第102話 帰ろう
怒りのままに叫んだ後で、場にまた静寂が満ちる。隣で僕に触れるシエスとルシャの手を意識して、心を落ち着かせる。それでも胸の奥はどうしようもなく荒れていた。
ユーリはまだ僕を見ている。弱々しい瞳。泣き出しそうな色。けれど唇を引き結んで、何かに耐えるように震えながら、僕から目を逸らさない。
このユーリは、いつか見た。……王都で決別を口にした時も、こんな風に堪えていた。溢れ出しそうな感情を意思の力でねじ伏せるユーリ。その姿は彼女の強さの表れなのか、それとも弱さそのものなのか、僕にはもう分からない。
彼女の想いを理解するには、僕はもう、離れすぎている。
「…………そう、ね。今さら、私があなたに、何を言ったって。……余計な、お節介、よね」
ユーリの声は絞り出したように掠れていた。
昔なら、こんなに弱ったユーリを見たらすぐに傍に寄って、手を握っていた。けれどもうユーリの隣は僕の居場所ではない。彼女の隣にはソルディグがいて、彼が手を握っている。僕はユーリの前で、怒りを込めて決別を口にしている。
何もかもが変わってしまった。そのことを、僕はもう受け入れている。受け入れるのに時間がかかって、皆に迷惑をかけてしまったけれど。なのにユーリが、この変化を最初に受け入れたはずの彼女が、まだ僕を気にかけている。そのことが一番許せなかった。
それは僕の今も彼女の今も、僕らの過去さえも、何もかもを侮辱する思いだ。
「僕は僕の生きたいように生きる。君と別れて、そう決めたんだ、ユーリ。君が僕に何を思おうと、僕は前に行く」
「……あなたは、変わっていないのね。守りたいものを、守る。…………そんなこと、私が誰よりいちばん、知っているはずだったのに」
「ああ。だから、もう僕に心を割くのは止めてくれ。終わったことに足を止めるのは、もう十分だ」
「……っ」
ユーリの表情がまた歪む。揺れる瞳を、ただ見つめる。君ももう僕のことより、今の仲間のことを大事にしてくれと言いかけて、口ごもる。
ユーリが憎い訳じゃない。ただ今を生きてほしいだけだ。僕らのことは、もう終わった過去で、彼女の選んだ今を生きてほしかった。過去の何かに拘っている彼女に、僕は苛立っているだけで。
けれど『蒼の旅団』が、彼女の仲間たちが信ずるに足る相手だとは、もう思えなかった。彼らを選んだのはユーリだから、僕にはこれ以上、口を出す権利も無い。でも、僕自身はもう彼らを信じない。
一瞬の逡巡の間についにユーリは俯いてしまった。その姿勢に拒絶を感じて、彼女に言いたかったはずの他のことまでも霧散していく。
僕らはいつもこうだ。幼馴染として長く一緒にいて、共に過ごした時間の長さを信頼に当て込んで、いつの間にか話し合うことすら省くようになって、次第に互いを理解できなくなっていった。そんな僕らがこうして別の道に進んだのも、本当は当然の結果だったのかもしれない。
諦めて言葉を飲み込んで、ユーリから視線を外しかけた時だった。
「…………私だって、分かっているのよ。私が終わらせたこと、だもの。でも、どうしようも、ないじゃない……!あなたがまだ戦って、命を削っているなんて、知って。離れて戦うあなたが、こんなに、私を乱すなんて。知らなかったのよっ」
掠れた声で叫んだユーリは、辛そうだった。見慣れた大人っぽさも、僕をからかうような余裕も無く、ただ感情をぶつける声と表情。ここまで取り繕わない彼女を見たのは、初めてかもしれなかった。
……できれば、もっと早く、見せてほしかったな。でも、そうさせられなかったのが、僕の至らなさ、なんだろう。
悔しさと切なさとでぐちゃぐちゃになる胸の内を、僕もできるだけそのままに、返す。
「なら君は、また僕の傍に来るって言うのか?僕はそれを受け入れない。君が今のままソルディグの傍にいたいのなら、僕はもう関係ない。君の惑いは、無駄なんだ。僕らの過去を、決別を、侮蔑する迷いだっ!馬鹿にするなよ、ユーリ!」
僕の大声に、ユーリがまた震えて、俯く。
暴れ回る内心を必死に押さえつける。傍に二人がいてくれて、良かった。
今度こそ彼女から目を背けて、ソルディグを見る。もう一度、決別の言葉を口にする。
