第113話 疾走

「その『赤坑道』は、ここからどれくらい離れていますか」


 一瞬の沈黙の後で、僕はカフ=カカフに尋ねていた。動揺は収まっていないけれど、やるべきことははっきりしている。


「だいぶ離れとる。ケルキダ=デェダが出たのは掘り場らしいからの。歩くと一日はかかる」


 一日。それでは遅い。

 相手がどんな魔物でも、ガエウスたちが負けて喰われるとは思わない。でも、慣れない地下で、僕とシエス抜きで未知の魔物相手に一日持ちこたえるのは相当に厳しいだろう。戦いに絶対は無い。万が一の偶然で皆が、ルシャが致命傷を負うようなことがあれば、僕は死ぬまで後悔する。後悔するのはもう嫌だ。


「掘り場からアルマへの帰りなら、貨車でひとっ飛びなんじゃが」


 貨車。それだ。


「シエス。あの貨車を、魔導で動かせるかな。うんと速く」


「ん。たぶん、風で押せる」


 シエスの眼に困惑はなかった。僕の突拍子もない問いに迷いなく頷いている。彼女もすっかり冒険者らしくなった。


「カフ=カカフ。僕らを、『赤坑道』への道まで案内してください。それと、貨車を一つ貸してもらえませんか」


「なんじゃと? 掘り場までは登り坂じゃぞ、貨車なんぞあっても意味なかろ――」


「カカフ」


 カフ=カカフのだみ声を遮ったのはルナ=ドゥアリだった。ドワーフのおさは変わらず楽しげな瞳で、僕とシエスを見つめている。


「交渉はもういいのかな、ご客人。私はまだ、君のあげた条件を飲むか、決めかねているのだけれど」


「ええ。仲間が近くまで来ているかもしれない。彼らと合流します」


『赤坑道』とやらにいるのが皆なのかは分からない。でも不思議と確信があった。皆ならもうきっと、既に地下への入り口を見つけている。あのガエウスが、目の前の冒険を前にしてじっとしていたはずがない。ルシャが、僕を心配して探し回っていないはずがない。


くだんの魔物を討伐できるかはその場で判断します。条件については、また後で話しましょう」


「後で話せること、なのかな。君はまだ、依頼を受けてはいない。もし君たちがケルキダ=デェダを討伐してしまえば、僕はエルフの件も、聞かなかったことにしてしまえる。それでもいいのかな」


 ルナ=ドゥアリは片眉だけあからさまに上げて、いたずらっぽく微笑んでいる。

 この人は、腹の底が読めない。生きてきた世界も年数も違いすぎる。僕は今、『果て』に至る大事な手がかりを失おうとしているのかもしれない。彼の言葉からはまだ温かな善意のようなものも感じるけれど、何を信じるべきなのか、今の僕には判別がつかない。

 でも交渉だとか、何を信じるかとか、そういうことはもう、全部後だ。皆のところへ行く。皆の傍にいる。それ以上に優先すべきことなんて、僕の人生には無い。その想いを、声に乗せる。長の眼をただ真っ直ぐ見据える。


「構いません。仲間の手がかりをもらえただけでも、感謝します」


「……なるほどね。私の天運も、未だ捨てたものではないな」


 ルナ=ドゥアリは僕の答えに一つ深く笑って、何事かつぶやくと、僕らから目を離してカフ=カカフを見た。


「何をぼけっとしてるんだい、カカフ。案内を頼むよ。道中、あの忌々しいモグラのことも教えるんだ。戦士として知っていること全てを、だよ」


「ぬぅ、良く分からんが行くんだな、承知したっ。行くぞ、ロジオンっ」


 カフ=カカフに頷いて、シエスを促しながら長の部屋を出るべく踵を返した。部屋を出るまでの間、ドワーフの長はなぜか僕をじっと見ていて、その様子はまるで僕の中の何かを見通そうとするかのようだった。




 屋敷を出た。目的の魔物、ケルキダ=デェダについての情報を手早く聞きながら、地底都市の真ん中を走る大通りを、三人で駆けるようにして走り抜ける。地上をくり抜いた大穴から差す光はもうだいぶ弱まっている。夜が近い。

