第103話 ご褒美

 それからすぐに島を抜けて、帝都へ向かった。

 帰りの船旅は特に何も起こらない穏やかな旅だった。シエスはこれまで通り船酔いで倒れて大変だったけれど。シエスは寝ている時も僕の手を離したがらなくて、僕は船に乗っている間、シエスの横で本を読んで静かに過ごした。寝ているシエスの頭を撫でると、シエスは苦しそうな顔色ながらも口元をふにゃりと緩めてくれた。表情が彼女なりに鮮やかになりつつある最近は、シエスのちょっとした様子でさえ、見るとなんだか嬉しくなってしまう。

 それから時々ルシャが僕らの傍へ来てシエスの酔いを癒して、そっと僕の隣に座って、僕の肩へ頭を預けて。心地良さそうに目を瞑るルシャをぼうと眺めながら、久しぶりに訪れた安らかな時間を噛み締めていた。

 皆と旅するのは楽しい。未知を知るための冒険にも心が躍る。でも、こんな何でもない時間を皆と静かに過ごすのも、本当に好きだった。

 いつか、シエスに埋め込まれた『果て』の欠片を取り除けたら、僕らはそれから、どうするのだろう。どこかの街を住処と決めて、こうして穏やかに過ごすようになるのだろうか。……それは、ガエウスが許してくれなさそうだな。

 そんなとりとめもないことを考えながら、僕もいつの間にか眠ってしまっていて。島では連戦続きだったから、『力』を使い続けた影響が出ているだろうか。船旅の間、眠気はこびりついたように離れなかった。


 数日の後で船を降りて、帝都までの道を歩く。僕の背には長旅と船酔いで疲れ切ったシエスがいて、うとうととしている。幸い魔物と出くわすこともなく、終始穏やかな旅路だった。


 帝都へ戻るまでの間に、考えておかなければならないことがいくつかあった。

 一つは、今後の目的地について。ログネダさんは、『果て』への門は森人が守ると言った。ログネダさんのその発言にルルエファルネが動揺していたから、森人というのはエルフを指すのだろう。『果て』への道はエルフが知っているのだとすれば、僕らはエルフの森を見つけ出さなくてはならない。それが難題だった。

 エルフの住処はどこかの森だとされているけれど、その所在は誰も知らないことで有名だったはずだ。地図にはっきりと載っている訳もない。どこの森なのか、僕はそれらしい噂さえ知らない。ソルディグたちも知らないようだったし、唯一知っているはずのルルエファルネは明らかにそれを隠しているようだった。どこにあるのか分からないという点では『果て』もエルフの森もあまり変わらず、厄介な目的地だった。

 まあ、少なくともエルフの住処が森だという点は確かだろう。ルルエファルネも、かつて森に住んでいたと言っていた。まずはいつものように帝都でエルフの森についての情報を集める必要がある。幸か不幸か、僕らはまだ帝都で雑役税を納めきっていない。依頼以外で帝都を離れることは、まだできない。なので、帝都でいくつかの依頼をこなしつつそれらしい森を調べて、ある程度の当たりをつけてから帝都を出ることになるだろう。


 シエスを起こさないように静かに歩きながら、考える。

 エルフの森は、まだいい。難題ではあるけれど、いつもの冒険と変わりない。僕はただいつも通り、できることを一つ一つ突き詰めていけばいい。

 ただ、もう一つ決めておくべきことがある。ログネダさんの処遇だ。これが、悩ましかった。

 彼女は今、複雑な立場にある。結果だけ見れば、彼女はガエウスの暗殺を図った主犯だ。『蒼の旅団』のナタはログネダさんからの依頼を利用して僕らを襲ったにすぎない。ログネダさんの過去がどうであれ、僕の思いがどうであれ、僕らはギルドに事の次第を報告した上で、ログネダさんの身柄を引き渡さなければならない。これが普通の冒険者間の騒動だったなら、ギルドからの処罰、恐らくは冒険者資格の剥奪などがあって、それで終わりになっていたはずだ。悩む余地はあまりなかっただろう。

