第107話 告白
風が吹き抜ける。目の前のユーリの黒髪を揺らしている。
風の冷たさは、魔素に酔った頭には心地良かった。割れるような痛みは既に引いて、視界も元に戻っている。島でユーリにぶつけたような苛立ちも怒りも、今はまだ感じていない。自分でも驚くほど、胸の内は凪いでいる。ただ、何と話し出すべきなのかが分からなかった。
「私が口を挟む問題では、ないのだと思いますが。ユーリさん。私とシエスは、ロージャから、過去のことを聞いています」
「……そう」
ルシャが口を開いた。ユーリは動じた風もなく、僕の隣に立つ彼女を見ている。
「貴女はあの時、王都で。何を想ってロージャと道を違えたのですか。違う道を進んだのに、どうして今、ロージャに――」
「ルシャ。僕が、聞くよ」
ルシャの声は少しだけ震えていた。それに気付いて、僕は思わず彼女を遮っていた。
「ユーリ。僕にも、君がどうして揺れているのか、分からない。王都の治癒院で、君はソルディグについていくと言った。君の心はもう彼の元にあると、そう言ったはずだ。その言葉に嘘はないと僕は思った。少なくとも、あの時は」
ユーリの視線が、僕へ向く。
その眼は昔よりもずっと暗いけれど、目が合ってどこか懐かしさを感じた。
「なのに、その君がどうして、僕らの過去を今も引きずっているんだ。訳が、分からないよ」
「……私にも、分からないわ。あの時は、自分がこんなに愚かだとは思わなかった」
答える声は静かだった。
「あなたから逃げたのは、私なのに。その私が、今も戦うあなたを見て、傍にいてほしいと思ってしまった。本当に、救いようのない馬鹿者よ」
ユーリの言葉に一瞬思考が止まる。胸の内に湧き出し始めたのが、苛立ちなのか何なのか、分からない。
傍にいてほしい。
王都で、ユーリにフラレた後の宿屋で。僕が何よりも願って、後悔したこと。
僕らは傍にいるべきだった。すれ違っても傍にいて、言葉を尽くして分かり合うべきだった。傍にいてほしかった。
でも僕は向き合えなくて、ユーリは隣にいることを止めた。傍にいるのを、止めたんだ。
それを乗り越えるのに、どれだけ時間がかかったか。どれだけ、仲間たちに迷惑をかけて、支えてもらったか。皆には、返しきれない恩がある。
それを。僕が誇りに思うそれら全てを無視して、ユーリは今更、傍にいてほしいと言う。ふざけている。
「ユーリは、ロージャのこと、まだ好きなの?」
僕の胸の内がぐちゃぐちゃになりはじめた一瞬。口を開いたのはシエスだった。僕の横で、いつもの無表情で、じっとユーリを見ている。
「私は、いや。あなたは仲間じゃない。……でも、それでもロージャの隣に、戻りたいの?」
シエスの言葉は震えてはいなかった。いつもの調子で、怯えなど感じさせない。でも、シエスはいつの間にか僕の手を握っていた。握る強さは、いつもより少しだけ強い。
「何か、事情があるなら。話してみてください。貴女の助けになるとは言いません。私はロージャの味方ですから。でも、貴女も前を向くべきだと、思うのです」
ルシャも告げる。今度は声の震えを必死に抑えていた。
二人とも、僕らの馬鹿な過去のために、真剣になってくれている。ユーリは、どう思うだろうか。余計なお世話だと、そう言って何も答えないだろうか。その時は、それで終わりだ。そう思って、ただユーリの言葉を待つ。
そして、僅かな沈黙の後で。
「……本当に、馬鹿みたい」
つぶやいて、ユーリは嗤った。
「あなたたち、本当にお人好しね。大好きな恋人の、昔の女まで励まして。放っておけば、そのうちどこかで死ぬだけなのに」
その声は明らかにおかしかった。聞いたことのないユーリの声。呆れと嘲りを僕らと、自分自身に向けている。
「……そんな言い方は、止めてください」
