第110話 地底の海
シエスを抱きかかえながら、真っ暗な闇の中へただ、落ちていく。
シエスはぎゅうと僕へ抱きついていて、顔は見えない。けれど手も身体も震えてはいなくて、怯えた雰囲気はない。こんな時でさえ周囲を窺うよりも先にシエスを気にする自分が、なんだか可笑しかった。シエスが強い娘だということくらい、もう分かっているのに。
すぐに視線を落ちる先へ向ける。何も見えない。どれくらい落ちていくのか、判別がつかない。でも僕らより先に落ちた土や木々が、既に下まで墜ちて轟音を立てている。音の響きから察するに、僕らもすぐに下へ着くだろう。シエスに光源を出してもらう暇は無さそうだった。
身体の向きを立て直して、足を下に向ける。着地の衝撃が軽くなるように、シエスの抱き方を少しだけ変える。加えて小さく呟いて、盾だけを背に展開させておく。上から落ちてくる木々を防ぐためだった。
「シエス、『靭』だけ、使って――」
「ん。もう使ってる」
シエスの声はいつも通り、落ち着ききっていた。分かっていても、彼女の胆力にはいつも驚かされる。ひとつ頷いて返して、僕も全身へ『力』を込めた。足先へ意識を集中させて、着地に備える。
そして足が、地に触れた。衝撃が全身へ走る。でもこれくらい、『サルニルカ島』で『阻害』の魔導を突き破った時と比べれば、大したことはない。気になるのはシエスに伝わってしまう負荷だけれど、シエスは僕の腕の中で変わらず凪いだ雰囲気だった。
着地を凌いで、すぐにシエスを覆い隠すように抱き直す。背の盾に大きめの木がぶつかって、砕けた。続けて土の塊が降り注ぐ。生き埋めになるほどではない。でも脚はもう積もっていく土に
しばらくそのまま耐えていると、何もかもが落ちきったようで、静寂が訪れた。シエスを隠したまま、首だけを動かして上を見る。頭上の離れたところには、僕らが落ちてきただろう穴がぽっかりと円く口を開けていて、そこだけ日の光で明るかった。
もう何も落ちてこないことを確認して、そっとシエスから手を離す。シエスはどこかを痛めた様子もなくすっと立ち上がって、こちらを見上げた。
「シエス、大丈夫?」
「ん。ありがとう。……でも、もう少し強く抱きしめても、いい。強いほうが、嬉しい」
「何言ってるのさ」
「むぅ」
なんとも気の抜ける返事だった。まあ、大丈夫ならそれでいい。
薄暗くて良く見えないものの、シエスの顔も少しだけ土をかぶっていて、汚れていた。頬を指で拭って、髪についた土くれを手ですいて落とす。シエスも顎をくいと上げて目を閉じて、気持ち良さそうにしてくれた。
さて、どうしようか。上の穴から地上に戻れるだろうか。シエスの魔導を頼れば、それも可能だと思う。それなりの距離を落ちたけれど、途方もなく遠いという訳でもない。そう思いつつ、ふともう一度穴を見上げた時だった。
穴の縁が、生き物のように蠢いていた。土が静かに、けれど勢い良く盛り上がって、みるみるうちに穴を狭めている。まるで地面が自分から穴を塞ごうとしているかのようだった。今から飛んでも、恐らくは間に合わない。
「……あれはたぶん、魔導。魔素が流れてる」
隣でつぶやくシエスの声で、なおのこと分からなくなる。魔導で、穴が塞がれようとしている。なんのために? この空洞は魔導で隠されていたということだろうか。自然の滑落ではなく。そもそもこの空洞はなんだろう。ダンジョンなのだろうか。暗くて見えないが、空気の流れのようなものは頬に感じる。地下にしては、空気があまり淀んでいない。どこかへ繋がっているのかもしれない。
「おぉい、ロージャ! また面白そうなもんに巻き込まれてるじゃねえか」
溢れ始めた疑問に思考を埋め尽くされかけたところに、聞き慣れただみ声が響いた。見ると、狭まっていく穴からこちらを覗く金髪が見えた。
野営地からこの場所までは少し離れている。けれどこの男だけは一瞬で異変に気付いたのだろう。
「とことん冒険の神に愛されてやがるなっ」
「笑い事じゃないよ、ガエウス!」
