第108話 別れ
「……違う男を好きになったけど、ついてきてほしい。あの時そう言えば良かったの?壊れかけていた、あなたに」
ユーリの涙声が静かに響く。
「ああ」
「嘘よ。そんなことを言えば、あなたは本当に壊れていたわ」
「そうかもしれない。でも、少なくとも、君の傍で君を守り続けていられた」
傍にいられるなら心が壊れても構わない、とは言わなかった。守るためなら自分の何を犠牲にしたっていいと、胸の片隅ではまだ微かにそう思っているけれど、そう言ってしまえばシエスとルシャは悲しむはずだから。
目の前のユーリを見る。彼女の瞳には新たな色が混じっていた。『サルニルカ島』で彼女に怒りをぶつけた時と同じ、怯えるような瞳。
それを見て、今更気付く。ユーリもシエスもルシャも、僕を想う気持ちは同じなのかもしれない。三人とも僕を大切に思いながら、僕の生き方を危なっかしく思っている。でも、ユーリはそれを怖れて遠ざけて、シエスとルシャはそれでも僕の隣にいようと、心を尽くしてくれている。
比べたい訳じゃない。でも今僕の隣にいるふたりがどれほど暖かくて、どれほど大切な存在か、改めて分かったような気がした。
思考を打ち切る。ふたりに感謝するのはまた後だ。そう思ってもう一度、ユーリに向けて口を開く。
「君と別れて、僕はひたすら泣いた。どうしようもなく辛くてさ。何もかも失ってしまった気がした。でも、僕が泣いたのは。もちろん自分の惨めさもあるけれど、一番は……君が僕の傍にいなくていいと決めたから、だった。僕は、傍にいたかったんだ。あの時君が、一緒に来てくれと言ってくれたなら、僕はどこへだって行っていた。その果てに、君がソルディグを愛して、僕を愛さなくなったとしても。僕は傍で守れるなら。それで、良かったんだ」
話しながら、思う。
僕は聖人君子じゃない。みっともなく嫉妬もするし、大好きな人が傍で僕以外を愛していたら、壊れかけるほど悩むと思う。王都で僕がおかしくなった時のように。
でも、それでも僕に、傍にいてほしいと望んでくれるなら。僕は血反吐を吐いてでも、傍にいるはずだ。それが僕の生き方で、傍で守ることが僕の誇りだから。
そんな僕に怯えるなら、それでいい。でも僕は、僕へ怯えるユーリの隣で生きようとは、もう思わない。
「……そんなこと、できる訳ないじゃない。ずっと一緒にいてくれたあなたを、死ぬまで利用するような、そんなこと――」
「なら、もっと話し合うべきだったんだ。僕は自分の弱さが君を遠ざけていると思って、強さを追い求めて。君はそんな僕の生き方から、目を背けた。そうやって勝手に考えて、自分の想いを押し付けて。互いの想いは底まで分かっているつもりになってさ。その結果が、僕らの過去なんだ。僕らは、想いをぶつけ合わなかった。すれ違うのは当たり前だったんだ」
「……」
僕はもう、何度も考えた。どうすればユーリを離さずに済んだのか、考えたくもないのに、気が付くと考えていた。
でも答えは、ユーリと別れた直後に気付いていたんだ。もっとユーリの想いを知るべきだった。もっと向き合うべきだった。それだけだ。
そのユーリの想いを。今更知ったところで、僕にできることは無い。
「もう過去には戻れない。僕は『蒼の旅団』と行くつもりはない。もう君を守りたいとは、思っていない。僕らは、間違えたんだよ。ユーリ」
僕の言葉に、ユーリは何も答えなかった。眼から怖れも何もかもが消えて、力を失って、また俯こうとする。
それを見て、思わず手に力を込めてしまう。苛立ちがまた、胸の奥に巣食う。
「……後悔するのは、君の勝手だ。好きにしてくれ」
気が付くと僕はまた、話し始めていた。何を話そうとしているのか、自分のことなのに分からない。ただ胸の奥の情動に突き動かされる。シエスが隣で僕を見上げている気がした。
「でも、君はそれでいいのか?後ろばかり見て、失くしたものばかり嘆いて。……君は、そんな女々しい女じゃなかったはずだ」