「あら。ルシャさんと、シエスちゃんだったかしら。あなたたちが一番、おかしいと思うわ。今だって妬いてしまっているのに、それでもロージャのために、ね」
ふふ、とユーリが笑う。
久しぶりに見た笑顔に、むしろ不穏さしか感じられないのが悲しかった。自然な笑顔ではない。まるでユーリの感情が、振り切れてしまったような。
「……どうして、笑うの」
「あなたには分からなくても良いことよ、シエスちゃん。ロージャのために生きたいのなら、生きればいいの。……事情なんて大したもの、無いわ。誰のためでもない。私は私のためにロージャを捨てて、ソルディグに縋った。そのことは、誇って言える。誇ることではないけれど」
ユーリの眼に力強さが戻る。言葉は投げやりにさえ聞こえるけれど、眼は真っ直ぐに、僕を見ていた。
「ロージャ。私はあの時、言ったわよね。自分の本当の想いに気付いたから、パーティを抜けるって。ソルディグを愛してしまったから、『蒼の旅団』へ入るって。それは、嘘偽りない私の想いよ。私は彼を愛してる。彼への気持ちは今だって変わらない。でも、あの時。一つだけ言わなかったことがあるの。言えば、あなたは壊れると思ったから」
何も答えない。ユーリの言葉を、ただ待つ。
何を言われても、僕の心がまた揺れても。もう過去の話だ。そう思うのに、背筋が妙にざわついて仕方なかった。
ユーリが、口を開く。
「私が、あなたに怯えるようになっていたこと、気付いていなかったでしょう。王都であなたの傍を離れたのは、ただ――あなたという存在が、怖くなったからよ」
怖くなった?僕が?
「初めて、『蒼の旅団』と依頼を受けた時のこと、憶えている?大きな竜を相手に、私は油断して、あなたに救われて、あなたが死にかけた。でも、あなたの盾で守ってもらったすぐ後に、思ったのは……安堵だったわ。自分が死なずに済んで、ほっとした。吹き飛んだあなたのことに気付いたのは、そのあと」
ユーリが一度言葉を切る。風の音が、やけにうるさく聞こえた。
ユーリが僕に怯えていた?どうして。僕はただ、守りたかっただけなのに。傍にいたかっただけなのに。
「でも、それが普通でしょう?死ねば、終わりだもの。けれどあなたは違った。死ぬのが怖くて震えるくせに、守るためなら一瞬だって躊躇わない。簡単に前へ、踏み込んでいける。戦う意味も、死ぬ覚悟も、守りたい誰かがいるなら、それを理由にして全部軽々と乗り越えてしまう。そんなの……物語の英雄にしか、できないことよ」
英雄。そんな大層なものじゃない。
ただ、守るのが僕の生き方で、それしか知らないだけだ。
「確かに、無茶が過ぎることもありますが。それはロージャの強さです。怖れるような、ことでは――」
「そうね。私もそう思えたら、良かったのに。でも私は、その強さを受け入れられなかった。だってロージャは、弱いから。私より弱いロージャが持つ強さに、浅ましく嫉妬してしまった。だから、私も強くなろうと思ったの。ロージャは、私が守れるように」
ユーリが、続ける。声に潜む自嘲の色は、強まっている気がした。
「そう思ってソルディグを頼ったのに、いくら鍛えたって、強力な魔導を身につけたって、結局私はロージャを守れなかった。簡単な依頼でも、私は上手くできなかった。弱いはずのロージャは、私を守れるのに。戦い方の問題ではないの。ただロージャは、守ると決めたから、守れるのよ。それを貫き通す、心の強さがある。……私には、そこまでの思いがないことに、気付いたの。私は、いつだって私のためにしか、戦っていない」
ユーリの言っていることが、良く分からない。
自分のために戦うなんて、当たり前だ。僕は仲間を守りたいから戦う。それだって自分のための戦いだろう。シエスやルシャに違う目的があったって、僕は構わない。理由なんてなんだっていい。僕は、傍にいられればよかったんだ。