 今回厄介なのは、ログネダさんが帝国権力の庇護を受けているという点だった。僕らが彼女をギルドへ引き渡した場合、帝国がどう動くのか、分からない。ログネダさんの身に危険が及ぶかもしれないのを、無視する気にはなれなかった。


「ロジオンの好きなようにしてちょうだい。私はもう、誰を殺すつもりもないけれど、あなたたちを脅かしたことは確かですもの。為したことは為したこと、よ」


 考えに煮詰まってログネダさんに相談すると。彼女は何でもないことのように、ふふと笑った。


「ギルドへ突き出すのが、一番楽なはずよ。私は冒険者ではないから、そのまま軍に引き渡されることになるでしょうけど」


 ログネダさんの様子は初めて出会った頃のように自然で、そのことについ流されてしまいそうになる。


「……ですが、それでは、ログネダさんはどうなるのですか?……国が、貴女を消そうとすることだって、あるのかもしれない」


「どうかしらね。これまで私は、国の指示で何人も殺したけれど。今回のことは私の独断で、私が国の用事を利用しただけ。ただの罪人としてしばらく牢に閉じ込められて、財産を没収されて放逐されて、それでおしまいかもしれないわ」


 ログネダさんの声は明るい。けれど、事はそう楽観視できるものでもない。今回の依頼を受けた時の、帝国軍人の冷たさを思い出す。国の薄ら暗い闇を知る彼女を、あの帝国が簡単に放り出して、それで終わりというはずもない。

 ログネダさんは僕らを狙った。ガエウスを殺そうとした。でも彼女には、生きてほしい。前を向けと言ったのは僕だ。かつての行為が罪だったとしても、彼女がただ国に殺されていくのを知らないふりをして見過ごすのだけは嫌だった。

 甘いことを言っているのは分かっている。冒険者として、仲間を脅かした相手を信用するべきでないことも分かっている。でも、僕を利用していた時でさえも裏表のない親しみを向けてくれたログネダさんを、敵と切り捨てることはできなかった。


「もう。どうしてあなたがそんなに辛そうな顔をするのよ。本当に、呆れるほどお人好しなんだから。大丈夫よ。暗殺者の相手なんて、それこそ家事より慣れているわ。これでも私、昔は偉かったのよ?」


「……それは、そうかもしれませんが」


 確かに、彼女は強いけれど。

 横を歩く僕を見上げながら、ログネダさんは困ったように笑っていた。それからふと僕から視線を外して、後ろを振り向く。


「これまでは、国のくれる復讐の機会に縋って、此処にいたけれど。もう縛られる理由も無いの。いざとなれば逃げ出して、帝国を抜ければいいだけ。そうね、旅でもしてみようかしら。あなたたちのように。……今なら、景色も楽しめるかもしれないわ」


 ログネダさんは、僕らが後にした港と、その向こうに広がる川を眺めているようだった。その視線はどこまでも穏やかで、昏い光は、もう無い。


「ほっとけよ、ロージャ。そのばあさんは、死なねえだろ」


「癪だけれど、その通りね。また、生きてみたくなったもの」


 前を歩くガエウスがこちらを振り返りもせずに、ぶっきらぼうにつぶやいた。その声に、ログネダさんがまた微笑む。笑ってから、真剣な眼になった。僕をまた見上げる。


「ロジオン。あなたは私より、自分のことを心配なさい。私を退けたあなたたちの力を、帝国はもう野放しにはしないわ。間違いなく目を付ける。気を付けなさい。あの島で見たことを思い出して。国を信用するのは、もう止めなさい」


 ログネダさんの言葉に、一瞬息が詰まる。

 あの島で見たもの。無数の眼を持つ、ヒトの成れの果て。帝国の生み出した化物。禁忌の魔導の産物。帝国が目指すものは分からない。人の道を踏み外してでも軍事力を高めたいだけなのかもしれない。ただ、彼らに人としての慈悲など無いことは良く分かった。彼らに目をつけられたのだとすれば、隙を見せることだけは、避けなければ。