自分の声を止められない。胸の奥の苛立ちが、少しずつ色を変えていく。
僕は本当のユーリを知らなかったのかもしれない。あんなに長いこと傍にいたのに。僕は僕の見たいようにしか、彼女を見ていなかったんだろう。本当のユーリはきっと、僕と同じように悩んで迷う、普通の女の子だった。
でも、見せかけの姿だったとしても、僕は強いユーリに憧れていたんだ。この世界の誰よりも。『果て』への冒険に憧れて、曲がったことが嫌いで、いつも余裕ありげに笑っていたユーリ。僕の前ではいつも大人っぽく振る舞おうとしていた、大好きだった女の子。
「置いていったはずの男なんて気にかけて、立ち止まって。そんなことで終わるのか? 君の冒険は。君の思いは、そんなものなのか?」
その彼女が、下を向いて立ち止まるのは。どうしても許せない。前を向かないユーリなんて、許せる訳ないじゃないか。
彼女は、僕の全てだったんだ。
「……勝手なこと、言わないで」
「言うさ。君は僕の憧れだった。君の隣にいるために死にものぐるいで努力した。その君が、いつだって強かった君が。たった一度の間違いなんかで、折れるのか」
「……っ、私は強くなんてない!あなたのそういう想いが、重かったのよっ!」
ユーリが叫ぶ。
僕らは想いを押し付け合って間違えて、もう元の二人には戻れない。今更分かり合うなんて、あり得ない。
なら、僕は最後まで、僕の想いを押し付けるだけだ。
「強くあろうと、そう見せようとしたのは君だろう。僕よりも強く、僕よりも前にと、そう願ったんだろ。なら、貫いてみせろよ。その強さを」
僕を見るユーリの眼からは、怯えは消えていた。ただ困惑と動揺と、怒りに似た激しさが灯っている。
それでいいんだ。ユーリには、たとえ怒りでも、激情の方が良く似合う。そう思って、僕も叫ぶ。僕のわがままを真っ直ぐにぶつける。きっとこれが、彼女への最後の願いだ。
「間違いなんて、飲み込んでみせろよ。馬鹿な過去なんて叩き潰して、越えてみせろよ!――僕にもできたことなんだ、君ができないわけ、ないだろうっ!」
「……っ!」
叫んだ後で、静寂が満ちる。シエスもルシャも、ユーリも何も言わない。
シエスの手を一瞬離して、そのまま振り返る。ユーリへ背を向ける。これ以上、ユーリへ何か言うつもりはなかった。後はもう、彼女がどうしたいか次第だ。
ふと横を見ると、シエスが僕を見上げていた。その手は当たり前のように僕の手をまた握り直している。シエスは僕の眼をじっと見て、視線を外さない。僕の内心を推し量ろうとするかのように真剣だった。
「……勝手なことばかり、言って」
後ろから、ユーリのつぶやく声が聞こえた。
「……間違えたのは私で、悪いのは全て、私なのに…………それでもあなたは、信じているのね」
声には疲れがあった。けれど、自嘲や迷い、怯えはもう聞こえなくて、ただ呆れたような、昔よく聞いた響きに似ていた。そのことに気付いて、苛立ちが引いていく。
信じているさ。どれだけ僕らの関係が変わっても、もう隣にはいられなくても。ユーリは大切な幼馴染で、僕にとってはいつだって、強い女の子だ。君の強さを、僕は信じる。
声には答えずに、隣のルシャを見る。ルシャもシエスと同じように僕をじっと見つめていた。けれどルシャの瞳は僕の気持ちを探りながら、もういいのですかと僕へ問いかけているようにも見えた。
ふたりは本当に、僕に優しすぎる。互いに支え合うと決めたのに、頼り切ってしまっている。僕ばかりが助けてもらっていて、この恩を返せるのはいったいいつになるのだろう。その内心を隠しながら、ルシャへ頷いてみせる。ユーリとのことは、本当にもう、これで区切りだ。そう思う。
一歩踏み出す。ユーリが動き出す気配はなかった。このまま別れて、ユーリが前に踏み出していけるかは分からない。でもそれはもう、彼女自身と彼女の仲間たちが考えるべきことだ。
そう思うのに。僕の口からは、かつても口にした言葉が漏れ出ていた。
「ユーリ。元気で」
