第109話 落下

 盾を構える。腰を落として、一撃に備える。

 目の前に敵はいない。けれど彼女ははやい。真後ろを取られれば終わりだ。見失った気配を探る。先程まで正面で撃ち合っていたはずなのに、この距離で見失ってしまったことへの驚きは、ひとまず無視をする。

 左肩で、僅かに空気が震えるのを感じた。感じた瞬間には、僕の盾の隙間、左半身へ向けて刃が迫っていた。背筋が震える。目で追っている暇すらない。けれどこれくらいなら、まだ予想のうちだ。意識の埒外で、僕は盾を左手に持ち換えていた。そのまま顔も動かさずただ腕のみで、迫る剣の横薙ぎを盾で受ける。甲高い金属音が鳴る。目の前の、敵――ルシャの瞳が楽しそうに笑った気がした。

 すぐに盾への圧が、軽くなった。刃が消える。彼女は一歩後ろへ跳んでいた。こちらに攻めの機会を許さない、一撃離脱の遊撃。やりにくい相手だ。けれど今度は、彼女はすぐにこちらへ踏み込んできた。僕の正面へ、飛び込んでくる。迫りながら、腰だめに構えた剣の刃の向きを幾度も変えている。どう斬りつけるか悩んでいるというよりも、あえて僕へ見せている。そう思った瞬間に、ルシャは身体を捻って、右半身のみを僕へ露わにした。僕へ向かいながら、剣をその左半身で隠している。上手いな。

 僕も踏み込む。半歩だけ出て、ルシャの勢いを消す。けれど彼女はその半歩にも瞬時に対応して、勢いの乗った剣を頭上から、振り下ろしてきていた。盾を上に傾けて、受け止める。先程より重い一撃。受け止めながら、次の斬撃に備えようと、剣を持つ手に意識が流れかけて。ルシャの脚に力がこもるのに気付くのが、一瞬遅れた。

 瞬間、ルシャの身体が大きく回る。僕に背を向けたと思った時にはもう、彼女の脚が僕の腰下、膝のあたり目がけて迫っていた。綺麗な回し蹴りだ。盾で防ぐ暇は、なかった。代わりに腰を僅かに落として、膝ではなく太腿を向ける。脚に力を込めて、固める。蹴りを受けた瞬間、重い音がした。息が漏れかける。『靭』のこもった蹴りは、かなり痛い。でも脚が痺れるほどではなかった。

 ルシャがまた後ろに跳んで、離れた。けれどそこから鋭い気配は失せていて、見るとルシャは口をむずむずとさせている。笑うのをこらえている時に、彼女が良くする表情。


「本当に、『力』は使っていないのですか?」


 声もひどく楽しげだった。呆れるような色が少しだけ滲んでいる。


「使ってないよ。そういう決まりじゃないか」


「……魔導も使わず、『志』にも頼らず、その硬さですか。大岩でも蹴ったのかと思いましたよ。こちらの脚が、痺れてしまいそうでした」


 そう言いながら、ルシャを流れるような動作で剣を鞘へ収めた。僕もふっと息をつく。昼過ぎに鍛錬を始めたはずが、気が付くとかなり長い間撃ち合っていたようで、頬に感じる風は少し冷たくなっていた。今日は、こんなところかな。

 今日は探索の合間に『力』抜きでの鍛錬をしようと思って、ルシャに立ち合いをお願いした。彼女も、『靭』程度は使っていたけれど得意の魔導剣は使っていない。今日は純粋に、身体の動かし方を見たかったからだ。

 戦ってみると改めて良く分かるけれど、ルシャは器用だ。基本に忠実なだけでなく、相手の攻め方守り方に合わせて、自分の攻め手を変えることができる。臨機応変という言葉が良く似合う。冒険と戦闘に誰よりもうるさいあのガエウスと一緒に僕らのパーティの中衛を務めているのに、これまで彼からほとんど怒られていないことが、彼女の器用さの一番の証拠だろう。

 考えていると、ふふ、と漏れる声が聞こえて、見るとルシャが微笑んでいた。


「どうして笑うのさ。これでも重戦士だよ。女の子の蹴りくらい、なんでもないさ」


「いえ。可笑しい訳ではないのです。なんだか貴方が頼もしくて、嬉しくて。守られてばかりなのは悔しいですが……貴方の強さなら、ずっとずっと私たちを、守ってくれるようにも思えてしまって。それがどうしようもなく、嬉しくて」


