第5章 旅路の果て

第101話 怒り

『サルニルカ島』の最奥部で、なんとか何も失わずに全てを終えた後で。僕はユーリと向き合っている。


 目の前に立つユーリは、少し顔色が悪いように見えた。目元に隈が見える。身体も、少し痩せたのかもしれない。ユーリは意外に自分の体重のことを気にする娘だったけれど、今の表情を見るにきっと望んだ痩せ方ではないのだろう。

 聖都でルルエファルネに言われた言葉を思い出す。ユーリは聖都で僕と再会して、塞ぎ込んでいた。――顔色も目の隈も、痩せたことも、僕が原因なのだとしたら。そう思うだけで、胸の中で判別しがたい感情が渦巻く。何を苦しんでいるのか。僕を不要と断じたのは、彼女であるはずなのに。

 胸の内の思いを抑え込みながら、じっと前を、ユーリを見る。ユーリもただ僕を見ている。

 昔なら、こうして向き合っているとすぐにユーリが、どうしたのと言って首を傾げるか、楽しげにいたずらっぽく笑うかしてくれたのに。そんな彼女に、僕もすぐに笑い返せていたのに。もう何もかもが変わってしまっていた。悲しくはないけれど、少しだけ切なかった。


「……ロージャ。聞きたいことは、たくさんあるのだけれど……ひとつだけ、教えて」


 息を整えたユーリが口を開く。声だけは昔と変わらないように聞こえた。芯のある、真っ直ぐな声。


「あなたはどうして、まだ、こんなところにいるの。どうして……まだ、戦っているの?」


 ユーリの声に、僕を問い詰めるような糾弾するような響きはなかった。ただ、僕が此処にいないでほしいと思っていることは明白だった。ユーリはただ一心に僕を見つめて、僕の答えを待っている。

 どうして戦っているのか。そんなこと、もう悩むまでもない。自分の強さにまだ自信はなくても、その一点だけはもう迷わない。


「ユーリ。僕は何も、変わってないよ」


 僕の声に、ユーリの瞳が揺れた。それを見て、また苛立ちに似た不快なもやが胸に満ちる。僕の言葉に、どうして心を揺らしている?いつから君はそんなに、弱くなった?

 不穏に揺れた内心をすぐに押し殺して、口を開く。


「僕には仲間がいる。守りたいものがある。だから戦う。何も、変わってないさ」


「……っ」


 ユーリがまた辛そうに表情を歪めた。けれど今度はすぐに眼には力がこもった。意思の強い眼。僕の知るユーリらしさが少しだけ戻る。そのことを懐かしくは思いながら、嬉しいとはもう思っていなかった。


「『果て』を目指していると聞いたわ。『果て』に興味なんてなかったあなたが、どうして?どうして、今になってそんな――」


「うるせえな、ユーリ」


 声に力がこもりかけたユーリを、ガエウスが遮る。彼の言葉はかなり、苛立たしげだった。


「あんときに言っただろうがよ。もうお前にゃあ、ロージャの、俺たちの冒険に口出す権利はねえってな」


「……ガエウス。あなたは、どうしてまだロージャの傍にいるの。あなたがロージャに何か、吹き込んでいるのかしら」


 ガエウスへ向けたユーリの言葉は刺々しく響いた。それをガエウスは鼻を鳴らして、嘲笑う。


「忘れたのか?寝惚けてンのか?俺ァこいつの『不運』が好きで、つきまとってンだ。だがよ、行く先を決めてんのはいつだってこいつだ。これァロージャの冒険だ。部外者は、黙ってろよ」


 ガエウスは軽い調子で、けれど獰猛な笑みを隠しもしない。ユーリは僅かに俯いて、黙り込んでしまった。


「……その二人が、あなたの、守りたいものなの?ロージャ」


 俯いたまま、ユーリがつぶやく。もう声までも弱々しくなっていた。

 また、苛立つ。シエスとルシャが僕の傍にいて、それでどうして、ユーリが苦しそうな、辛そうな姿を見せる。感情がどうしようもなくささくれ立つ。苦しかったのは、辛かったのは僕であるはずなのに。