王都ではただ情けなく響いた、別れの言葉。でも今は、言葉の意味以上のものは何もこもらなかった。
返事は聞こえなかった。振り返らずに歩き出す。隣をシエスが、少し遅れてルシャが、それぞれ僕の横を行く。目の前には先程こじ開けてしまった帝都の門がそびえている。門の付近から微かに喧騒が聞こえる気がする。僕のせいで門が壊れたのかもしれない。……門衛さんに謝って、それで済むだろうか。
そんなことを思いかけた時だった。
「……本当に、馬鹿な女。……でも、まだ私にも――」
微かに、本当に僅かにだけ聞こえたユーリのつぶやき。込められた感情は、もう分からない。
彼女は、前を向けるだろうか。きっと大丈夫だろう。僕の知る彼女は僕よりも身勝手で奔放で、だから強い。僕との過去なんて本当に過去にして、僕よりも鮮やかに前へ駆けていくはずだ。そんな彼女だから、僕は好きだったんだ。
だから、さよなら、ユーリ。
これからは本当に、別々の道だ。どうか君の行く末に、君の望む果てがあらんことを。
それからまた数日が経った。
帝都で過ごす最後の朝。僕らは今日、この街を立つつもりだった。
「もう行ってしまうのだな、ロジオン。長く共にいたようで、まだ数月だったか。なんとも満ち足りた日々だったよ」
旅装を整えて宿を出た僕らを、マナイさんたちが待っていた。向かい合って握手を交わす。
「ガエウス様も、数々のご指導、誠にありがとうございました。頂いた教えは全て、我が一族の家訓に――」
「うるせえ。何を教えたか憶えちゃいねえし、だいたいまだロクに身に付いちゃいねえだろ。家訓の前に、まずてめえが一丁前になりやがれ」
「ああ、この突き刺さるお言葉ももう今日限りと思うと、涙が――」
「おい泣くな、鬱陶しい!」
本当に泣き始めたマナイさんを見て、流石のガエウスも少しだけ動揺している。それを見て笑っていると、今度は双子――エトトとオトトが揃って僕の元へ近寄ってきた。
「……ろじオん。アりガト」
「ボウけン、タノしカタ」
驚いた。片言も片言だけれど、王国語で話す双子なんて初めて見た。きっと今日のためだけに、勉強したのだろう。双子の後ろにいるクルカさんは優しく笑っていた。彼女が教えたのだろうか。
嬉しくなる。共にしたのは短い間でも、間違いなく僕らは仲間だ。背を守り合った大切な友人が、こんな異国でもできるなんて。マナイさんの涙にもつられてか、僕も泣いてしまいそうだった。
「……
僕も帝国語で返す。エトトとオトトがにかりと笑って、拳を突き出してきて、僕も笑って拳で叩いた。
「ロジオンはもうすっかり帝国語を身に付けたな。驚くべき学習速度だ」
マナイさんが目元の涙を拭いながら笑う。僕の帝国語はまだ片言だ。褒め過ぎだと言おうとして、横からずいと、銀の影に遮られてしまった。
「ロージャは物知り。これくらいは、普通」
案の定、シエスだった。心なしか胸を張って、誇らしげな無表情に見える。なんだか気恥ずかしくなってきた。
「語学に堪能なのは物知りとは違う気もするが、そうだな。少なくとも、クルカよりは遥かに優秀だ」
「なっ、兄さン!どうして、そこでわたシを出スのっ」
「クルカも、頑張ってる。その頑張りは、褒められるべき」
「はは。それは正にその通り。ロジオンと話したいという一心で夜な夜な机に向かう妹に、兄としても――」
「に、兄さンっ!」
真っ赤になったクルカさんが大声で遮る。マナイさんはその勢いに目を丸くして、すぐに同じくらいの大声で笑い出した。僕はさらに居心地が悪くなって、手持ち無沙汰に頭をかいた。
ふと左腕に暖かくて柔らかな感触を感じて、見るとルシャがおずおずと身体を寄せていた。
「……クルカさんが良い娘なのは、分かっていますが。それとこれとは別の話で、心配になるのは、仕方のないことで……」
消え入るような声で何か、言い訳をしているようだった。ルシャは今鎧をしていないから、その、特に柔らかいところが腕に当たっていて。でもルシャにはそういう眼を向けられないから、意識を逸らすために強引に視線を外して。今度はじとっとした眼で僕を見るシエスと目が合った。