 そう思って、ログネダさんへひとつ頷く。


「よろしい。それと、これはルシャさんにも、だけれど。あなたたちの『力』にも、気を付けなさい」


「……どういう意味ですか?」


 すぐ後ろを歩いていたルシャが、ログネダさんへ尋ねる。僕も、彼女の言葉の意味を理解できていない。僕らの『力』とは、『志』のことだろうけれど。


「この力は、心の力よ。思いの力、と言うべきかしら。一時に使い続けると、眠気に潰されるのはもう知っているようだけれど。思いは、徐々に摩耗するもの。私はただ、過去を憎み続けてあの力を保っていたけれど、人は同じ思いを、同じ鮮やかさでいつまでも保つことは、できないわ。ロジオンと出会って、私の思いはついに潰えた。同じように、あなたたちの思いも、いずれ変わるかもしれない」


「……いつか失われるかもしれない、ということですか。私の『癒し』も、ロージャの『力』も」


「分からないけれど、ね。これからも戦い続けるなら、頼りすぎないで。……けれど、ロジオン。あなただけは、違う気がするわ」


 ログネダさんが僕を見て、僅かに悲しげな顔をする。

 思いは、変わる。そのことは、僕だって良く理解しているつもりだった。ユーリへの思いは、王都にいた頃と今では、もう何もかも違っているから。完全に『力』に頼りきりの戦い方になりつつある今、ログネダさんの言葉は確かに胸に響いたのに。僕は、違うと言う。


「違う、とは?」


「……あなたは、強すぎるのよ。守るという意思が。いつかその意思に、あなたの心が逆に、飲み込まれてしまいそう。そんな気がするのよ」


 思いに飲まれるとは、どういうことだろう。守りたいと思っているのは、僕自身の心であるはずなのに。

 良く分からずに困惑していると、ルシャがそっと僕の隣へ来て、腕を握ってみせた。そのまま、僕を挟んで逆側にいるログネダさんを見つめる。眼には、力がある。出会った頃のような――いや、あの頃よりもずっと真っ直ぐな眼。


「その時は、私が救います。私が救われた時のように。どんな時だって、隣にいます」


「……あなたたちが傍にいる限り、きっと思いは膨れ上がるわ。そういう男の子ですもの」


「そんなこと。もう嫌というほど、知っていますよ。ロージャは頑固で、譲りませんから。私たちを庇って前に出て、傷付いて、その度に私は、泣いてしまいそうになります」


 一度言葉を切って、ルシャの視線が僕へ向く。少しだけ困ったように笑っていて、けれど瞳は僕を捉えて、信じてくれている。


「それでも私は、傍にいます。貴方が私たちを守って、傷付くなら。私が何度だって癒します。いつか癒せなくなるのだとしても、貴方が変わっても、隣に。傍にいますから。だから、大丈夫ですよ。ロージャ」


 言い切って、ルシャは微笑んだ。傍にいて君を護ると誓ったのは僕であるはずなのに、僕のものよりもずっと力強く響くルシャの言葉。

 僕も、頷いてそれに返す。言われずとも、ルシャが隣にいてくれることも、僕を救ってくれることも、もう何もかもを信じているけれど。言葉にしてもらうとまた嬉しかった。


「ふふ。そうね。……共にいる方が、ずっと大切なら。あなたも、ロージャも、大丈夫ね」


 ログネダさんが穏やかに微笑む。ルシャがそれに頷くのとほぼ同時に、僕の背でむにゃりと声にならない声がした。すっかり寝入っていたシエスが寝惚けて何かをつぶやいたようだった。目覚める様子はなく、気持ち良さそうな寝息が聞こえる。シエスらしからぬ気の抜けた様子に、僕ら三人は顔を合わせて、静かに笑った。




 船を降りた次の日の昼には無事に帝都に帰り着いた。

 すぐにギルドへ向かって、依頼を完了したことと、ログネダさんと『蒼の旅団』の襲撃について報告した。王国語の分かるギルドの受付員は困惑しきりで、とにかくギルド長へ共有します、結果はまた後日お伝えしますとだけ告げて、ギルドの奥へと消えていった。僕らが今日中にできることは、それ以上なさそうだった。