でも、ユーリは違うと言う。彼女は、僕の意思はおかしいと言う。僕にとっては、何一つおかしいところなんてないのに。
「それから、あなたの眼を見るのが怖くなった。初めて感じた、あなただけの強さが眩しすぎて、妬ましくて。あなたの優しい眼が、得体の知れないものに見えたの。ずっと隣で、誰よりも理解していたはずのあなたを、理解できなくなった気がした。次第に、私だけを見て、私のために生きようとするあなたが、重くなった。大切なはずなのに、あなたの傍にいることが、辛くなり始めた。どうすればいいのか、私はどうしたいのか、分からなくなった」
ユーリがまた言葉を切る。
僕を妬ましく思って、そして怖れたユーリ。そんなこと、僕はこれっぽっちも気付いていなかった。それを認めたくなくて、何か返したくて、僕も口を開きかける。けれどユーリの独白はまだ続くようだった。
「……そんな時に、あの人は、忘れさせてくれたわ。ソルディグは私のことなんて、見ていなくて。私の力だけを必要としていた。それでも気まぐれに見せる優しさが、心地良かった。彼は私のためになんて生きていない。その気安さが、有難かったの」
そう言って、ユーリがまた嗤う。
「あの夜、彼にあなたとのことを打ち明けたら、抱きすくめられて。押し倒されても、抵抗はしなかった。あなたのことで悩んで、疲れ切っていて、もうどうだってよかったの。あなたのことを一瞬でも忘れられるなら。でも、彼らしくなく荒っぽく抱かれた後で、ソルディグは私を励ましてくれた。不器用な言葉で。逃げてもいいんだと、違う生き方もあるのだと教えてくれて、嬉しかった。私は私のために生きていいんだと、思えた」
シエスが、握る手に力を込めた。ぎゅっと、暖かい。傍にいることを僕に伝えようとするかのようだった。
「それから、悩み疲れた時はあの人に抱かれるようになって。あの人のくれる快楽に溺れている間は、あなたのことで悩まなくて済んだ。でもいつの間にか、あなたのことなんて関係なく、彼との時間を心から楽しんでいる自分がいたわ。あなたが寝る間も惜しんで鍛えている間に、違う男の手で、どうしようもなく昂ぶって。あなたを裏切って悦んで、あなたには見せられない顔まで、さらけ出して――」
「それ以上、言うなら。ここで貴女を斬ります」
鞘の鳴る音がした。ルシャが剣を抜いている。剣先をユーリに向けて、敵意をほとばしらせている。戦闘時と遜色ない、鋭い気配。
「話せと言ったのは、あなたたちじゃない」
「……っ、貴女は!苦しんでいたのが貴女だけでないことくらい、知っているはずでしょうっ!それなのにどうして、そんな残酷なことが、言えるのですっ」
「……私には、私の浅ましさを取り繕う資格はないわ。私が、悩むロージャを無視して、ソルディグと愛し合っていたのは確かだもの」
ユーリの自嘲が、僅かに消える。
ルシャの腕を掴んで、剣を下ろさせる。
「ルシャ。大丈夫だから」
「……ですが」
「大丈夫。ありがとう」
ルシャが剣を収めるのを見届けて、改めてユーリに向き直ろうとして。ルシャが泣きそうな顔をしていることに気付いた。
「……ロージャ。ごめんなさい。私は、勘違いしていたのかもしれません。この人は、貴方をまだ愛していると思ったのに――」
「愛して、いるわよ」
ユーリの消え入るような声。ルシャとシエスの気配が、固くなるのを感じた。
ユーリはきっと、取り返しのつかないことを言おうとしている。僕との過去も、ソルディグとの新しい日々も。全てを汚す毒を、ぶちまけようとしている。きっとそれが、彼女を惑わせているものなのだろう。