 シエスとルシャは僕の隣で何も答えない。ただ静かに僕の答えを待っている。僕の手と腕を握る二人の手を意識すると、僅かに苛立ちが引いていく。けれど胸の中の靄はもう、押し殺せそうもない。

 ひとつ息を吸って、言い切る。


「そうだよ。二人は仲間で、大切な人だ。僕が護る。そう誓った」


「……」


 ユーリの顔は見えない。

 苛立ちが、溢れ出す。


「……ユーリ。君こそ、何があったんだ。何を悩んでいるんだ。僕らは王都で別れて、別々の道へ進んだ。なのに君はどうしてまだ僕なんかを気にしている?」


 ユーリは答えない。下を向く姿は、やたらと小さく見えた。

 不快な靄が胸から溢れて、思考を覆う。


 ユーリにフラレて、馬鹿みたいに落ち込んで。シエスとルシャに出会って、支えてもらって、僕はようやく前を向けた。ガエウスとナシトはそんな弱い僕に今も付き合ってくれている。皆のおかげで、僕はなんとか前に進めている。

 なのに、僕と別れたユーリが、新しい仲間を信じたはずの彼女が。どうしてこんなに揺れているんだ。

 僕ではない誰かの傍にいることを決めたなら、どうして今も僕を気にしている。大切じゃないと信じたから、僕の傍にいることをめたんじゃないのか。ユーリ。

 大切なら、傍にいるべきなんだ。隣にいなければ、守ることもできない。


 なのに、君は。僕を切り捨てて、それでもまだ大切なんだとでも言うつもりなのか。それとも、僕に冒険を続ける資格は無いと、僕は弱いと、そう言いたいんだろうか。

 ユーリの想いは分からない。でも、ずっと一緒にいて、誰よりも僕を知っていたはずの彼女に、生き方を否定されたような気がした。

 思わず拳を握ってしまう。苛立ちが膨れ上がる。



 馬鹿にするな。

 僕は弱いかもしれない。村から出るべきじゃなかったのかもしれない。

 でも、仲間でいることを止めた君に、僕の隣から去った君に。もう僕の弱さに触れてほしくなんてない。



 口を開いて、苛立ちを言葉にして、俯くユーリにぶつけようとして。


「幼馴染を心配するのが、そんなにおかしいことなのか。ロジオン」


 ユーリの傍らに、軽装の男が立っていた。相変わらず温かみの無い眼が、僕を見ている。


「……ソルディグ」


「久しぶりだな。聖都で会って以来か」


『蒼の旅団』のリーダーが目の前にいた。俯くユーリの横で、いつの間にか彼女の手を握っている。


「ソルディグ。君がいながら、どうしてユーリは、立ち止まっているんだ」


「立ち止まってなどいないさ。ユーリは日々強くなっている。ただ、村に帰ったはずの君が冒険を続けているから、幼馴染の身を案じているだけだ」


 ソルディグの感情は、読めない。眼に人らしい動きが全く見られない。ただ一点を、僕を見つめている。この男は、苦手だ。


「僕には仲間がいる。僕ももう昔の僕じゃない。何もかも、守ってみせるさ」


「確かに、君の『力』は驚異的だ。……聖都で話したこと、憶えているか。俺は今でも君たちをクランへ歓迎するつもりだ」


 ソルディグは平然と、聖都で僕に語った時と全く同じような気安さで、僕らを勧誘してきた。この島で『蒼の旅団』が僕らを襲ってきたことを、彼はまだ知らないのだとしても。この男の思考はどうしても、理解できない。

 どうして、俯くユーリの横で、そんなことが言えるのだろう。

 苛立ちが、行き場を失う。僕の胸の奥で燻る。


「『果て』を目指すなら、共に動いた方が全てにおいて、効率的だろう。考えは、変わら――」


「ロージャは、『蒼の旅団』とは協働しない」


 ソルディグの揺れない声を遮って、今度は僕の後ろから暗い暗い声が響いた。振り向くと、ナシトが立っていた。その横には、ルルエファルネと、ナタ。二人ともぼろぼろに薄汚れていて、身体中に血が滲んでいるけれど、主だった傷は消えていた。ナシトは『治癒』の魔導をある程度扱えるはずだが、あのナシトが敵である二人を治療するとは思えないから、恐らくは自ら治癒したのだろう。戦える状態と判断して、思わず僅かに腰を落としてしまう。鎚はいつでも手元に呼び出せる。

