第106話 対峙

 それからまた数日。

 依頼をこなして、エルフの森についての手がかりを探して、宿で休んで、鍛錬をして。それを何度か繰り返した後で、僕らは帝都での雑役税を納め終わった。

 これでもう、いつでも帝都を出ることができる。『サルニルカ島』での依頼を終えてから僕らへの警戒を僅かに強めたこの街を、できるなら早く離れてしまいたい。でも肝心の、エルフの森についての情報は、大したものを見つけられていない。街を離れてしまえば、酒場やギルドでの情報集めも、図書館での文献漁りもできなくなる。できるなら、帝都にいる内にエルフの森の手がかりをもっと得ておきたかった。だから、期日を決めて、雑役税を納め終えた後も数日だけ帝都に残って情報を集めている。


 今日も一縷いちるの望みをかけて、帝都で一番大きな図書館へ来ていた。

 帝都のちょうど真ん中近くに位置するこの図書館は、無機質な建物の多い帝都にあって珍しく古風な雰囲気を残している。柱も外壁までも全てが木造で、歩くと仄かに森の中を歩く時と似た、木の薫りを感じる。立ち並ぶ棚を埋め尽くす書物の匂いと相まって、僕はなんだか昔住んでいた家のことを思い出してしまう。切り倒した木々と、僕が村中からかき集めた本で囲まれた小屋。今いる図書館は場所も大きさもまるで違うけれど、匂いだけは似ている。そのことがなんだか可笑しかった。


「……ロジおン、さん。どうしタの?」


 気が付くと、隣で書物をぺらぺらとめくっていたクルカさんが、手を止めて僕を見ていた。

 今日は帝国語のできるルシャと、クルカさんに手伝ってもらっている。違うパーティのクルカさんにまで手伝ってもらうのは気が引けたのだけれど、マナイさんがむしろ是非にと逆に頼み込んでくるので、折角の人手を断る理由もなくて、こうして良く手伝ってもらっていた。

 ちなみに帝国語の読めないシエスは留守番だ。勿論一人にはせず、ナシトに任せてある。シエスは今朝、別れ際に若干不満そうな無表情をしていたけれど、今頃はナシトと一緒に宿で魔導の勉強をしている頃だろう。


「いや。なんでもないんだ。昔住んでた家と、匂いが似てるなと思って。それだけだよ」


「ロージャの生家は、確か木こりでしたよね。確かに、ここは木の薫りがしますね」


 僕らが陣取っている机の上に新しい本を数冊置きながら、ルシャが抑えめの声で続けた。


「その家も、こうして本でいっぱいだったのですか?」


「まさか。小さな村だったんだ。棚を一つか二つ埋めただけだよ。それでも村一番の量だったけど」


「……マナイ兄さンは、本なんて読まナい。うちには、一冊も無かっタ」


 クルカさんがつぶやく。まあ、マナイさんは明らかに読書より自然の中を駆けるのを好む人だ。それでも流暢な王国語を身に付けているのが流石だった。書物ではなく、人を頼るのが上手いに違いない。あのガエウスだって、なんだかんだと言いつつもマナイさんにかなり気を許している。最近はよく、酒場で共に酒盛りしている二人を見かけていた。

 思考が逸れて、弛緩していくのに気付いて、思わず頭を振る。もう長いこと、慣れない帝国語でエルフの森のことばかり追い求めているからか、集中し続けるのが難しくなってきていた。

 でも、ぼうとしている場合じゃない。帝都での時間は、もうあまり残されていない。


「いけない。おしゃべりは後だ。早く探そう。今日中に、なんとかして手がかりを見つけたいんだ」


「ええ」


「はイっ」


 二人に声をかけて、気合を入れ直す。文献に向き合う。ただ悲しいことに帝国語の文章はほとんど読めないから、僕の役割は、歴史書や伝承以外のあまり関係のなさそうな書物から、エルフに関する記述を探すことだった。数十だけ覚えた、エルフの森と関係の有りそうな単語をひたすらに探して、見つけたらルシャとクルカさんへ報告する。これが中々、気の滅入る作業だった。どうせ読むなら、理解できるものを読みたかった。