 優しく笑いながら、ルシャが僕へ歩み寄ってきた。少しだけ汗に濡れて、上気して僅かに赤い顔でもルシャはいつも通り整った美しさで、何よりその優しい表情が僕は好きだった。

 見惚れかけたことを誤魔化すように、口を開く。ルシャは自分への好意に鈍感だから、気付いていないと思うけど。


「まだまだ、強くならないと。ルシャの魔導剣も、素手で受け止められるくらいにさ」


 少しだけふざけてみる。ルシャは隣で僕を見上げて、また一つ嬉しそうな笑みを深めてくれた。


「それはもう、人間業ではありませんね。シエスあたりは、貴方ならいずれできると、本気で信じていそうですけど」


「……それは、困るな」


 胸を張るシエスを思い浮かべてしまって、つい笑ってしまった。僕と同じように笑っているルシャの手を取って、促す。野営地に戻ろう。そろそろ食事の準備を始めないと。今日もきっと、シエスとルシャに手伝わせてもらえないんだろうけど。




 森の近くに設営した野営地に戻ると、おこした火の近くでガエウスが寝ていた。いびきがうるさくて、まるで地響きのようだった。周囲の警戒なんて一切していないようにしか見えないけれど、これでいつも僕より早く敵を見つけて跳ね起きるのだから、僕には何も言えなかった。


「シエスと、ナシトは……あっちか。魔導の講義中かな」


「そうでしょうね。私は食事の準備を始めますから、ロージャは二人を呼んできてくれませんか?」


「分かった。ありがとう。薪も集めてくるよ」


「ええ。ありがとうございます。……ほら、ガエウス!起きてください!水を汲んできて!」


「ああァ?メシかぁ?」


 てきぱきと準備を始めたルシャと、呆けた声をあげるガエウスと別れて、シエスの気配を感じる森の方へ、歩き出す。ナシトの気配は相変わらず感じられない。

 そういえば、先程もルシャの気配を見失ってしまった。ルシャが気配を消すのが上手いという印象はなかったけれど、明らかに上手くなっていた。もしかすると、達人のナシトか、意外に上手いシエスあたりに教わっていたのだろうか。僕は気配を消す役回りは少ないけれど、できるなら教わっておきたかった。いつか聞いてみよう。

 そんなことを思いながら森の中を歩いていく。奥に二人がいるはずのこの森は、既に調べてある。なんの変哲もないただの森だ。魔物も出ない、平和な場所。木々が真っ直ぐに天へ伸び、心地好い木陰を作っているだけの、自然の森。

 帝都を出てからまだ数日で、エルフの森への手がかりは何も掴めていない。地図を頼りに、帝都から北をくまなく探索して、見つけた森を全て調査する。気の遠くなるような作業でも、今はこれしかない。せめて、森を隠す魔導の痕跡とかエルフの目撃情報とか、そういうものが手に入ればまた違ってくると思うものの、まだ数日だ。そう上手くもいかないさ。


「……『共有』と『伝播』の魔導は、異なるものだ。『共有』は、他者の知覚を支配する。戦闘には不適だ。無色の魔素は戦場では徐々に数を減らす。なおさら『共有』などでいたずらに消費すべきではない」


 ナシトの声が聞こえて、思考を中断する。


「『共有』より『伝播』の方が、使える距離が短いのは、どうして?この間、声を届けようとして、届かなかった。でも『共有』は、届いた」


「それはお前の実力と、意思による。声よりも姿を、光景を見せたいと願ったなら、魔導はそれに応じる。自らを正しく理解しろ。でなければ、お前の過ちでロージャは死ぬぞ」


 話の内容は、恐らく魔導に関することだろう。でも内容は既に高度すぎて、僕にはあまり頭に入ってこなかった。それより、ナシトが物騒なことを口走っていて驚いた。厳しい教え手だとは思っていたけれど、いつもの感情の乗らない声で、ほとんど脅すようことを言っている。


「ロージャは死なない。私は、間違えない」


「その自信は、戦闘時のみにしておけ。学びに自信は不要だ。疑え。何もかもを。思いも理論も、世界もだ」


「……ん。分からないけど、分かった」


 二人とも淡々としていて、なんだか不思議な講義だった。雰囲気から察するにまだ終えるつもりはなさそうで、声をかけようか迷う。このまま近くに腰かけて、少し眺めていようか。

