第96話 敵

 突如現れたログネダさんと、マナイさんを斬ってなお笑うナタさん。何が起きているというのだろう。

 ログネダさんはもう僕から視線を外して、ガエウスと向き合っている。その手には抜き身の剣。その剣と、一瞬見えた昏い眼に、不安が湧き出す。まさか、ログネダさんは、ガエウスを?

 マナイさんのうめき声が聞こえたのは、その時だった。思考を目の前へ引き戻す。


「貴様……なんの、つもり――」


「雑魚は黙っててよ。殺さないだけでもありがたく思ってほしいな」


 そう言ってナタさんは、うずくまるマナイさんを蹴り飛ばした。細身の脚からは想像もつかないほどの力で吹き飛ばされて、マナイさんが転がっていく。僕は反射的に、口を開いていた。


「ルシャ、マナイさんを」


「は、はい。……ロージャ、一体何が……」


「早く」


 ナタさんから目を離さない。事態は一切理解できないけれど、彼女は笑いながら僕だけを見ている。その眼はどろついた何かを孕んでいた。殺気よりは軽薄で、でも残忍な視線。それだけで、混乱している場合じゃないことが分かる。


 ルシャがマナイさんの方へ駆けていく。その時、ナタさんが僕から視線を外してまた酷薄に、笑った。彼女は手元の剣を握り直して、腰を落として。

 意識するより早く、僕は跳んでいた。ルシャとナタさんの間で止まって、盾を前へ、ナタさんへ向ける。視界の先にはもう剣が迫っていた。剣と盾がぶつかって、甲高い金属音。


「何のつもりですか、ナタさん」


「そんなの、見て分かるだろ。斬ろうとしたのさ」


 ナタさんは後ろに一歩跳んでいた。ルシャはその隙にマナイさんを担いで消えた。

 受けた剣は少し重いだけで、魔導は込められていなかった。少なくともあの一撃で殺す気ではなかった。ナタさんが何をしたいのか、分からない。


「……本当に、察しが悪いなあ。そんなだから、ユーリにも捨てられるんだよ」


 ナタさんは呆れるように肩をすくめている。


「仕方ないな。少しだけ説明してあげるよ。私は軍からの依頼の他にもう一つ、裏の依頼を受けて、ここに来たんだ。ガエウスさんを殺すための舞台を用意して、ここでガエウスさん以外を足止めする。人も多いしなかなか厄介な依頼だと思ったけど、ガエウスさんの傍には君もいるしね。ユーリが来る前でちょうどいいとも思ったし、受けてみたのさ」


「……依頼?ナタ、貴女、何を勝手にっ」


「ああ、ルルにも言ってなかったっけ。ごめんごめん。あそこにいるログネダさんから、お願いを受けちゃってさ。『大戦』に囚われて、あの時あの場にいた全てをまだ赦せない、哀れな母親。なんか、可哀想でさ」


 可哀想なんて欠片も思っていないような軽い口調で、ナタさんが笑った。ほとんど同時に、ガエウスのいる方で爆音が響く。向こうでも、何かが起きている。でも視線は外さずに、ナタさんへ向ける。


「助けに行かなくていいの?あのおばさん、けっこう強いよ」


 答えない。彼女は確かに強いけれど、ガエウスが負けるほどではない。得意ではない一対一の接近戦でも、ガエウスは呆れるほどに強い。ガエウスと正面から向き合って、彼を殺せる相手なんて、僕はこれまで一度も出会ったことがない。憧れ混じりだとしても、僕はガエウスの強さを嫌というほど知っている。ずっと傍でそれを見てきたんだ。


「へえ。行かないんだ。今、ガエウスさん、魔導使えないよ?あの魔具の中、魔素が消えるからさ」


 一瞬、動揺しかける。魔導を封じる魔具なんて、聞いたことはない。けれど、ガエウスならそれでも、問題ない。ガエウスは魔素を吸い尽くした古の巨人を、魔導なしでいなせる男だ。


「……だとしても、それは中にいるログネダさんも、同じこと――」


「なんだ、知らないんだ。ログネダさんは、君とおんなじだよ」


 僕の動揺を嘲るように、ナタさんが笑う。遠くの窪みからは轟音が続けて響いている。地を抉るような、魔導なしでは起こせないはずの音。彼女の武具は、ただの剣ひとつだったはずだ。

 嫌な悪寒が、全身を走る。


「魔導なしで、魔物も手練も抉り殺す化物。あんな風に、これまで何人も殺してきたんだ。王国の英雄を、さ。復讐だけのために帝国に飼われた馬鹿な女。それがログネダさんだよ」