聞きたくはなかった。でも、聞かなければいけない。向き合わなければユーリが前を向けずに、ユーリが前を向かなければ僕も過去を誇れないと、そう言うなら。向き合わなければ。僕のためではなく、ユーリのためでもなく、ただ僕を想ってくれる、ふたりのために。
そうして、僅かな逡巡の後で。ユーリが口を開いた。
「他の男に身体を開いて、心も奪われて、仲間まで捨てて、それでも。あなたが他の仲間と――他の女といるのを見るだけで、胸の内がざわついて仕方ないの。あなたが私以外を守っているのを見るだけで、苛立つの。あなたの強さに嫉妬して、怯えて逃げたのは、私なのに。……馬鹿みたいでしょう?私は、私が思っているよりずっと、浅ましい女だったのよ。……ねえ、ロージャ。私は、どうすればいいのかしら」
気付くと、ユーリの目元には涙があった。彼女自身、自分の感情に翻弄されているような、辛そうな表情。決別したはずの僕にまで、そんな、縋るような眼を向けるのか。
「ユーリ。僕らはもう、別の道にいる。君の惑いに、僕はもう、何もできない」
そんなユーリに、ただ告げる。僕らはもう、仲間ではない。少なくとも、僕はそう思っている。
「分かっているわよ。私がおかしいことくらい、分かってる。でも、どうしろと言うのよ。あなたから逃げたくせに、あなたが心配で。あなたの強さが怖かったはずなのに、離れて戦うあなたを想うと、どうしようもなく不安になって。……私は別の男を愛しているのに、あなたがその二人を抱いていると思うだけで、気が狂いそうになる。こんな、馬鹿げた想い、どうすればいいのよっ!」
ユーリが声を張り上げる。悲痛な響きだった。
「どうして、あなたは良くて、私は駄目なの?あなたはふたりを都合良く愛せるのに、どうして私は選ばなくては、いけないの。私がソルディグもあなたも、愛してはいけないの?どうしてよっ」
口調はもう乱れて、ほとんど涙声だ。ユーリがこんなに取り乱して泣くのを見るのは、いつぶりだろう。冒険者になってからは、なかったはずだ。
ルシャとシエスは、何も言わない。ふたりを恋人にした僕は、ユーリの言う通り、傲慢だ。ユーリが男二人を愛したって、僕には何も言えない。言う資格はない。ソルディグを愛しながら、僕を欲するのは、ユーリの自由だ。
でも、そういうことじゃないんだ。僕が苦しんだのは、そういうことじゃない。
「ユーリ。君の悩みは、君のものだ。だけど、一つだけ言っておくよ」
口を開く。ユーリが僕を見る。涙はもう、次から次へと溢れていた。
ひとつ頭を搔いて、どう伝えたものか考える。ユーリへの苛立ちは少しだけ感じるものの、不思議ともう、声を荒げる気にはならなかった。
「僕らは、間違えたんだ。僕は、君の想いを取り違えて。君は、僕の想いに背を向けた。そのことは、もうやり直せない」
ユーリの涙は、止まらない。それでいい。
息を吸って、言い切る。王都でユーリと別れて、大声で泣いた時のことを思い出す。あの時の僕の想いは、一つだった。
僕にとっての答えはきっと、そこにある。
「僕は、傍にいたかったんだ。君の隣に。それだけなんだ。君が誰を好きになっても、僕が嫉妬でおかしくなったとしても、君を傍で守りたかった。必要としてほしかった。……僕の、その想いを振り切った君を。僕はもう、守りたいとは思わない」
傍にいたいと願う仲間を守る。ユーリが怖れた、僕の生き方。
でも、これだけが僕の生き方だ。僕の誇りで、願いだ。これだけは、譲れない。
それを否定したユーリとは、もう同じ道を行けるはずもない。
ユーリの眼が、揺れていた。涙は止まらずに、ただ頬を伝って地に落ちていく。
夕焼けは色を強めて、昏い朱が僕らとユーリに、等しく差していた。
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