『赤坑道』に繋がるという地下道の前まで来て、カフ=カカフに貨車を出してもらうようお願いした。彼は怪訝そうな顔を隠そうともせずに、それでも僕の要望通りに貨車を呼び出してくれた。


「風で押す、とかなんとか言っとったが。わしらも乗るんじゃ、風なんぞでどうにかなる重さじゃなかろう」


 地下道の入り口までの案内をお願いしたつもりだったけれど、カフ=カカフは魔物のところまでついてくるつもりのようだった。彼の眼は、出会った時と比べても明らかにギラついている。彼こそ分かりやすく戦士の眼をしている。ついてくるなと言う方が無粋だということはすぐに分かった。


「シエス。風は、三人乗っても足りるかな」


「大丈夫。……貨車がつかのほうが、心配」


 シエスはいつも通り淡々とした響きで物騒なことを口走った。貨車が壊れかねないほどの圧力を、風でぶつけるつもりなのか。嫌な予感しかしないけれど、今はもう他の策を考えている暇もない。


「待てい。どういうことじゃ。大した魂は込めとらんが、これでもわしらが手ずから鍛え上げた貨車じゃい。それをそよ風程度で――」


「カフ=カカフ。問答は後です。シエスなら加減もできる。大丈夫でしょう」


「ん。任せて」


 何かが琴線に触れてしまったらしく声を荒げ始めたカフ=カカフを強引に遮って、シエスを抱えて貨車に乗り込む。カフ=カカフも、髭に埋もれた下でむすりとしながらも、すぐにのそのそと貨車の縁をよじ登ってくれた。

 シエスは僕の腕の中で目を閉じていた。小声で何事かつぶやいている。既に魔導の発動に取りかかっているようだった。


「……わしらは地中の、火の子じゃぞ。風なんぞに負ける訳、ありゃせんわ。耳長みみながみたいなこと言いおって……」


 カフ=カカフもぶつぶつとつぶやいていたが、こちらは聞かなかったふりをした。彼らの禁忌に触れてしまったのかもしれない。耳長、というのはエルフだろう。どうやらカフ=カカフには、エルフへの強烈な対抗意識があるようだった。

 少し待つと、シエスのつぶやきが止まっていた。じいと僕を見上げている。僕はシエスに魔導について聞こうとして、ふと首筋に緩く風が当たるのを感じた。


「準備、できた」


 シエスの声。風はみるみるうちに強さを増していた。地上の大穴から、冷たい外気がただ僕らだけを目がけて吹きつけている気がした。風の音が、更に強くなる。けれどまだ、貨車は重く動かない。


「ロージャ。もっと、強くして」


 また声がして、腕の中を見るとシエスが僕の腕に触れていた。彼女のお腹辺りに回した僕の腕を、更に自分へ押し付けるように、ぎゅうと力を込めている。


「この間よりも、速く走る。……放り出されてしまうかも」


 言ってから、僕から目を逸らす。耳はほんの少し赤くなっていた。シエスはどうやら、前回の貨車の旅に味をしめているようだった。思わず笑ってしまう。

 シエスはきっと、仲間たちが魔物に喰われてしまうなんて欠片も思っていない。僕らは間に合うと心から信じている。

 僕だって信じているさ。言葉で返す代わりに腕に力を込めて、シエスをより近く、僕の胸に抱き寄せた。


「んっ。……『業風パルィフ』」


 おもむろに発動句を唱えるシエスの声は、弾んでいた。聞き慣れない魔導名を耳にした、その瞬間。

 僕らの背後で大気が弾けた。何かが爆発したかのような轟音が響くのとほぼ同時に、貨車はほとんど吹き飛ばされるようにして、豪速で地下道の坂を駆け上がり始めた。

 あまりの速さに風が唸って、頬を殴っては一瞬で後ろへ抜けていく。目はうっすらと開けるので精一杯だった。貨車の車輪は明らかに、悲鳴をあげている。


「……なんてこった、風だけで、坂を――」


 カフ=カカフの驚愕に満ちた叫び声を、また轟音が遮る。大気がまた弾けて、風の奔流が貨車を弾き飛ばす。


「静かに。舌を噛むから」


 シエスの声だけがただいつも通りだった。


 それからも、続けざまに轟音が起きて、風が乱暴に貨車を押した。風の魔導というよりは『爆破』の魔導の応用に似た荒技だ。貨車は風の轟音のたびに嫌な音をたててきしみながら、とんでもない速度で地下道を駆け抜けていく。