 目が合うと、ルルエファルネは気まずそうに目を逸らした。ナタは下を向いている。二人とも、ログネダさんと同じように手を拘束されていた。


「君は……ナシト、だったか。どうしてそう言い切れる?」


「『蒼の旅団』はこの『サルニルカ島』で、俺たちを排除しようとした。首謀者はナタ。ロージャがその女を無力化し、未遂に終わったが」


「……ナタが?……嘘よ」


 ユーリがこちらを、ナタの方を向いていた。その眼には驚きの色がある。ナタは何も言わず、ぴくりとも動かない。


「嘘ではない。この顛末は帝都で、ギルドへ報告させてもらう」


 ナシトが淡々と告げる。その言葉にも、ソルディグは動揺した様子もなかった。


「報告は、好きにしてもらっていい。だが今回の騒動は、『蒼の旅団』の総意ではないな。彼女の独断だ。それに、王国の『指定』を受ける俺たちは、ギルドが縛ることもできない」


 ナシトに応えるようにソルディグも淡々と答える。『指定』によって得られる権限とは、そんなにも強いものなのか。ギルドの依頼を共同で受けたパーティを害しかけて、それでもなんの咎めもないと?それはもう、ギルドに属する冒険者の括りを超えている。王族直属の王立軍でさえ、帝国で悪事を為せば罰せられるはずだ。真実なのか、僕たちを欺くソルディグの嘘なのか。分からない。

 ただ、僕としてもギルドの処罰云々は興味も無かった。僕たちにとって『蒼の旅団』は敵だ。それだけは間違いなく真実で、それで十分だった。


「帝国が出張ってきたとしても、責はナタに負わせる。最悪でもナタを除名すれば済むことだ。俺としては、彼女の力を失うのは避けたいが。……それにしても。あのナタを、封じたというのか、ロジオン。お前は、やはり『果て』に届き得る――」


「やめて、ソルディグ」


 また下を向いたユーリから、強い声が響いた。ソルディグが口をつぐむ。響いた声は悲しげで、痛々しかった。

 一瞬、静寂が場に満ちる。ナシトも、ソルディグと『蒼の旅団』をこれ以上糾弾する気は無いようだった。既に気配を消して、存在感を薄めている。

 騒動の中心にいたはずのナタが先程から黙りこくったままなのが、気にかかる。こういう時に率先して場をかき乱すのが彼女だったはずだ。僕を排除できなかった時の言い訳も対処も、何もかも考えていそうなものなのに。

 ナタを許すつもりはない。何か行動を起こすなら、全力で叩き潰すつもりだ。でもどうしてか彼女を憎いとは思っていない。殺したい訳でもない。憎んでもおかしくないほどのことを言われた気がするのに、それをどうしても思い出せない。ほんの僅かな違和感がある。


「あの、少しいいかしら?」


 停滞した空気の中で、一瞬ナタのことを考えていた時だった。それまで静かに佇んでいたログネダさんが口を開いていた。出会った頃のような、穏やかな声。


「あなたたち、『果て』を目指しているのよね?以前から不思議だったのだけれど、」


 一旦言葉を切って、ログネダさんは一瞬ルルエファルネを見てから、僕を見つめた。その眼には笑うような、楽しげな光。


「そこのエルフのお嬢さんが、知っているのではないかしら?『果て』への道について。――『果て』の門は森人が護ると、昔話で聞いたことがあるわ」


「あ、貴女っ!どうして、どこでそのことをっ!」


 ログネダさんが雑談するかのような調子で零した言葉に、ルルエファルネが叫んだ。叫んでからはっとした顔をして、黙り込んだ。


「あら?有名な話だと思っていたのだけれど」


「……聞いたことは無いな。ご婦人。詳しく聞かせてほしい」


「詳しくなんて、知らないわ。私が知っているのはおとぎ話のその一節だけ。これ以上はお嬢さんに聞いてみなさいな。お仲間にも隠し事なんて、いけないお嬢さんね」


 ソルディグの問いにふふと笑って、ログネダさんがまた僕を向く。ログネダさんは一瞬だけ片目を瞑って、いたずらっぽく笑ってみせた。

 エルフと『果て』に関する文献なんて、読んだことがない。けれどルルエファルネのあの慌てようからして、何か関係はあるのだろう。エルフが隠していたその秘密を、どうしてかログネダさんは知っていて、今口に出した。ログネダさんの意図は分からないけれど、その表情を見る限りでは、僕らを想ってのことなのだろう。そのことは、有り難い。