「笑い事だろ。面白えンだからよ!」
がははと笑って、ガエウスは穴の中へ一歩、踏み込もうとしている。こちらへ飛び込んでくるつもりだろうか。穴はもう、人が一人二人通れるほどの幅しかない。気付いた時には、僕は叫んでいた。
「ガエウスっ! 君は、ルシャとナシトを頼む!」
ガエウスが僕の声に足を止めた。
「んだと! てめえ、まさかこの冒険、独り占めするつもりじゃねえだろうな! その意気は買うが、俺ァ許さねえぞ!」
明らかに怒った声で叫び返すガエウス。いつも通り、怒るところがおかしい。
「馬鹿言うな! 二人を放置できないだろ! 君は二人と一緒に来てくれ! 別の入り口でも、また穴を開けるのでも、なんでもいい! 探して、後で合流しよう!」
縮まる穴へ向けて叫びながら、脳裏に一瞬、泣きそうな顔のルシャが浮かぶ。きっとひどく心配するだろうな。ルシャはシエスより僕よりずっと心配性だから。
でも周囲に敵らしい気配は今のところ感じない。すぐに僕ら二人が窮地に追い込まれるような雰囲気はない。少しの間くらいなら、別行動も問題はないはずだ。ルシャも、ガエウスとナシトと三人なら、大抵のことは難なく切り抜けられるだろう。そう思って、彼女を傍で守れない不安を封じ込める。
「……しゃあねえな! 一つ、貸しだぞロージャ!」
貸しでもなんでもいい。ガエウスの人並外れた嗅覚、危険と異変と冒険を察知する力があれば、必ずすぐに合流できる。だから今はこれが最善と信じる。
ガエウスの声が響いて、ほとんど同時に穴が完全に塞がった。暗闇と沈黙が、地下に満ちる。と思った瞬間に、明るくなった。見るとシエスが、僕の隣で光の玉をいくつも呼び出していた。日光に近い穏やかな光が、僕らのいる空間を満たしていく。
「ありがとう、シエス」
礼を言っても、シエスから返事はなかった。何かを考え込むような無表情。
「……シエス?」
「……たぶん、また穴を開けるのは、危ない」
「どういうこと?」
「あの魔導は、『阻害』の一種。今、ナシトに『伝播』で声を伝えようとして、駄目だった。あの魔導のせい」
シエスが、先程まで穴の開いていた方を指差しながら、静かに話し始めた。
「穴を塞いだのも、あの魔導だけど。あれは応急処置。この地下の存在を隠すのが、あの魔導の目的。……でも、今はあの魔導が地面を支えてる。無理してるから、綻びかけてる。理由は、よくわからない」
シエスの声は、少しだけ自信がなさそうに響いた。
「わからないけど、あの魔導が消えたら、地面が全部、落ちてくるかもしれない。ガエウスたちが本気で穴を開けようとしたら、たぶん。……うまく、言えない」
「十分だよ。僕だけじゃ分からなかった」
どうしてかしゅんとしかけたシエスの頭をそっと撫でる。とても有益な情報だ。少なくとも、ここでガエウスたちが穴を開けるのを待っているのは危ないということが分かった。
確かに、魔導抜きでもおかしな点はあった。元々崩れやすいところに木々は育たない。むしろ木々が生えているなら、その根が地をしっかりと掴むから、崩れにくくなるはずだ。なのに木も巻き込んで崩れたということは、後から何か異変が起きたか。存在を隠されていたらしいこの地底で、何かが起きている。
「とにかく、ここにいるのは危ないってことだね。なら、先に進んでみようか」
「ん」
シエスの呼び出した光のおかげで、先が見える。僕らの落ちた場所は開けた空洞になっていて、同じ幅と高さで地下道のように、どこかへ通じているようだった。装飾もない、洞穴のような道が続いている。自然にできたにしてはあまりに大きく、広い。時折頭上から土がこぼれてきて、整備された印象は受けないものの、これだけ大規模だと、誰かがこの地下道を築いたとしか思えない。
念のため、鎧を呼び出しておく。シエスが僕の手を取って、歩き出そうとして。
ぐう、と可愛らしい音が鳴った。思わず音の方、シエスを見る。シエスはふいと顔を逸して、目を合わせてくれない。でも耳は真っ赤だった。そういえば、今はもう、本当なら夕飯を食べている時間だったか。