 前回よりもずっと速く、ずっと深刻に震える貨車の中にいるのに、僕は前回ほど不安を感じていなかった。早く奥へ辿り着きたいと、そう願う気持ちの方が強いからだろうか。


「カフ=カカフ! 『赤坑道』の掘り場までは、どれくらいですかっ」


 速度になんとか慣れてきた頃、僕は大声で尋ねた。ドワーフの戦士は両手で貨車の縁にしがみついて、やや憔悴した表情で僕を見ていた。


「……速すぎて、今どの辺りかも分からんわいっ! この速さなら、もうじきじゃろっ!」


 声の響きは少し自棄やけっぽかった。怒ってはいないが、風によるものというのがどうにも納得いかないのだろうか。

 シエスは僕の腕の中でまったりとしている。時折、風と並行して光の玉を呼び出して、前方へ飛ばして進路を確認する以外は、僕の胸に頭をつけて呆と前を見ているだけだ。

 急いでいるけれど、僕にできることは特に無い。できるのはせいぜい、貨車が進路の溝から外れて全員吹き飛ばされてしまった時に、小さな二人を守れるように構えておくことくらいだった。爆音の中で、辿り着くのをただ待ち続ける奇妙な時間が淡々と流れていく。


「そうじゃ、さっき言い忘れておったっ! ケルキダ=デェダは、土を喰って潜る他に武具も喰らうぞ! 奴らケルキは何でも喰うんじゃ、重々気をつけろいっ」


「……それは、どんな金属でも、ですかっ?」


「そうじゃ! 牙で貫けないもんはそのまま丸呑みにする、喰うだけが取り柄の馬鹿モグラよっ」


 武具を喰らう、か。また、重戦士の僕にはやりにくい相手だ。盾で守ろうにも、盾を喰われてはどうしようもなくなる。

 ケルキダ=デェダという魔物は、ここまでの道中で聞いた限りでは、ドワーフたちの言う『モグラ』という呼称とは異なり、大きな口と牙を持つ長大な蛇、という印象だった。それが土を潜っては背後から襲いかかるという。土中では気配を読めず、魔導も扱うという報告もあったらしい。

 どう戦うべきか、僕はまだ決めきれていない。ここ最近はそれがいつものことになり始めているけれど、情報が少なすぎる。幸いというかなんというか、ガエウスとナシト、シエスは遠距離からの攻めと支援が主だし、ルシャも一撃離脱が主体だから、武器を取られると致命的になりそうなのはパーティで僕だけだ。まずはいつも通りの攻め方を組み立てていくしかないだろう。

 そう暫定的に結論付けて、ふと登り坂の傾斜が緩くなりはじめていることに気付いた。加えて、視界の奥の奥で、赤く濁ったような揺らめきが見えた気がした。


「驚いた。もう着いてもうた! ほれ、『赤坑道』じゃ!」


 カフ=カカフの叫ぶ声。合わせて最後の爆音が響いて、貨車がぎりぎりと加速する。目の前で赤い光がじわりと広がっていく。これも青水晶の海で見たような、水晶の照らす光だろうか。

 遠く爆発音も聞こえた。戦闘が近い。抱く腕を緩めて兜を発現させようとした僕を、シエスが見上げていた。なんだろう。


「ロージャ」


「もう着くよ。すぐに戦闘になりそうだ。準備を――」


「……止め方、考えてなかった」


「え?」


「貨車。……風で止めても土で止めても、放り出される、と思う」


 思わぬ言葉に、一瞬止まってしまう。シエスはいつもの無表情ながら、ほんのり申し訳なさそうな声音だった。予想外ではあったけれど、まあ、そもそも何の指示も出していない僕が悪いか。