 黙々と読み進める二人をちらと見てから、新しい本を開く。ルシャが選んできてくれた、帝都大陸の植生に関する研究書。僕も木こりのはしくれだったから、木々の種類や植生には少しばかり、興味がある。僅かに、頁をめくる手が速くなる。集中の切れ始めた僕への、ルシャの気遣いだろうか。

 知らない単語の羅列に、目が滑りそうになりながら、必死に探す。すると、分厚い本の中ほどで、見つけた。

 小さな花の絵の横にある、『ишу афьлэ』という言葉。小さな記載だから危うく見落としかけた。これは帝国語で、『エルフの耳』という意味だったはずだ。ただ、絵にある花は羽根を広げた蝶によく似ていて、エルフの耳には見えない。花の別名だろうか。かなり悪趣味な名だと思う。


「ルシャ、クルカさん。これ。何か、関係あるかな」


 これが単に俗称なら、当てにはならないだろう。僕も幼い頃は、山で知らない形の木を見かけると、適当に変な名を付けて目印にしていた。モノの呼び方なんて、根拠も何もなく決まって、勝手に広まっていくものだ。


「これは……私も、見たことのない花ですね。説明書きを、読んでみます」


「私は、見たコとあるかも。北の方で、見かケた」


「確かに、大陸北部で疎らに分布しているようです。花の形が、エルフの両耳に見えるのが由来だとか。記載は、それだけですね」


「……また、北か」


 北。これまでの情報収集で、エルフの森に関して手に入っていた唯一の情報。帝都北部の伝承には、エルフは頻繁に現れる。南部由来と考えられる伝承には、不自然なほど現れないのに。

 他にもいくつか、エルフと北という方角を結びつける淡い根拠を見つけてあった。それに加えて、今回の花。エルフという呼称が、北では一般的だったのかもしれない。その姿を見かけることも多かったのかもしれない。


「漠然としすぎているけれど。やっぱりエルフは北にいるのかな」


「そう考えるのが、自然ですが……」


「北だけじゃ、分からナいよ」


 困ったようにつぶやく二人。確かに、北という方角だけでは手がかりにもならない。帝国の位置するこの大陸は、隣の王都大陸よりずっと大きい。帝都より北、という根拠だけでは、『果て』に辿り着くどころかエルフの森を見つけ出す前に、お爺さんになってしまう。


「しょうがない。もう少し、探してみよう。あと一つくらい、違う手がかりがあれば良いんだけど」


 折れかける気持ちをまた奮い立たせて、明るい声を作る。


「それしかありませんね」


 ルシャも僕に頷いてくれた。自然と目が合って、僕も頷くと、ルシャは口角を緩めて微笑んでくれた。少しの間、見つめ合う。

 ふと横から視線を感じる。見るとクルカさんがぼんやりとした表情で、僕らを見ていた。


「クルカさん?どうしたの?」


 先程とは逆に、僕からの問い。クルカさんは僕の声にはっとして、ふるふると首を振った。


「なんでもありまセんっ」


 なぜだか上擦った声をあげてから、クルカさんはすぐに新しい本を取って、勢い良く開く。頁から舞い上がった埃にむせつつ、急に本へ没頭し始めた彼女を不思議に思いながら、僕も読んでいた植生の研究書へ目を戻す。


「…………兄さンの、ばか。隙なんて、見つからなイもん」


 目の前の文字へ集中しかける間際、誰かの恨みっぽいつぶやきがぼそりと、聞こえた気がした。




 夕方、図書館を出た。

 丸一日こもってひたすらに文字を追ったけれど、結局はっきりとした手がかりは見つからなかった。図書館中の本をひっくり返して探したような気さえするのに、何も見つからなかった。エルフの森という場所は、書物に残るような半端な神秘ではないということだろうか。分からないものの、これ以上ここに来る意味はなさそうだった。

 ただ、酒場やギルドでの聞き込みももう一段落してしまっている。これ以上、帝都でできることはないのかもしれない。だとすれば、このあたりが潮時というやつなのだろう。北という指針しか見つからなかったことは大いに不安だけれど、もう帝都を出る頃合いだった。


