第116話 違和感

 夢は何も見なかった。


 意識が浮上していく。すぐ近くで、僕の名を繰り返し呼ぶ声が聞こえる。聞き慣れたいつもの響きよりもずっとか細く聞こえた。

 目を開ける。僕は横になっていたようだった。視界に広がるのは、赤い土壁と赤水晶。土煙の匂いも感じる。意識を失っていたのは僅かな間だけだったみたいだ。

 身じろぎすると、身体が軽かった。鎧が外されている。寝ぼけた頭で、上体を起こすより先に周囲を探った。魔物の気配はもう感じない。空気も弛緩している。いつもの冒険の終わりだ。僕の胸元にくっついて離れない、シエスの泣き声以外は。


「シエス、ほら。ロージャが目を覚ましましたよ」


 横を見ると、ルシャと目が合った。僕を見て困ったように笑っている。ルシャは僕の横に座って、シエスの頭を優しく撫でていた。


「……ロージャ?」


 シエスが、僕の胸に押し付けていた顔を上げてこちらを見た。目元は真っ赤で、痛々しかった。頬がまだ濡れている。ずっと泣いていたのだろう。ちらと見えた首元の欠片は、暗く濁った青に染まっていた。黒い靄はもう漏れ出していないようだった。


「シエス、無事で良かった。怪我はない?」


「…………」


「シエス?」


 僕の問いに、シエスは答えない。じっと僕の顔を見ている。見ながら、涙はその間さえぽろぽろと零れ続けていた。指で拭ってやっても止まる気配がない。


「……ロージャ、ごめんなさい。私――」


「謝りすぎだよ。魔導の暴走なんて、誰だって経験することだろう?」


「……でも、私、ロージャから教わったことも忘れて、みんなを、困らせて」


 シエスは急かされたように早口で、いつになく饒舌だった。それだけ今回のことはシエスにとっても衝撃だったということだろう。生来の無表情すら今は崩れて、年相応の泣き顔を見せている。


「これくらい、なんともないさ。僕らは無事だ。シエスも無事だった。杖なら、また僕が作ってあげる。魔導で失敗したなら、また一緒に学び直せばいい。気にすることなんて、何もないんだ」


 説教すると言っておきながら、シエスの打ちひしがれた様子を見ているとあっという間に叱る気が失せていく自分が可笑しかった。叱るのは、シエスがいつもの無表情に戻ってからでいい。そう思ってしまう。シエスの魔導のことを想うならきちんと指導しないといけないのに。やっぱり僕は甘ちゃんだ。でも、それでも良かった。シエスの魔導より、心の方がずっと大切だから。


「……ロージャのこと、傷付けた。仲間を傷付けるなんて、……そんなの、仲間じゃない。みんなのこと、何より大事なのに、傷付けて」


 シエスの声は消え入るように弱々しかった。話している間も溢れる涙を抑えきれず、いつにもましてたどたどしい。

 ふと右腕を見た。シエスの魔手に抉られたはずの傷は既に跡形も無く消えていた。考えるまでもなくルシャのお陰だろう。痛みももう全く感じない。けれどなんだろう、傷のあった二の腕あたりに何か、違和感がある。


「大げさですよ、シエス。傷なら私が癒します。それに、いつも仲間を困らせているのはガエウスと、ロージャの方でしょう?」


 ルシャはシエスを撫でながら、明るく話しかけていた。少し無理矢理な感じのする明るさで、でも口調は穏やかで、シエスを気遣うルシャの優しさが滲んで聞こえる。


「そうかな。僕は、困らせようとは思っていないけれど」


「貴方は自分の無茶に無頓着ですから。シエスと私はいつも心配してばかりです。……だから、シエスももっと、皆を困らせて良いんですよ? ロージャのように。困らせ合って、支え合うのが、仲間なんですから」


「……」


 ルシャを見上げるシエスの眼は、揺れている。それを受けるルシャはどこまでも優しげな瞳で、彼女が使徒時代に聖女と呼ばれていたことを思い出す光景だった。


「ああ。それに、間違いなんて誰にだってあるさ。ガエウスでさえ、たまに間違えて僕に矢を撃つことだってある。だからそんなに泣かなくていいんだ。シエスはまだ、これからなんだから」


「…………」


 シエスは僕とルシャを交互に見ながら、それでもまだ悲しげな表情のままだった。暴走していたとはいえ僕らを魔導で害そうとしてしまったことは、シエスの中で途方も無く大きなことなんだろう。