 ログネダさんが僕と同じように『志』を扱えるのだとすれば。ガエウスが、危ない。

 そう思って、それでも一瞬、地を蹴って彼の元へ跳ぶのを躊躇った。他に守るべきものを放り出して行けば、ガエウスはきっと僕を本気で怒るだろうから。でも、僕は――

 そんな逡巡の刹那に、ナタさんが消えていた。視界の端、真横から、ナタさんの剣が赤黒い光を放って僕に迫る。思考を振り切って、盾で受ける。


「まあ、行かせないけどね。それが依頼だもの」


 剣が離れて、ナタさんの嗤う声。また少し僕から距離を取って、剣で僕を誘うかのように、ふらふらと揺らしている。その様子に緊張感などないのに、その眼は笑いながら油断なく僕を見据えている。


 僕は、どうすればいい?ガエウスの元に行くには、ナタさんと戦って、彼女を排除しなければいけないのか?彼女は、一体何のためにこんなことを?


「さあ、みんなでかかっておいでよ。実は私もけっこう強いからさ。ああでも、さっきみたいな魔導は勘弁してほしいかな」


 手を広げておどけるナタさんに、隙は見当たらない。戦う意思は本物のようだった。


「……ナタ!馬鹿なことはやめなさい!」


 ルルエファルネさんが僕の横に並んで、叫ぶ。彼女は何も知らないのか?『蒼の旅団』の中でも、これはナタさんの独断なのだろうか。ルルエファルネさんの声には辛そうな響きがあった。


「冒険者同士で争うなんて、どういうつもり?『蒼の旅団』の、ソルディグの名を貶める気なの!?」


「さてね。名誉とか正しさとかそんなもの、それこそソルディグが一番気にしてないと思うけど。まあ、ここにいる全員を始末すれば、別に何とでも言い訳できるだろ?」


「……貴女、何を言ってるの」


「何って、君も言ってたじゃないか。ロジオンを、幼馴染くんをユーリに会わせたくないって。ここで消しておけば、ユーリもきっともう苦しまなくて済むよ」


 ナタさんの軽い言葉に、ルルエファルネさんは僕の横で絶句していた。

 場に一瞬の沈黙が満ちる。


 ガエウスを助けに行きたいのに、ナタさんは僕から警戒を緩めない。彼女はもう冗談の域をとうに踏み越えている。だから、彼女を無理矢理にでも打ち倒して、越えていくべきなのだろう。ガエウスがいくら強くても、彼は守るべき仲間なのだから。

 でもどうしてかまだ、僕の中に躊躇がある。ナタさんに向けて鎚を振るうのを心の何処かで躊躇っている。治療中のルシャも、後方のナシトとシエスも、『詩と良酒』の皆も、きっと僕の指示を待っているのに。

 ……嫌われていたとしても、ここまでは形だけでも仲間として、来たじゃないか。だから僕も、危ないなら助けると、奥部に入る前にそう決めた。

 僅かにでも、形だけだったとしても、仲間と思った相手を傷付けていいのだろうか。分からない。ガエウスの元に急ぐべきなのは、分かりきっているのに。殺気に似た何かを向けられている今でさえ、鎚を叩きつける勇気が湧いてこない。

 僕は何かを迷っている。何かが胸の奥に引っかかって、離れない。


「……なんだ、来ないの?つまらないな。別に、それでもいいんだけどさ。でも私としては、確かめておきたいこと、あるんだよね。どうしたらやる気になってくれるかな」


 ナタさんは剣をつまらなそうにぶらぶらと大きく振りながら、頭を掻いた。また爆音が響いて、焦るのに、動き出せない。

 僕は何をやっているんだ。鎚を取れ。動き出せ――


「そうだ」


 張り詰めた空気も、僕の内心も気にした風もなく、ナタさんは場違いに明るい声を出して。


「仕事柄、私のところにたくさん流れてくるんだ。裏の依頼ってやつ。今回のもそのうちの一つなんだけどさ。その中に、見かけたこと、あるんだよね。……銀髪の女の子の、暗殺依頼」


 その言葉に、焦りが一瞬で冷える。混乱しかけた思考が、沈黙する。

 ナタさんは言った後で、僕からまた目を離した。その視線の先、僕の後ろ、離れたところには。

 ナシトの背に半身を隠すようにして立つ、シエスがいる。


「シエスちゃん、だったよね。ちょうど同じくらいの歳格好だった気がするなあ。その依頼の指定と、さ」


 ナタさんがまた、軽く笑う。作り笑いなのか本心からなのか分からない、ただ軽薄な、人を馬鹿にしたような笑み。その笑みで僕を脅している。僕の大切な人を、危険に晒すと言う。