「歩きながらだけど、何か食べようか」
「…………ん」
腰のポーチから携帯食料を取り出して、シエスへ渡す。お腹の鳴った音をなかったことにしようとしているシエスを見ながら、こうして二人きりで干し肉を齧るのなんていつぶりだろうと、呑気なことを考えて、つい笑ってしまった。
それから、しばらく歩いた。日が見えないからどれくらい経ったのか分からないものの、眠るシエスを背負って歩いて、その後で僕も寝ろと言ってむすりと怒るシエスに根負けして僕も少しだけ眠って、それからまた歩き続けているから、一日くらいは経った気がする。その間ずっと代わり映えのしない、ただ土っぽい道が続いた。魔物の気配も何も感じられないから、少し前から鎧を外して歩いている。安全で良いけれど、単調な旅だった。
「シエス。退屈じゃないかな?」
僕の隣をてとてとと歩くシエスに話しかけた。シエスはいつの間にか杖を呼び出して、こつこつと地を叩きながら黙々と歩いている。……あの杖は、元々ただの木を削っただけのものだったのに、付け加えられた水晶のおかげで、今では色々と、魔導を埋め込まれているようだった。自分の作品が自分の手を離れて、さらに磨かれていくのを見るようで、なんだか嬉しいような、気恥ずかしいような。
「退屈じゃない。ここは魔素もたくさんある。色々、練習できる」
「魔導の練習、か。それなら、僕は静かにしておいた方がいいかな。邪魔するのも――」
「話して。やっぱり練習は退屈。お話の方がいい」
シエスが僕を見上げている。繋いだ手をくいくいと引いて、僕が何か言うのを待っている。僕が退屈さに負けて会話をねだってしまったのに、シエスは楽しそうにしてくれている。
「そうだな。もう魔導の講義なんてできないからなあ。ナシトとの講義は、順調?」
「順調、だと思う。使える魔導は増えた。魔素の吸い方も、上手くなった。でも、まだ知らないこと、できないことがたくさんある。ナシトは、魔導のことだけは物知り。勉強になる」
シエスからナシトの感想を聞くのは初めてかもしれないな。もしかすると、シエスはもう、僕といる時間と同じくらい長い時間を、ナシトとも過ごしているかもしれない。良い機会だから色々と聞いてみよう。
「シエスから見て、ナシトはどう見える?」
「どういう意味?」
「いや、ナシトってたまに何を考えているのか分からない時とか、あるじゃないか。良く分からないところで笑ったりさ。もちろん良いところもたくさんあるんだけど。シエスはナシトのこと、どう思ってるのかなって、気になっただけ」
僕のふわっとした問いに、シエスが少し考え込む。しばらく黙って、ただ歩く。そんなに真剣に考えなくてもいいのだけれど。ただ、シエスとの授業の時も、唐突に笑ったりするのかとか、そういうくだらないことが妙に気になっている。
「ナシトのことは、良く分からない。でも別に嫌じゃない。魔導の授業は厳しくて、たまに嫌いになるけど」
シエスの率直な答えに笑ってしまう。あの真面目なシエスが嫌になるほどの厳しさか。確かにナシトは、魔導のためなら人の感情なんて簡単に無視してしまえそうな男だ。
「でも、困っていると、助けてくれた。助け方は、下手だった。船で酔った時、変な魚を食べさせられた。何回も。……不器用な人、だと思う。不器用なだけで、ちゃんと温かい」
言葉を選んで真剣に答えるシエスに、嬉しくなる。僕の仲間が、仲間を信じている。嬉しくない訳がない。
「そうだね。僕もそう思うよ。夜に気配を消して、背後に立つのだけはやめてほしいけどね」
「……それは、たぶんロージャにだけ」
「そ、そうなの?」
意外な事実だった。まあ、ガエウスの背後を襲おうものなら一瞬で返り討ちにされてしまうだろうから、一番抜けている僕をからかって面白がっているのかもしれない。不気味なナシトにも、人間らしい一面があるということかな。