「帰ろうか、ルシャ。クルカさん、そちらの宿まで送るよ」


「え、あ、大丈夫、でス」


「ちょうど僕らの宿までの途中だから、気にしないで。さあ、行こう」


 歩き出す。隣を歩くルシャと、少しだけ遅れたクルカさんが、ぱたぱたと駆け足でその横へ並ぶ。

 宿へと続く街道の奥にはちょうど夕陽が見えた。店じまいがちらほらと始まっていて、道行く人も疎らだった。ごく普通の、ただ穏やかな街の夕方。

 帝都を出れば、しばらく大きな街には立ち寄らないだろう。エルフの森の近くに街があるとは思えないし、何より今、僕らは帝国から注視されている。急に襲撃があるとは思っていないが、もし帝国から何らかの接触があるなら、村や自分たちの野営地の方がずっと対処しやすい。街にいるとどうしても周囲の人目が気にかかって、武具を呼び出すのを一瞬躊躇ってしまうから。

 だからこそ、こんな光景を見る機会も、もうしばらくないのかもしれない。少しだけ寂しくなる。

 そんなことを思いながら、静かに歩き続けて。それからクルカさんを宿へ送り届けて、手を振る彼女に手を振り返して。ルシャと二人で、また歩き始める。ルシャがそっと、手を繋いできた。

『詩と良酒』の皆とも、別れなくては。こんなに心を許せるパーティとは、これまで出会うこともなかった。別れるのが辛いなんて、ガエウスの前で言ったら馬鹿笑いされてしまうかな。

 寂しいけれど、進まなくては。シエスに残された時間が、あとどれくらいあるのか分からない。馬鹿な感傷でこれ以上立ち止まっている暇はない。

 そう思って、一瞬胸の奥に湧き出した、ユーリと『蒼の旅団』のことを、すぐに更に奥へ追いやろうとして。

 振り切ったはずのユーリとのことを、僕はどうすべきなのだろうと考えて。




 その時だった。




 頭の奥で、なんの前触れもなく激痛が走る。思わず呻きそうになって、立ち止まってしまう。


「……ロージャ?」


 ルシャが異変に気付いて、僕の顔を覗き込んでいる。その顔が、良く見えない。視界が、おかしい。

 意識は確としている。幻覚に陥っているような感覚もない。ただ、両目を開いているはずなのに、僕の左目は、すぐ傍のルシャを映してはいなかった。左目の視界は、ただ灰色に濁っていた。

 思わず、左眼に触れる。何が起きた。唐突に視力を失うなんて、聞いたことが――


 混乱しかけた頭に、また激痛。今度こそ声を漏らしてしまう。頭を抑える。割れるように痛かった。


「ロージャっ!どうしたのですかっ」


「大丈、夫」


 ルシャの手が光って、僕の左の頬に触れた。暖かいけれど、これは、違う。これは、魔導の痛み。誰かが僕へ魔素を流し込んでいる。帝国の刺客だろうか。こんな、街中で。惑いながら、魔導への抵抗にもなる兜を呼び出そうとして。


 瞬間、灰色だった左目の視界が、急に開けた。

 夕焼け空と、雪の混じる荒れ地が見える。左目にだけ。

 そこに映るのは、目の前にいるはずのルシャではなく、黒髪の女の子。見間違えるはずもない。ユーリだった。憔悴したようなユーリを、少しだけ見上げている。

 ……見上げている。ユーリが見える。誰かの視界を借りて。


 ようやく理解する。思い当たる。これは、『共有』の魔導。僕が魔導学校の試験を覗き見た時の、人の視界を映し取る魔導。僕が見ているのは、シエスの視界。

 これは、シエスの魔導か。


“答えて”


 どうしてか、声までもが頭の奥へ響く。シエスの声。どうして、シエスがユーリと一緒にいるんだ。


「これは、シエスの声?ロージャ、一体何が」


 ルシャの声。これはすぐ傍で聞こえる。シエスの声は、ルシャにも聞こえているようだ。

 頭が痛い。状況は良く分からない。けれど僕は走り出していた。『力』を脚へ込めて、跳ぶ。視界の先に、ナシトは見えなかった。シエスは今、一人かもしれない。そのことに、どうしようもなく気が焦る。