 そのことがどうしてか、辛かった。怒りよりも先に、苦みが胸に満ちる。


「けっこうな金額だった気がするよ。他にやることが多すぎて、放置してたけどさ。帝都に戻ったらその依頼、お金に困ってる色んなとこに流しちゃうかもなあ。いや、今私が持っていけばいいのか。その首」


 ナタさんの眼は笑っていて、けれどその色は本気だった。僕と僕の仲間を、害する意思。僕らを傷付けることを何とも思っていない、明確な敵意。

 ああ、もう。もう、駄目だ。


「どうかな。やる気、出てきたかな?」


 その敵意を飲み込んで。また胸がずきりと痛む。でも、ようやく分かった。



 馬鹿げた思いだけど。僕は彼女たちを、信じたかったんだ。



 僕を嫌っていても構わない。これ以上仲良くなれなくてもいい。僕は、彼女たちの仲間になったユーリをかつて傷付けた。彼女を大切に想うなら、僕を嫌うのは、自然だ。

 でも、嫌悪を露わにされても、ナタさんたちを敵だとは思いたくなかった。一緒には行けなくても、『果て』を目指す同志としてありたかった。尊敬できる冒険者として、あってほしかった。


 彼女たちは、ユーリの仲間だから。


 ユーリは今でも、僕の大切な幼馴染だ。僕が生まれてからずっと大好きだった人だ。僕を必要としなくなっても、ずっと彼女らしいままで、正しく真っ直ぐにいてほしかった。

 そのユーリが僕と別れて、代わりに仲間と信じたのが、こんな。味方を騙して、人を脅して、笑いながら誰かを傷付けるような相手だなんて、信じたくなかった。信じたくなかったんだ。


 でも今こうして、ナタさん――ナタは、僕らに剣を向けている。ルシャを斬ろうとした後で、シエスを殺すと言った。笑いながら。

 腹の底から、何かがこみ上げてくる。ユーリにフラレた時とは違う、苦い苛立ち。自分の馬鹿さ加減と、それ以上にナタへの失望で、胸の奥が昏く煮え立つ。


 もう、信じられそうにもない。


 ユーリは過去の人で、僕にとって今何より大切なのは、この二人だ。過去と今、守るべきなのはどちらなのか、迷うことなんてもうあり得ない。

 でも、こんな風にもう一度、決別しないといけなくなるなんて。そのことが、辛かった。


 息を吸って、振り切る。眼に力を込める。もう期待するのは、やめる。今ここに、断じる。

 ナタは、『蒼の旅団』は、敵だ。




「ナシト、シエスを頼む」


 声を張って、告げる。声の調子だけで、もう皆には伝わるだろう。戦闘の合図。

 盾を背に回して鎚を取る。視界の先で、ナタが嬉しそうに笑った。


「あは。ようやくか。君は本当に、筋金入りのお人好しだね、幼馴染く――」


 踏み込む。抉り込むほど強く地を蹴って、ナタの背に回る。細い腰めがけて、鎚を振るう。

 鎚の頭が貫く寸前で、ナタの姿がかき消えた。


「……いいね。急に冷たくなった。まるで別人だ。面白いや。やっぱり似てるよ君。ソルディグに」


 言葉の意味を咀嚼しない。ただ声のした方へ、また踏み込む。今度は正面、上から鎚を振り下ろそうとした瞬間、目の前には剣の切先が迫っていた。

 兜の隙間、僕の眼を狙う正確な突き。疾い。鎚から片手を離して、手甲で剣の腹を思い切り弾く。ナタは弾かれた勢いのまま、剣ごと飛んで、僕から距離を取った。剣は硬かった。魔導で強化されている。

 ナタは、疾い。闘技会で闘ったソルディグは魔導を制限されていたものの、あの時の彼よりもこちらの初動を正確に捉えている。


 でも、関係ない。彼女は敵だ。すり潰す。そう決めた。

 ナタを見る。彼女はまだ嗤いながら、眼は一層冷たく僕を見据えていた。


「君は、『果て』に届くかな。まだそうは思えないけど。……届くなら、先に消しておかなきゃ」


 そのつぶやきの意味を考える間は、なかった。

 ナタがまた消える。鎚を背に回しながら、その気配に意識の全てを傾ける。それでも胸の奥では苛立ちが燻って、消えなかった。


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