「ナシトは、わかりにくいだけ。それに、普通の人はみんな、ロージャほどわかりやすくない。ロージャは考えてること、すぐわかる。顔を見れば」
「良く言われるんだけど、シエスもそう思うのか。……直さないとなあ」
思考が顔に出る。ガエウスにも良く笑われていることだった。一応、パーティの交渉役も任されているのに、このままだとまずい気もする。次からはしばらく、交渉はルシャあたりにお願いしようかな。
「直さなくていい。それがロージャの良いところ。私が、好きなところ」
そう言って、シエスは僕を見上げたまま、少しだけ笑った。ちらと見えた首元の『果て』の欠片が、暖かな色で光っている。
シエスだって、無表情な割に分かりやすい方だ。彼女の場合は、何も隠さずに言葉にするからかもしれないけれど。でも僕も、その分かりやすさを好ましく思っている。気持ちを真っ直ぐにぶつけてくれている気持ちになる。
髪をくしゃりと撫で揺らすと、シエスはぴたりと僕にくっついてきた。小さな頬を僕の腕にぐりぐりと、擦り付ける。甘いような爽やかなような、シエスの匂いがふわりと、僕を包む。
「……ふたりきりは、久しぶり。みんなと一緒も、ルシャと三人も、好き。でも今は、ロージャを独り占め」
シエスの声が本当に珍しく、楽しげに跳ねている。二人きりで魔導都市まで旅をしていた、出会った頃を思い出す。あの頃のような虚ろな眼は、シエスはもう一瞬だって見せない。前を向いて、僕の隣を歩くことを望んでくれている。僕はそれを思うだけで、何度でも胸の奥に幸福が満ちる。
ただ、シエスの胸元の欠片だけが、彼女の未来に影を落としている。シエスはなんとも思っていなくても、魔素を無限に生み出す『果て』の欠片が、人の子になんの悪影響も及ぼさないなんて、信じられるはずがない。
シエスは僕と生きたいと思ってくれている。だから、僕はシエスの未来と、シエスとの未来のために、『果て』に辿り着かなくては。
「……! ロージャ。見て」
シエスの声。見ると彼女は前方を指差していた。指につられるように、僕らの周囲を浮遊していた光の玉たちが一斉に前方へ飛んでいく。光が離れて、僕とシエスは暗闇に包まれる。光の玉たちは前へ飛んで、ある箇所でふわりと上へ、舞い上がった。
隣で、シエスが何事かつぶやいた。光の玉が明滅を始める。そして光量を増して、地下道全体を明るく照らした。
「……これは、すごいな」
思わず息を呑んでしまう。
光に照らされて、目の前に広がったのは、一面の青水晶。大小、形までも様々な青い水晶が、天井も壁面も地下道全てを覆うように無数に広がって、輝いていた。シエスの光を反射して、青く静かな光を返している。深い青で、まるで海の中にいるようだった。
「……綺麗」
「地底に、こんなところがあるなんて。知らなかったな」
シエスは言葉を無くして、ただ一心に目の前の青を見つめている。また一つ彼女に新しい景色を見せることができた。
ルシャにも見せてあげたかったな。僕ら二人でこんな雄大なものを見たと知ったら、ガエウスは怒るかな。そんなことを思いながら、僕自身目の前の水晶の海に、見惚れていた。
「
聞き慣れない声が聞こえたのは、そんな時だった。ガエウスよりも癖の強いだみ声が、怒ったように僕らへ近付いてくる。一瞬、鎧を呼び出しかけて、声に敵意があまり込められていないのに気付いて止める。一歩前に出て、シエスを背に隠すに留めておく。
声の主の姿はまだ見えない。気配はあるからなんとなくの位置は掴めるけれど、青水晶に隠れているのだろうか。そう思っていると、目の前の一際大きな水晶の陰から、小さな小さな影が飛び出してきた。
「ぬぁんじゃいお主ら、王国のもんか!? こんなとこで
訛りの強い王国語で僕らへ叫ぶ、
突然の出会いすぎて、僕は思わず一瞬、言葉を失ってしまった。僕の背からひょこりと顔を出しているシエスは、何も言わずじっと、目の前の土小人を見つめているようだった。
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