 気持ちは良く理解できる。僕だって、もし身体が勝手に動いて、鎚でシエスやルシャをすり潰そうとしたら、絶対に自分を許せなくなる。もし僕の鎚が、シエスの片腕を叩き潰したら。考えるだけで吐き気がする。それと同じだけの思い、自責と後悔が、今シエスの中に溢れている。

 なんと言えばシエスの心を軽くしてやれるのか分からない。僕にできるのはただ、大丈夫だと示してやることくらい、なのだろうか。


「んだァ? おいロージャ、俺がいつ、てめえに誤射したんだよ」


 近くに気配を感じなかったはずのガエウスが、いつの間にか近くに寄ってきていた。肩には、ケルキダ=デェダの触角と、牙らしきものを載せている。戦利品、というところだろう。

 僕も立ち上がる。シエスはまだ僕から離れようとせず、同じように立ち上がって僕の腹あたりに両腕を回して張り付いている。かろうじて涙は止まったようだった。良かった。


「王都にいた頃、たまに僕へ撃ち込んできたじゃないか。ほら、王都で魔物が溢れかけた時とか」


「ありゃあお前がビビってたからだろ。誤射じゃねえよ、わざとだ。ケツが引けてたから、矢でも刺しときゃ見栄えも良くなるだろうと思ってよっ」


「……勘弁してくれ」


 ガエウスは案の定空気を読まずに、僕をネタに馬鹿笑いを始めた。これで少しでも、シエスの雰囲気が和らげばいいんだけど。


「……ガエウスも。ごめんなさい」


「あァ?」


「……迷惑を、かけた。私のせいで」


 シエスは僕にくっついたまま、ガエウスにぼそりと謝っていた。普段はあれだけ仲が悪いのに、今日のシエスは本当に打ちひしがれている。


「別に構わねえ。終わってみりゃあまあまあな冒険だったからな。大物二匹に、暴れる馬鹿。想定外で悪くねえ。生意気な嬢ちゃんもようやく痛い目見れて、良かったんじゃねえか?」


 ガエウスは落ち込んだシエスを鼻で笑って、なんでもないと言ってのけた。確かにガエウスには大した危機ではなかったのかもしれない。危機だったとしても狂ったように笑って楽しむ男だから、基準が良く分からないけれど。

 少し俯いたシエスが、何か返そうと口を開いて。ガエウスの纏う空気が僅かに変わった。眼差しが鋭く、シエスへ向けられている。


「仲間だって言い張るんなら、次はきっちり、自分の手綱握っとけ。それができねえなら、後ろでじっとしてろ。戦いを乱して、俺たちの冒険を邪魔するのは、許さねえ」


「……ガエウス」


 ガエウスの強い言葉に、思わず制止の声をかけてしまう。彼の言うことは間違っていない。でも今のシエスには、強すぎる。


「いつも言ってんだろ。お前は過保護すぎンだよ。こいつはこれくらいで折れるような女じゃねえ」


 ガエウスの言葉はいつだって強い。それが信頼の裏返しなのは分かっていても、僕はどうしても、彼のようには出来そうもない。

 シエスは何も返さず、ただ俯いていた。ガエウスはそれに何も言わず、また鼻を鳴らしてから僕らに背を向けた。


「俺よりお前が話した方がいいんじゃねえのか? なあ、ナシトよぉ」


「……今は、俺から言うべきことは無い」


「んだァ? お前の弟子だろ。弟子の不始末は師の責任だろうが」


 ナシトが影から滲み出るように姿を現して、ガエウスの横に立った。いつも通りの暗さで佇んでいる。彼を見た瞬間、シエスの眼は怯えたように僅かに震えて見えた。


「俺は魔導を教えるだけだ。どう理解してどう扱うかは、シエスが決める」


「けっ。そうかよ」


 ガエウスは戦利品をナシトに放り投げて、そのままどこかへと消えていった。周辺の魔物でも探りに行ったのだろう。

 ケルキダ=デェダの牙と触角は、ナシトの手に触れた瞬間に、これもどこかへと消えた。ナシトは僕らがダンジョンで得たものを魔導で保管している。恐らく僕の鎧に付与されている魔導と同じ原理だろうけれど、勿論僕は良く理解していない。

 ナシト自身は僕らに近寄るでもなくどこかへ消えるでもなく、ただ立ってこちらを見ている。じっとシエスを見ているようだった。


「……魔導は、道具だ。それを今一度、良く思い出せ」


 思いがけず聞こえてきたナシトの言葉に、シエスの身体がぴくりと震えた。魔導は、道具。真意は汲みきれないものの、シエスを叱るような励ますような、彼なりの感情が込められているように感じた。シエスにも伝わっているだろう。