 けれど、状況はまたひとつややこしくなった。


「ルル。君は何か、知っているのか」


 ソルディグが、ルルエファルネへ問いかける。エルフは俯いて、ただ首を横に振るだけだった。


「その様子なら、エルフと『果て』の繋がりも的外れという訳ではなさそうだな。……共に『果て』を目指す仲間同士、通じ合えているものと思っていたが。やはり、目的はあるか。君にしても、ナタにしても。……だがそれは俺にしても、同じこと、か」


 ソルディグが小さくつぶやいた。その声には落胆はなく、ただ僅かに、疲れのような重さがあった。


「ロジオン。ひとつ、提案がある」


 ソルディグがこちらへ向き直る。その声からはまた、力強さ以外を感じることができなくなっていた。


「クランに加わる意思が無いなら、それでもいい。だが、共にエルフの住む地まで行かないか。俺はエルフの住む地を知らないが、ルルが話してくれなかったとしても、調べようはあるだろう。共に『果て』に繋がる道へ向かう方が早い。目的は違っても、辿り着きたい地は同じだ。益はあると思うが」


 ソルディグの言葉をうまく咀嚼できない。この男はナシトの言った、ナタの独断と僕らの不信を、なんでもないことのように無視して、まだ僕らとの協働を呼びかけている。

 彼の眼にはただ、力がある。強すぎて色の消えた、最早人のものとは思えないほどの意志の強さ。僕とソルディグが似ていると言ったのは、誰だっただろう。僕がこんな眼をしているとは、どうしても思えない。


「……本気で、言ってるのか。僕たちは此処で、ナタに襲われているのに」


「本気だ。君たちが望むなら、ナタを外してもいい」


 躊躇など欠片もなく、ソルディグが付け加える。仲間をただ損得で、駒のように扱う。この男は。

『果て』を目指す意志の強さは、理解できる。シエスのことを想うなら、僕も彼くらい徹底的に『果て』を目指すべきなのかもしれない。でも、シエスはまだ元気で、焦る程ではないはずだ。それに、ソルディグからは焦りといった感情とは根本から違う何かを感じる。存在の全てを、『果て』へ捧げるような。

 ソルディグの意志の強さがこもる眼から、思わず目を逸らすと。彼の手を握って隣にいる、ユーリと目が合った。彼女はいつの間にか顔を上げていて、また僕を見ていた。


 その眼には、光があった。何かを期待するような色。彼女が僕に何か、お願いをした時に良く見た眼差し。僅かに、縋るような瞳。

 僕が『果て』を目指すことは否定しながら、共に行くことを望む、矛盾した意思。


 燻っていた苛立ちが、また胸の中で渦を巻く。


 ふざけるな。



「馬鹿にしないでくれ。ソルディグ。ユーリ」


 声に、力がこもる。目の前のソルディグが眼を僅かに見開いた。ユーリの肩が、びくりと震える。


「君たちを、もう信じはしない。もう頼るつもりもない。『果て』への道は、自分たちで見つける。それに、ユーリ」


 僕の声の強さに応じて、シエスとルシャの握る手にも力がこもった気がした。一緒にいてくれていることが分かって、嬉しくなる。

 でも、僕の苛立ちはもう抑えきれずに、怒りに変わっていた。生まれて初めてに近い激情を、自分の意思で解き放つ。

 ユーリの眼が泣きそうに揺れているのに気付いても、止めようとは思わなかった。ただ、想うままに叫ぶ。


「冒険を続けるのも仲間を護るのも、僕の意思だ。僕が見つけた、僕の生き方だ。――もう君は、関係ない!それくらい、分かってるはずだろうっ!ユーリ!」

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