「君たちとは、共には行かない。今後また、僕らを邪魔するなら、もう容赦はしない。今度こそ、叩き潰す」
声に芯を込めて告げた。ソルディグは動じた様子も無く、それどころか少しだけ笑ったようにも見えた。
「ああ。残念だが、それがお前の意思なら無理強いはしない。今回の件は、不幸な行き違いだった。ナタを御しきれなかった俺の不徳でもある。『蒼の旅団』は今後君たちと敵対はしないと、ここで誓おう。君たちが『果て』を目指す限りは」
圧するような眼と感情のこもらない声に向き合う。この男の誓いは、信じない。答えずに、一瞬シエスとルシャの手を解いて、振り返る。ソルディグとユーリに背を向ける。姿を視界に入れないだけで、荒れる想いも徐々に鎮まり始めた。
「ここで、別れよう。君たちとは別の船で帝都へ戻る。君たちが拠点をどうするかは知らないが、帝都に滞在するにしてもすぐに発つにしても、僕らへは近付かないでくれ」
「ああ。気を付けよう。……良い覇気を纏うようになったな。ロジオン」
背から聞こえたソルディグの声の調子は、変わっていた。僅かに人らしい温かみを感じる声。
「視線にも声にも、強い
この男は本当に、分からない。なんの意図を持って僕の変化を口にしているのか。僅かに見えた感情が本心なのか、何かの策なのかさえ分からない。
ソルディグに感じた不気味さを無理矢理に胸の奥へ押し込めて、一歩踏み出す。先程まで僕の後ろに立っていたナシトと目が合う。彼は何も言わず、けれど僕の意を汲んでくれたようで、何も言わずルルエファルネとナタの背を押して、僕の前に立たせた。
ルルエファルネは僕をちらと見上げて、すぐに目を背けた。ナタは先程から一度も顔を上げず、下を向いている。
「ルルエファルネ、ナタ。この島での君たちの行いは、帝都で報告させてもらう。ただ、身柄は今ここで『蒼の旅団』に返還する」
「……なぜ?我々ごと、ギルドへ報告した方が良いのではないかしら。私は、誇りにかけて、嘘をつくつもりはないわ」
ルルエファルネが僕を見た。口調はかつてと同じように厳しく、けれど少しだけ重々しく沈んだ調子で、何より僕への刺々しさが消えていた。
思い出すと、ナタと戦っている時も彼女自身困惑しているようだった。今回の騒動がナタの独断だったのか、『蒼の旅団』の思惑があってのことなのかは、分からない。けれどいずれにせよルルエファルネは何も知らないようにも見えた。
「君らが罪に問われるかに興味は無いんだ。次に邪魔をすれば潰すと言った。ギルドの処罰なんて関係ない。なら、今君たちを連れて帰っても、邪魔なだけだ」
「……好きにして」
ルルエファルネはそう言って、俯いた。
次に、ナタを見る。別に彼女へ伝えることはないが、今回の彼女の襲撃は、未だに目的が良く分からない。そもそも、彼女は僕になんと言って、僕は何に激昂して、彼女を敵とみなしたのだったか。連戦の最中だったためか、記憶が曖昧だった。
「ナタ」
俯いたままの彼女へ声をかける。彼女は顔を上げない。ぴくりともせずに、ただ俯いている。何かが不自然だった。何か、聞こえる。
手を伸ばす。少し強引に顔を上げさせようと、額に手を触れかけた瞬間。ナタの身体が、びくりと震えた。
「……近付かないで、くれるかな」
震える声。一瞬誰の声か分からなかった。ナタの身体は、かたかたと震えていた。
「……何も、思い出せない。思い出せないんだ。私は何かと繋がっていたはずなのに。何かの使命を受けて、何か、大切な……どうして、帝国語を思い出せない?」
「……ナタ?」
「何を忘れている?何もかも?私は……何も、思い出せない。なのにどうして、こんなに怖いんだ。何が怖い?……この男が?ただの木こりが、どうして」
ナタは先程からずっとひとりでつぶやき続けていたようだった。奇怪な様子の彼女へもう一度手を伸ばして、弾かれた。一瞬触れたナタの手は信じられないほど冷たかった。
「手が、私を掴んで……ああ、この手だ、この手が私を、ぐしゃぐしゃにして……違う、ぐしゃぐしゃにしたのは、この手じゃ……分からない、憶えていない、怖い、怖いよ、ソルディグ、助けて。助けて、閣下――」
ナタの様子はおかしかった。ルルエファルネに目を向けると、彼女も心配そうな眼でナタを見ていた。