 ログネダさんはギルド員に連れられて行く直前に、僕らへ片目を瞑って、明るく笑って見せた。きっと彼女は、大丈夫だろう。根拠はないけれど、そう思えた。


 ギルドを出て、『詩と良酒』の皆と一旦別れて、滞在している宿へ戻る。マナイさんたちとはこの後夜に、無事の帰還を祝うために酒場で会うことになっている。それまでにいくらか空いた時間があるから、水を浴びて、念のため武具の手入れもしておくつもりだった。

 けれど、宿の自分の部屋へ入った途端、また眠気に襲われた。目の前の寝台がやけに魅力的に見える。船旅の間も普段以上に寝ていたつもりだったけれど、帰路でも旅は旅だ。疲れは取り切れていなかったのだろう。瞼が重い。

 荷を下ろして、つい寝台に横になってしまう。窓から差す日差しは冬らしく弱々しくて、優しかった。目を閉じて、深く息を吸う。意識が緩んでいく。


 今回も、無事に帰ってこれた。誰も失わずに済んだ。ガエウスも、ログネダさんも、ナシトも『詩と良酒』の皆も。そして何より、シエスもルシャも。僕は、誇って良いはずだ。僕が望む通りに全てを守れたのだから。

 自分を信じる。ようやく見つけた、強くなるための一歩。どうすれば自分を強く信じられるかはまだ分からないけれど、少なくとも守れた喜びは、胸の中に満ちている。それをもたらしたのは自分自身なんだと思うべきなんだ。

『蒼の旅団』を信じようとした僕の甘さも、彼らの裏切りを勘付けなかった反省も、ルシャとシエスを泣かせてしまった後悔だって、今は後だ。今はただ、僕の成したことを、誇ろう。そう思いながら、意識が曖昧になって、落ちていく。


「ロージャ、入ってもいい?……ロージャ?」


 誰かの声が聞こえる。ほとんど揺れない、僕の好きな声。でももう瞼を開けられそうにない。敵意は感じないから、大丈夫だろう。木の扉が、軋む音。


「寝てる」


 足音が近付いてきている。すぐに寝台が僅かに沈んで、ぎしりと鳴った。小さくて暖かい気配が、すぐ胸元で横になっているような。


「……おつかれさま。ロージャ、すごかった。かっこよかった。たくさん、休んで。……ん」


 声の後で気配が一瞬伸びて、僕の顔に近付いて。唇に、柔らかくて僅かに湿った何かが触れて、離れる時に微かな水音。胸元の小さな気配が、一段と暖かくなる。


「私も、がんばった。だから、もう一回くらい、いいはず。……ご褒美」


 何がもう一回なんだろう。そう思ったところで、ついに意識が眠りに落ちた。意識を失う直前、また唇に可愛らしい音が響いて、細い腕が僕にきゅうと抱きつくのを感じた気がした。



 目が覚めたのは次の日の朝だった。胸元にはシエスが抱き着いたまま眠っていて、背にはなぜかルシャまでも巻きついていた。二人とも、起きてこない僕を心配して来てくれたんだろうか。起こしてくれればよかったのに。

 朝日が緩く差して、部屋は穏やかに暖かい。長いこと眠ったおかげで、眠気はすっかり消え去っていた。でも、ふたりの暖かさに囲まれるのも久しぶりで、すぐには起き上がりたくなかった。寝台の上で、ふたりをそっと抱き寄せる。深く息を吸う。幸せが胸に満ちる気がした。


 勿論、昨日の『詩と良酒』との会は僕のせいで延期になっていた。起きた後、折角の酒の機会を逃したガエウスにとんでもなく怒られたのは言うまでもない。


「今日は酒場の酒、ぜんぶ飲むからな!ロージャのカネでっ!」


 そう吠えた後で、ガエウスはシエスに睨まれていたけれど。


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