 困惑しきりに見えたルシャも、一拍遅れて僕の後ろをついてきてくれているようだった。


「ルシャ!シエスの気配を、教えてっ」


「は、はいっ」


 頭痛が止まない。気配を探る余裕はない。ただ前へ駆けて、街の外目指して走る。


「北ですっ!このまま、真っ直ぐ!」


 ルシャの叫びとほぼ同時に、また頭の奥で声が響く。


“……何を答えろと言うの。こんなところまで連れ出して、何を――”


“ユーリ。あなたは、どうしたいの。ロージャを”


“……っ”


 ユーリの声と、シエスの声。島で別れてからまたいっそうやつれたように見えるユーリに、シエスはただ淡々と、いつも通りの声をぶつけている。


“私は、ロージャが好き。大好き。ロージャの傍にいる。傍にいたいから、がんばる。ロージャのために、強くなる。……あなたは、何がしたいの?”


 いや、いつも通りじゃない。少しだけ、だけどはっきりと、声に意思を込めている。


“……あなたはロージャを傷付けた。私は、あなたを許さない。許したくなんて、ない”


 シエスの声に昏さが混じる。出会ってから初めて見た、シエスの激情。走りながら、動揺してしまう。

 シエスが、続ける。


“でも。ロージャは、あなたが辛そうにすると。やっぱり悲しい顔、してた。……ロージャは今でも、あなたとの過去のこと、大切に思ってる”


“……っ、そんな、こと。どうしてあなたに、分かるというの。出会って間もない、あなたが”


“私はもう、あなたよりずっと、ロージャの傍にいる”


 シエスの声が頭の中に響き渡る。激痛を伴っているはずなのに、その声音は本当に、心地良かった。

 右目の視界の奥に、街を守る外壁とその門が見えた。あの向こうに、シエスとユーリがいる。けれどその門はもう、日暮れと共に半ば閉じかけていた。上部が霞むほど高く、軋む音が嫌になるほど重い門扉が、閉まろうとしている。


“あなたが、前を向かないと。ロージャはあなたとの過去を、誇れない。だからここで、向き合って。全部、話して”


 頭の痛みで、思考は上手く回らない。でも、シエスはきっと、僕のために。僕も気付かない、僕の心の翳りのために、ユーリを呼び出して、そこへ僕を引きずり出そうとしている。やり方は最悪だけど、その想いには応えたかった。シエスが望むなら、僕はなんだって応える。そう決めてある。

 僕は、ユーリは自分で前を向くべきだと思っていた。でも、そのせいで、僕がまだうじうじしているとシエスが言うなら。そんなつもりはないけれど、いいさ。向き合ってみせる。

 街側、こちら側へ閉じながら、道を閉ざそうとする門扉の元まで跳んで、目の前で止まる。両手を突き出す。僕の背より遥かに大きな鋼鉄の扉を掴んで、『力』の限り押し返す。


「もう、今更。……今更、何と向き合うのよ」


「ん。もう、来る」


 門扉が一瞬、止まる。それからゆっくりと逆側へ、耳障りな音を立てながら街の外側へ、開き始める。

『力』が、溢れる。この向こうに、シエスが待っている。僕の傍にいたいと願って、僕と生きたいと信じてくれる女の子が。


「……嘘、でしょう」


「嘘じゃない。ロージャは、強い。隣に追いつくのが、大変なくらい」


 声が聞こえる。けれどもう頭の奥に痛みは走らなかった。『力』を更に込めて、門扉を思い切り、前へ弾く。鋼鉄の扉は、そのまま勢い良く開いて、開ききって外壁にぶつかり、轟音を立てた。

 門を抜けて、走る。すぐに目立つ銀髪と黒髪が目に入る。二人に駆け寄って、止まった。

 すぐにシエスがてこてことこちらへ歩いてきて、僕の隣で止まる。僕を見上げるいつもの無表情。一人で街を出たお説教は、後だ。今は、彼女の願う通りに、向き合おう。

 ユーリの眼を見る。その眼は暗いけれど、島で会った時ほどは、揺れてはいなかった。




“踏み越えろよ、ロージャ”


 風に紛れて、暗い暗い声が聞こえた気がした。

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