「……さっきからずっと、この調子よ。私の声なんて、聞こえてもいないわ」
「恐らくは、極度の死の恐怖に晒されたためだろう。心の歪みは、魔導でもルシャの力でも癒せない」
ルルエファルネの嘆きに、ナシトが答える。
「……森に帰れば、癒せるかもしれない。でも……」
そうつぶやいて、ルルエファルネも黙り込んでしまった。ナタの様子は気になるけれど、僕たちとの戦闘で自失してしまったなら、その元凶である僕らが何かすべきとも思えない。今の彼女から何か有益な情報が得られるとも思えなかった。
とにかく、今はここから離れるべきだろう。『蒼の旅団』とこれ以上同じ場所にいたくはなかった。一度敵とみなした以上、僕は神経を尖らせて彼らの一挙手一投足に警戒していて、気が休まらない。
おかしくなったナタはルルエファルネに任せて、二人と近くに転がしてあった他の男二人をソルディグへ返還した。四人の後ろ手に施した拘束は、僕らが島にいる間は外さないことをソルディグも了承した。
島からは、僕らと『詩と良酒』、それとログネダさんで先に抜けることになった。ソルディグたち『蒼の旅団』は時間を置いてから島を抜ける。簡単な取り決めを僕とソルディグの間で交わして、すぐに島を出るべく、島の入り口に繋がる森へ足を向ける。
「ロジオン。武運を祈る。次は、『果て』で会おう」
去り際に聞こえたソルディグの言葉に、一瞥だけ返す。彼の眼は普段通り、強烈な意思の強さに輝いていて、その奥の感情も何も見通せなかった。
それから、ユーリとすれ違う。ユーリはあれからずっと俯いたままだった。すれ違いざまに小さく、つぶやく声が聞こえた気がした。
「……私は、どうしたらいいの。ロージャ。……ソルディグ」
何も返さない。君は、その問いを僕にも課した。僕は君と別れてからどうすればいいのか、君への想いをどうすべきなのか、分からなかった。今度は、君が答えを見つける番だ。そう信じる。
そのまま、森の方へと踏み出して、『蒼の旅団』と別れた。
『サルニルカ島』の奥部の森は、シエスの放った規格外の魔導のせいでその面積を減らしていた。そのせいか、僕らのいる最奥部の開けた地から、森に辿り着くまでにかなり歩かなくてはならなかった。
歩いていると、遠く、森の入り口近くに人影が見えた。こちらへ手を振る、お揃いの全身鎧と女の子。『詩と良酒』の双子と、クルカさんだろう。
「んだァ?マナイの野郎は、まだ治ってねえのか?」
ガエウスがつぶやく。ガエウスはなんだかんだ言って、意外にマナイさんのことを気にかけている。道中も面倒くさがりつつ、弓術は割としっかり教えていた。そのことを思い出して、荒んでいた気持ちが少し和らぐ。
「いえ、全て治癒したはずですが……ああ、あそこですね。待ちきれずに、こちらへ――」
「あァ、いい。もう言わんでいい」
ガエウスの呆れ果てたような疲れた声とほぼ同時に、ものすごい勢いで迫ってくる人影が見えた。言うまでもなくマナイさんだろう。
「ガエウスさまあ!無事でしたかぁ!このマナイ、ガエウス様の勇姿を見届けられず、一生の不覚――」
「あぁ、うるせえ!不意打ちで背中斬られるような野郎はレンジャー失格だっ!十一等からやり直せっ!」
「それはっ!ガエウス様が、私にイチから指導を、つけていただけるということですかぁ!?なんたる光栄、恐悦至極っ」
「馬鹿言えっ!」
ガエウスはぎゃあぎゃあとわめきながら、マナイさんから逃げるように走り去った。マナイさんがすかさず追う。いつもの、慌ただしい僕らの風景。
隣を見ると、ガエウスたちの消えた方を見てルシャが微笑んでいた。僕の視線に気付いて、こちらを向いて、また微笑む。けれどすぐに眉を僅かに落として、困ったような眼をした。
「ロージャ。……その。……ユーリさんのこと、あれでよかったのですか?」
「……?」
ルシャの問いの意味が、良く分からない。
「ええと、その。私としては、ほっとしているのですが……いえ、浅ましいですね。貴方の苦しみも辛さも、知っているはずなのに」
なんとなく、察する。ユーリとの邂逅で、いちばん不安を感じていたのはルシャとシエスであるはずだ。自分のことばかりで、気付くのが遅れてしまった。
「ごめん、また心配かけて。もういいんだ。ユーリとのことは、もう終わったことだよ。後は、彼女自身が――」