 けれどシエスは、結局暗い表情を変えることはなかった。



「カフ=カカフ。怪我はありませんか」


 僕から離れようとしないシエスを少しの間だけルシャに預けて、カフ=カカフに声をかけた。彼は僕らから少し離れて、『赤坑道』に開いたいくつもの大穴の様子を確認しながら、砕けた赤水晶を手に取って光に透かしていた。持ち帰るものを選んでいるようにも見えた。

 僕の声にカフ=カカフは振り向いて、髭面をにっかりと綻ばせた。


「おお、かすり傷一つ無いわ。わしはなんもしとらんからな。敵に一発も食らわせられんのは戦士の名折れじゃが、事実わしは何もできんかった」


「そんなことは。案内だけでも十分ありがたいですよ」


「よく言うわ。お主こそよく無事じゃった。あの嵐のような魔導に飛び込んで、五体満足で戻るとは。歴戦の勇士と見たわしの眼は、正しかったわ」


 この人は、なんだかやたらと僕のことを褒めるな。出会って一日と経っていないのに、妙に好意的だった。嘘やお世辞が上手い人にも見えない。これがドワーフの気風なのかもしれない。そんな彼らを初め疑ってかかった自分が少し恥ずかしい。

 褒められることなんて滅多になかったから、どう返せば良いか分からず、話を強引に変えてしまうことにした。


「これから一度、地底都市に戻ろうと思います。貨車は……僕が壊してしまったので、徒歩になりますが。すみません」


「気にするない。替えの貨車も何台か持ってきとるわい。『赤坑道』は近場じゃから、貨車置き場もあったはずじゃて」


「それは良かった。ではあと少ししたら、ここを発ちましょう。また声をかけます。僕らから離れすぎないでください」


「あいわかった」


 気持ちの良い返事だった。

 作業に戻ったカフ=カカフを置いて、僕はもう一つの用を片付けるために歩き出した。視線の先には、ばらばらになった僕の鎚の残骸が見える。

 ルシャの『癒し』は武具にも効果がある。でも、それが人であれモノであれ、死んだものを蘇らせることはできない。恐らくは、僕の鎚もシエスの杖も、直すことはできないだろう。

 僕にも、王都で特注してからずっと旅を共にしてきた鎚には愛着があった。杖が死んで激昂したシエスと同じように、鎚を失って悲しむ気持ちは間違いなく僕の中にある。でもそれは僕の中だけで叩き潰しておくつもりだった。シエスは自分が生み出した魔導が僕の鎚を引きちぎったのを見ているだろう。自分のせいと思ってしまうかもしれない。シエスにこれ以上、自分を責めてほしくない。


 鎚の残骸の目の前に来て、立ち止まりかけた時。少し遠くで、仲間以外の気配を感じた。魔物ではない、人の気配。敵だろうか。数は一つではない。十以上はありそうだ。

 思わず振り向いて、シエスたちの位置を確認する。皆より僕の方が気配に近い。ただ念のためシエスたちの方へ跳ぼうと、少しだけ『力』を込めると。微かに感じていた右腕の違和感が、強まった。

 これは、何だろう。『力』を使えなくなった訳ではない。でも何か、右腕の中で『力』がせき止められるような、腕の中に自分のものでない何かが埋め込まれているような。

 思考を打ち切る。何にせよ、動揺している場合ではない。早く皆の元に行かなくては。そう思った時だった。


「ロージャ。客だぜ」


 ガエウスの声。その声が不機嫌に聞こえて、僕は不安を覚えてしまう。

『赤坑道』の端、僕らが通ってきた地下道から、黒い全身鎧に身を包んだ集団が姿を現した。整然と歩調を合わせて、こちらへ進んでくる。先頭には、鎧を纏わない男性の姿が見えた。色は同じ黒の、軍服の青年。

 やっぱりか。どんな危機でも笑ってみせるガエウスが不機嫌になるのは、決まって国が絡む時だった。

 少し待つと、黒い一団は僕の前で止まった。軍服姿の男が一歩前に出る。端正な顔立ちの、黒髪の青年が僕を見る。眼は、怜悧だった。


「お初にお目にかかる。我らは帝国軍。急ごしらえの隊ゆえ、隊名は無いが」


 声の響きは、どこかナシトに似ていた。


「同行、願いたい」


 有無を言わせぬ覇気。帝都で感じた軍特有の冷たさ。それらを放ちながら、青年はただ僕だけを見据えているようだった。

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