 考える。視界は既に赤に染まりつつあった。貨車は平坦になった地下道を変わらぬ速度で走り続けていて、自然に止まる気配は微塵もない。時間がない。


「シエス。カフ=カカフを少し浮かせて、地面に下ろすことはできるかな。魔導で、安全に」


「できる。飛ばすのは、まだ難しいけど」


「よし。なら、僕が合図したら二人で貨車から下りて。シエスは飛べるから、問題ないだろう?」


 シエスの肩に手を置いて、彼女の眼を見る。シエスはこくりと頷いて、けれど眼は僅かに揺れていた。ロージャはどうするの、とでも聞きたげな瞳。

 僕の思い上がり、ではないだろう。シエスはいつだって、僕を最優先に考える。僕がシエスにするのと同じように。


「僕は大丈夫。少し、試してみたいことがあるんだ」


「……ん。分かった」


 シエスの返事とほぼ同時に、貨車は地下道を抜けて、開けた広間のような空間へ躍り出た。そして、風の弾ける音とは異なる、地が崩れる音。

 視界の奥で、紅い大蛇が這い出した。水晶によって赤黒く照らされた土壁を勢い良く食い破りながら、竜にも似た大蛇――ケルキダ=デェダが吼えている。その大きさは、僕の予想を遥かに上回っていた。

 魔物の近くには、二つの人影。赤水晶の光のせいでうまく判別できない。でも一人があげた笑い声は少し下卑ていて、何より獰猛で、完全に僕の仲間のものだった。彼はもう僕らに気付いている。笑い声は馬鹿みたいに楽しげだった。


「シエスっ、今だ!」


 合図を送る。シエスはすぐに貨車から飛び上がって、宙へ浮いた。


「ぬおぉっ⁉」


 一瞬遅れて、カフ=カカフの戸惑う声。彼もまた浮き上がって、けれどすぐに地に下りた。これで二人はもう大丈夫だろう。あとはいつものように、まず僕へ、魔物の注意を引きつける。


 走り続ける貨車は、着実にケルキダ=デェダに近付いている。大蛇はまだ僕に気付いていない。

 貨車の縁に足をかけて、その上に登る。風が痛い。


「展開」


 発動句を口にして、兜と鎚を発現させる。そのまま鎚の頭を貨車の後部につけて、構える。

 魔物が、こちらを向いた。僕の背丈の何倍もある体躯を晒して、僕らを見下ろしている。けれど鎌首をもたげた蛇の頭には、眼がなかった。代わりに触手に似た何かが、口元で二本、蠢いている。

 僕とケルキダ=デェダの間には、細身の影が見えた。剣を構えたそれが誰なのか、考える必要すらない。叫ぶ。


「ルシャ、離れてっ!」


「っ!」


 僕の声で、前方の影は弾かれたように横へ跳んだ。道が開く。

『力』を全身へ込める。僅かな違和感。『力』は一瞬で指先まで満ちて、なお膨れ上がった。これまで感じたことのないほどの圧力。何かが、変わっている。けれど考えるのは後だ。溢れそうな『力』を鎚に込めながら、僕は貨車の縁から跳び上がった。

 跳びながら身体を捻って、掬い上げるように鎚を振るう。鎚の頭で、全力で貨車を押し込んだ。貨車は『力』の濁流に呑み込まれて、ついに浮き上がって溝を離れ、大蛇目がけて一直線に飛んでいく。貨車はそのまま、鋼鉄の塊として、ケルキダ=デェダの腹へ突き刺さった。

 轟音と共に大蛇が吼えて、赤水晶がその金切り声に共鳴する。僕は着地しながら、その目の前で鎚と盾を持ち変えた。盾を構える。


 ケルキダ=デェダがこちらを向く。触角から感じる視線には明らかに、敵意と憤怒が込められていた。

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