「ユーリ、辛そうだった」
隣を歩いていたシエスが、僕を遮る。見ると、シエスがじっと僕を見つめていた。
「……ロージャは、ここにいてほしい。ずっと、三人でいたい。でも、ユーリも、悲しそうだった」
シエスが少しだけしゅんとしたような顔をする。自分でも良く分からない感情を、持て余しているような。
「……ええ。シエスの言う通り、このままでいいのかと、ふと思ってしまったのです。私たちは、貴方のいちばん傍にいたい。貴方が愛してくれるなら、それで幸せです。でも、ユーリさんはもっと、複雑なしがらみに雁字搦めに、縛られてしまっているような」
ルシャもシエスも、ユーリの様子が気になっていたようだった。確かに、別れ際の彼女は打ちのめされたように弱々しげだったけれど。
……僕だけは、そんなユーリを気遣ってはいけない気がする。けれど、僕の大切な人たちがユーリを気にするのには、どう反応したらいいんだろう。分からない。
でも、ルシャとシエスのことだ。きっと、僕にも気付けないような僕自身の心の曇りに気付いているんだろう。ユーリを気にするのは、ユーリとのことがまだ僕の中でどこかにわだかまっていて、それを除こうとしてくれているからだ。そのことは簡単に信じられる。
「……なんだ、ふたりとも。浮気は駄目だってあれだけ言うのに、昔の恋人には優しいんだね」
だから、少しふざけて笑ってみる。
確かに、ユーリとのことは先程のように顔を合わせればまだ揉めてしまう、生傷めいた過去なのかもしれない。
でも、僕には今、仲間がいる。今、皆と一緒に笑える方がずっと大切なんだと、胸を張って言える。
「……むぅ。仲直りは、良い。でも元通りは、駄目」
「そ、そうです。今の恋人は私たちなのですから、浮気は駄目です。ただでさえシエスという強敵がいるのですから、これ以上は駄目ですっ」
「私は敵じゃない」
「あっ、ええと、そういうことではなくっ」
じとっとした眼を向けるシエスに、あたふたと慌てるルシャ。いつも通りのふたりもなんだか久しぶりに思えて、思わず笑ってしまう。笑った途端にふたりの目がこちらを向く。
「……そういえば、ロージャへのお説教がまだでした。戦闘時に鎧を脱ぐなんて、それこそ死ぬ気なのかと、思いました。心配したんですよ」
「ん。無茶は、駄目」
ふたりが僕の手を取って、冗談混じりに脇をつつきながら腕を絡めてくる。僕も冗談半分で、強気に返す。
「あれは無茶じゃないさ。勝算もあった。ログネダさんの優しさも、ルシャの癒しも、信じてた。全部信じた、僕の力だ」
僕の言葉に、ふたりが一瞬止まる。もっと苛烈なお説教が来るかなと内心身構えていると、ふたりの雰囲気は予想に反して和らいでいた。
「ん。ロージャは強い。でも、心配。私ももっと、強くなる」
シエスが僕の腕にしがみつきながら、無表情に少しだけ意思を見せる。魔導に取り組んでいる時の真剣な無表情。
「……私も、強くなります。隣でふたりとも、癒せるように」
反対側のルシャも真剣な目つきで、けれど僕らを見る視線はどこまでも優しげで、暖かかった。
ふたりは、僕が強さを欲しても、同じように隣にいてくれると言う。そのために強くなると言ってくれる。そのことが、たまらなく嬉しかった。
森の入り口が近付く。『詩と良酒』の、マナイさん以外の三人が駆けてくる。ルシャとシエスが僕から離れて、その瞬間に双子が鎧姿のまま僕に飛びついてきた。あまりの重さに『力』を使いかけて、ぎりぎり素の力で支えきることができた。でもその上に、涙でぼろぼろの顔をしたクルカさんがぴょんと跳び乗って、ついに僕らは団子になって、地に倒れ込んだ。傍からはガエウスの豪快な笑い声に隠れて、ログネダさんの控えめな笑みも聞こえた気がした。
その間、僕は言うまでもなく終始笑っていた。
さあ、帰ろう。『果て』はまだ遠いけれど、次に目指すべき地は分かった。ならばその前に、少しくらい休んだっていいだろう。
仕組まれた冒険で、全てが順調という訳ではなかったけれど、最後には僕らのいつも通りの、冒険の終わりだった。
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