 そう思っていると、唐突に、ナシトの近くにいたシエスの姿がかき消えた。突然すぎて戸惑う。でもすぐに思い当たる。気配ごと消える、この魔導は。


「ロージャ」


 声が隣から聞こえた。僕のすぐ傍にシエスが立っていて、僕を見上げていた。


「シエス。今のは、魔導?」


「ん。ロージャの鎧のと、同じ」


 僕の鎧や兜にかけられた魔導は、確か『転移』だったか、『収斂しゅうれん』だったか。相当に高度なものだったはずだ。人の身を扱うとなれば尚更慎重な制御が必要になるだろう。それをシエスは、涼しい顔でやってのけた。

 シエスはいつもの無表情で、けれど明らかに眼が輝いていた。僕に何かを期待している。こういうところは本当に、分かりやすい。


「すごいじゃないか。気配も読めなかった。いつもみたいに、ずっと練習してたんだろう?」


「いつもより、時間がかかった。でももう、使える」


「さすが。もうすっかり、一人前の魔導師だね」


 嬉しそうな無表情。考えるまでもなく、僕は膝を折ってシエスと眼を合わせて、銀の髪を撫でていた。シエスは眼を閉じて、手に頬を擦りつけてくる。なんだか、喉を鳴らす猫みたいだな。でも、シエスが嬉しそうで、僕も嬉しくなる。僕が無理矢理に示した魔導師への道を、シエスは嫌がる訳でもなくしっかりと進んでくれている。

 撫でながら、ナシトの方を見る。


「邪魔をしてすまない、ナシト。でも、そろそろ夕食の時間だよ」


「ああ。……シエス。次回は、黒の系統魔導をいくつか扱う。黒を効率良く出せるようにしておけ」


「ん」


 黒、というのは、魔素の色のことだろうか。魔素の色は魔導とあまり関係していないと、聞いたことがある。でも、系統、というからには何かあるのだろう。魔導都市で教鞭をとっていたナシトは魔導学の最先端を知っているはずだ。僕の知らない魔導の世界を、シエスは既に学んでいる。そのことが少しばかり寂しかった。

 そんなことを思っているうちに、ナシトはひとり、野営地に向けて歩き出していた。


「シエスはナシトと一緒に、戻っていて。僕は少し薪を拾ってから行くよ」


 シエスから手を離して、立ち上がりながら告げる。けれどシエスはすぐに僕の手を握って、離そうとしない。


「私も、拾いに行く」


「でも、シエスも疲れてるだろ?先に戻って、休んでいていいよ」


「疲れてない。行く」


 そう言って、シエスはぐいぐいと僕の手を引っ張った。元気なら、まあいいか。ナシトは僕らの会話を待つこともなく歩き去っていて、その背はもう小さくなっていた。こうなるともう、シエスを傍に置いておいた方が安全だった。


「なら、行こうか。それより、さっきナシトの言っていた黒の系統魔導というのは、なんのこと?魔導の、種類のことかな」


 森の中を見回して、手頃な枯れ木を探しながら、気になったことを聞いてみる。シエスは僕の手を離さずにとことこと横を歩きながら、少し離れたところに見かけた枯れ木を、手も使わずに魔導で持ち上げて、ふよふよと浮遊させていた。枯れ木がこちらへ、ゆっくりと飛んでくる。

 こともなげに魔導を扱うシエス。もう見慣れてしまって感覚も麻痺しつつあるけれど、このは本当に、すごい。常人は魔素酔いを嫌って、こんなふうにどうでもいいところでは魔導を扱うことはほとんどない。魔素酔いしないほどの異常な魔素許容量と、人並外れた制御の才を持つシエスは、何もかもが特別だった。


「魔素には、色がある。普段は無色で、人それぞれ、色を付けられる。色の付いた魔素は、使いやすい魔導と、使いにくい魔導がある。黒は、ナシトの色。ナシトの得意な魔導」


 シエスの答えは少しばかり分かりにくかった。ただ、魔素の色とそれに応じた魔導があるということだろう。ナシトが黒の系統魔導が得意というのは、見た印象そのままだな。


「そうなの?シエスは、何色?」


「私は、何でも使える。どの色でも付けられる。魔素の色と魔導は、引っかかりの強さだから。色が違うと身体の中で引っかかって、酔いやすい、らしい。私にはあまり、関係ない」


