして、兵たちの杖が同時に、こちらを向いた。


「……っ、なんのつもりで――」


「断るなら。ここで全員、消すつもりだ」


 ルシャの動揺を遮って、ヴロウは手を掲げながら淡々と告げた。言葉の響きは変わらず単調ながら、彼とその後ろの部下たちから、灼けるような敵意を一瞬、感じた。全身が総毛立つ。

 ただの虚仮脅しではない。本当に、僕らを消してもいいと思っている。そう直感する。


「……本気で言っとるんか、若造」


「冒険者が一組、地底で消えたところで。何も変わりはしない。陛下は帝国の矜持も重んじられる。勅命を汚した下賤の者は、消しておくのがむしろ合理的だろう」


 愉悦に揺れることもない、ヴロウの視線。事実だけを並べるような口調を崩さない。彼は明らかに、異常だった。


「滅茶苦茶だな。相変わらず、臨戦官はこんなんばっかりなのか」


「不本意ながら、私は最も凡庸と聞いている」


「けっ、阿呆くせえ。どうすんだ、ロージャ。全員殺すか?」


 ガエウスはふざけた調子のままで、けれど既に気配は張り詰めていた。絶対に口にはしないだろうが、ヴロウを雑魚ではなく敵として認識している。それだけ強大な魔導師ということか。

 考えろ。

 今、僕には鎚が無い。身体も万全ではない。加えて何よりシエスが戦える状況ではない。震える彼女を守るのを最優先にしながら、帝国軍の最精鋭であるヴロウたちを相手取るのは、至難だ。

 空気は刻一刻と剣呑になっていく。僕がシエスの事情をヴロウに明かすことは、あり得ない。彼が僕らを見逃して何もせず去ることも、あり得ないだろう。なら、戦うしかない。そう決断する。それ以上はもう、考えない。


 全身に『力』を流しながら、一歩後ろへ跳ぶために、僅かに腰を落とす。右腕の違和感をまた感じる。僕に反応して、僕より早くガエウスが消えた。ルシャも剣を抜き、動き出す。一瞬、ヴロウの口元が僅かに歪んだように見えた。

 右腕の不調を無視して、右手で盾を取り、左手でシエスを抱えて、地を強く踏み蹴って――



「俺だ」



 予想もしなかった声に、時が止まった。僕の前、僕とヴロウとのちょうど間に、黒い影が現れていた。全員が、その影を見ていた。


「俺が、淀ませた黒の魔素を解き放った。黒の魔導で『外れ種』をほふった。それだけだ」


 ナシトだった。

 黒のローブに身を包んだ彼が、存在感を消さずに立っている。正面からヴロウを見据えている。


「淀ませる、解き放つ……確かに、はらに黒いうねりが見える。貴公、『ヤガーの』か。まだ、生き長らえていたのか」


「……」


 ヤガーの、仔? どうして今、魔物の名前が出てくるんだ。ヤガー、妖婆の姿をした魔物の子が、ナシト? 訳が分からない。けれど今は、驚く顔一つすべきではない。ナシトが出てきたのは、シエスを庇うためであるはずだ。それだけは、分かる。


「魔のたねならば、あり得る話か。新しい魔の動きかと、心躍ったが」


「……魔導に期待するのは、止めておけ」


「なり損ないが、知った風な口を聞く」


「……」


 ヴロウとナシトの問答は、端的に過ぎて良く理解できない。そもそも、シエスの首元から噴き出す黒いもやをこの目で見た立場からすると、あれが全てナシトの仕業だったとは思えない。ならばヴロウが納得しかけている理由は、なんだろう。

 僕だけでなく、『赤坑道』にいる者全てが硬直していた。全員が、中心に立つ二人を見ている。ただひとりシエスだけは僕の腕の中で、何も言わず何も聞かず、僕へぎゅうと縋りついていた。

 不意に、ひりつくほどの敵意が消えた。


「此処で消してもいいが。興が冷めた。撤収する」


 平坦な言葉と共にヴロウがまた、手を挙げる。兵たちの手から杖が消える。ヴロウは僕らに背を向けて、歩き出した。


「んだァ? 言うだけ言って、逃げンのか?」


「消すだけの価値も失せた。ヤガーの仔など私が手を下すまでもなく野垂れ死ぬだけだ。仲間ごと、世界に疎まれるといい」


「ごちゃごちゃうるせえな。いいぜ、次会ったらきっちり殺してやる。それまであの馬鹿陛下と、せいぜいよろしくやっとけよ」


 ガエウスの吐き捨てるような煽りにも、ヴロウは振り向かなかった。帝国軍の一団は、ヴロウを先頭に整然と歩き始めて、次の瞬間には何の前触れもなく、跡形も無く姿を消していた。

 後には静寂と、張り詰めても弛緩してもいない奇妙な余韻だけが残った。




 帝国軍が消えたのを確認して、抱えていたシエスを下ろす。シエスは自分の足で立ちながら、僕の腕から離れようとはしなかった。


「……ロージャ。今のも、私のせい。ごめん、なさい」


 俯いたシエスが謝っていた。僕は無意識に、彼女の頭を撫で揺らしてしまう。膝を折って、目線を合わせる。シエスは目を合わせてはくれなかった。


「違うよ。シエス」


「違わない。またみんなを、危ない目に――」


「シエスのせいじゃない。悪いのはあの、臨戦官だろう。それに、ちゃんと切り抜けられたじゃないか。誰も傷付いてない。あれくらい、どうってことないんだ。僕らなら」


「…………」


 笑ってみせても、シエスは俯いたままで、僕を見てはくれなかった。僕の言葉は彼女に響いていない。

 彼女は賢い娘だから、ヴロウと対峙した時の僕の動揺も葛藤も、お見通しなのかもしれない。それを自分のせいと信じているかもしれない。励まそうとする言葉だけでは、シエスは納得しないんだろう。

 ふと、王都ですれ違い始めた頃のユーリを、思い出す。あの時も、僕らはこんな風だったのかもしれない。互いを想い合うせいで、食い違って。

 なら、僕のすべきことは決まっている。今度こそちゃんと、向き合ってみせる。今度こそ、間違えない。

 でも今はまだ、シエスが落ち着いて話せる状況ではない。もう少しだけ、待つ必要がある。そう思いながら、今はただ頭を撫でる。シエスがいつものように僕を見上げてはくれないのが、寂しかった。



「ヤガーの仔……。ナシト、本当なのですか」


「ああ」


 シエスを撫でていると、すぐ横でルシャとナシトの声が聞こえた。


「これまで魔素を溜めている様子など、感じませんでしたが」


「溜める必要も無かった。それだけだ」


 ルシャは何かを考え込むように、眉間に皺を寄せていた。対するナシトは、いつもとなんら変わりない。


「ルシャ。ヤガーの仔って?」


「ああ。最近は教会関係者でもなければ滅多に聞くこともない言葉でしたね」


 言ってから、ルシャの表情がまた少し険しくなる。


「聖教の信徒が良く使う、蔑称です。ヤガーの仔、魔の忌み子。……魔物との間に生まれた人の子を指す言葉です」


 思わず何も言えなくなる。昏い顔をしていたシエスでさえ、ついに顔を上げて僕とナシトを見ていた。


「俺はヒトではない。魔との半種、半魔。そう聞いている」


 目の前のナシトは、僕らの驚きを前にしてもいつもと同じ、暗い無表情だった。

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