「ロージャ、どうしたのです?」
「いや、別になんでもない、よ」
「……私もすぐ大きくなる。お母様は、けっこうあった」
「……?」
ぶつぶつと何事か言うシエスと、首を傾げるルシャ。それだけでもなかなかに息苦しい雰囲気なのに、目の前にはにやにやと笑うガエウスがいた。何も言わないでほしいと目で伝えても、この男がこの状況で黙り込むはずもなかった。
「モテる男は辛えなぁ、ロージャよぉ。どうすんだ?なんならクルカも連れてくか?この嬢ちゃんも、なかなかなもん持ってるみてえだしよぉ」
間延びした気持ちの悪い声でガエウスが馬鹿なことを言う。なんとか切り抜けるしかない。でもなんと言えばいいのか分からない。僕が何を言っても、自爆する気しかしない。
「……わたシは、行けまセん。力不足、だかラ。皆さンは本当に、強くて、眩しイ」
答えるクルカさんは少しだけ辛そうだった。馬鹿な考えで沸騰しかけていた頭が冷えていく。
「ああ。我らは『果て』には届かんさ。ただ日々の糧と身の丈に合った困難を求めるだけの我らと、君たちとは何もかもが違う」
「はっ、たりめえだ」
マナイさんの声はただひたすらに真剣で、ガエウスはそれに応じるように、獰猛さを剥き出しに、笑って答える。
「力も意思も、互いを想う優しさも。全てが備わる『守り手』は必ずや『果て』へ届く。保証しよう。このマナイと、尊き先祖たちの誇りにかけて」
「……ありがとう、ございます」
「なに。我らの誇りなど何にもならぬが、心は共にあること、憶えておいてくれ。『果て』に辿り着いたら、いつかまた会おう。我らの故郷も訪れてもらわなければ、な。君らの冒険を、語り継ぐために」
僕らの冒険はただ僕らのためで、語り継ぐような大層なものじゃない。そう思うけれど、彼らとの絆は、僕にとっても誇りたいものだから、ただ黙って頷いた。もう一度、『詩と良酒』の皆と握手を交わして、肩を叩き合う。
別れはいつだって、悲しいものだ。少なくとも僕は好きじゃない。
けれどまたいつか会いたいと思える相手が、どこかで僕らを待ってくれている。そのことは僕らをまた一つ、強くさせる。生き抜いて帰ろうと、強く思わせてくれる。
見送る皆に手を振って、歩き出す。
帝都の北、数日前に僕が少し壊した北門へ向かう。そこで別れた幼馴染のことは、もう考えない。
「良い方々でしたね。出会えたことに、感謝しなければ」
「そうだね。また会いたいな。早くシエスの胸の欠片をなんとかして、会いに行こう」
「ん。……でも、私は、このままでも大丈夫」
「ダメだぜ、シエス。『果て』に行くのは確定してんだ。お前が大丈夫でも、俺ァ大丈夫じゃねえンだよ。全身が、ムズムズして仕方ねえ――」
「ガエウスは関係ない。静かにしていて」
「んだとてめえっ」
いつも通りにガエウスとシエスが喧嘩を始めて、ルシャが慌て始めて、ナシトは一言も発しない。そのいつも通りに僕は笑う。マナイさんの言う通り、どこまでだって行ける気がする。
すぐに北門が見えてきた。帝都を出た後は、しばらく街も村もない。目的地も、はっきりと場所を把握できている訳ではない。文字通り手探りの旅になる。それでも不安はあまりなかった。
「よし。行こう、みんな」
ただ自分のためにつぶやいた。隣で頷く二人と、後ろで笑うガエウス。反応のないナシト。
目指すはただ、北。何処かにあるエルフの森を探す。冬の終わりとはいえ、まだ寒さはこびり付くように残っている。これまででも一番困難な旅路になるだろう。
でも、なるようになるさ。行くべき道は、自分たちで見つける。僕らにはそれだけの力がある。仲間がいるから、そう信じられる。
そう思いながら、僕らは北門を踏み越えて、帝都の外へ踏み出した。
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