「それなら、僕にもあまり関係なさそうだな。何色でも、すぐ酔ってしまうから」


 木の枝を拾いながら、なんだか昔を思い出して笑ってしまう。昔といっても、シエスと出会った頃だからほんの数月前だけど。あの時は、僕が魔導の基礎を教えた。今はもう、僕がシエスに教わる立場になっている。


「僕がシエスの最初の先生だったんだけどな。今じゃもうすっかり追い越されて、敵わないや」


「そんなこと、ない」


 つい零した言葉に、シエスは首を振っていた。いつの間にか僕から手を離して、魔導で集めて中空に浮かばせた木々を掴んで、腕の中に集め直している。


「知識だけじゃ、魔導は使えない。思いがないと。そう教えてくれたのは、ロージャ。……それに、私の魔導は、ロージャのため。ロージャがいないと、使えない。だからロージャは、これからもずっと、私の先生」


 シエスはそう言うと、僕から顔を背けて、すたすたと前へ歩いていってしまった。彼女の歩く先は少し開けていて、明るい。銀の髪から覗いた耳は、少しばかり赤く見えた。

 シエスの理論は、かなり無理矢理なようにも思うけど。シエスがそう思ってくれるなら、それでいい。ただ、魔導の先生を名乗るなら、僕もナシトに色々と、知識だけでも教わるべきかな。でも僕は鍛錬を優先すべきで、あまり時間もないだろうか。


 そんなことを思って、シエスの歩いていった方を見て。突然、強烈な違和感が僕を襲った。寒気が、全身を駆け抜ける。


 何かがおかしい。でも何がおかしいのか、分からない。

 敵意は感じない。人の気配も、魔物の気配も無い。ただ、何かが普通ではない。何かが、ズレている。


「シエスっ!止まって!」


 思わず大声を上げてしまった。シエスはびくりとして、こちらを振り向いた。驚いたのか、抱えた薪をいくつか取り落としていた。


「……どうしたの?」


 シエスは、いつも通り。

 周囲を見回す。違和感の正体を探す。森の中。木々と土の匂いに囲まれて、陽の光が弱く差していて、暗くはない。……日の差し方が、これまで歩いてきた道と違う。でも、ただ木が少なめで開けた場所というだけだ。これだけなら、別に何もおかしくはない。

 この感覚は何だろう。思い出そうとしても、思い出せない。勘違いだろうか。そう思いかけて。

 シエスのすぐ傍に、傾いた木々が数本、見えた。不自然に、斜めへかしいでいる。見回すと、他の木々も僅かに、それぞれが別々の方向へ、傾いていた。これまで歩いてきた森の中では、全ての木々が一様に天を目指して、真っ直ぐに上へと伸びていたのに。違和感が、溢れ出す。

 思い出す。村で木こりをしていた頃、大雨が続いた後の山で見た、異様な光景。緩んだ地面、傾いた木々、露わになった木の根と、轟音。目の前で流れ落ちていく、土石流――地崩れ。その前兆が、僕の目の前に、広がっていた。

 今僕らがいるのは、平地だ。同じことは起きない。そう思うのに、震えは止まらなかった。


「シエス、こっちに!」


「……?」


「早く!ここは、危な――」


 叫んだ瞬間だった。ぶつん、と嫌な音が響く。木の根が引きちぎれる音。木こりの頃、何よりも怖れていた、崩壊の始まりの音。


 突如、地が、波打った。僕の数歩前、シエスの立っていた場所が、がくんと傾く。僕らの目の前で、地に大穴が開いて、全てがそこに飲み込まれようとしていた。シエスは何か魔導を発動させようとしたのか、何かをつぶやいていて。横から倒れ込んでくる大木に気付いていない。


「シエスっ!」


『力』を込めて、緩んだ地を無理矢理踏み蹴って、シエスと大木の間に身体を捩じ込む。間一髪で間に合って、シエスの身体を抱きとめて、背で大木を受けた時には、地上にいたはずの僕らの身体は中空に投げ出されていた。

 ぽっかりと穴を開けた下へ――地下へ、落ちていく。どうしてこんなところで、地崩れが起きたのか。この大穴はなんなのか。どうして僕らは、この大穴と地下の存在に気付かなかったのか。何一つ分からないままに、僕とシエスはただ、流れ落ちる土と木々と同じように、真っ逆さまに墜ちていった。

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