第97話 逃さない

 鎚と盾を持ち換える。少し離れたところでまた地の弾ける音が聞こえた。

 ナタの鋭い気配が左に現れて、迫る。盾をそちらへ向けかけて、急速に近付く別の気配に気付く。誰かは分からない。けれど明確な敵意。恐らくは、『蒼の旅団』の誰か。

 舌打ちが聞こえた。それが自分の発したものだと気付くのに一瞬かかった。苛立ちに囚われている。分かっていても、どうしようもなかった。

 ナタの一撃を待っている暇はない。一歩踏み込んで、盾の下部を叩きつけるように、横薙ぎに振るう。ナタが繰り出しかけていた突きを引いて、また距離を取る。それを気配だけで確かめながら、盾の勢いのままに回転する。すぐに右手側から迫る敵が見えた。もう名も忘れた『蒼の旅団』の男。僕へ振るわれた剣ごと、盾をぶつける。男は剣で盾を受けて、けれど受けきれずに吹き飛んでいった。


「すごい馬鹿力だよね。魔導じゃないのが信じられないよ。ソルディグが気にするのもまあ、分かるよ」


 ナタがまた、迫る。放つ敵意は肌に刺さるほど鋭いのに、声の調子は世間話のような気軽さのままだった。


「でも、力だけなんだろ?それなら――」


 ナタの手元が動いた。まだ間合いの外。強烈な違和感。剣に光はない。恐らくは魔導の、不可視の斬撃。

 ナタとの距離は十五歩ほど。この距離なら、大きく跳べば躱せる。背に仲間の気配もない。そう判断して、脚に『力』を込めかけて。


“踏み込め。前だ”


 頭に響く、陰鬱な声。ナシトの魔導。ずきりと頭が痛む。瞬時に理解する。

 ナシトは自分を信じろと言っている。なら信じるだけだ。ナタの魔導への対処は、彼に全て任せる。

 ナタが剣を振るう瞬間に合わせて、前に跳ぶ。地を蹴りながら、盾と鎚をまた持ち換える。近付く刹那に、兜が不自然に震えた。空気がびりびりと揺れている。見えない何かが目の前を切り裂きながら、僕に迫っている。気にせずに、突っ込む。

 瞬間、僕の前で風が弾けた。僕に迫っていた剣撃が何かに阻まれて、衝突の余波が土煙を生む。ナタの姿が見えなくなる。でもこの距離ならもう、逃さない。

 もう一歩跳ぶ。土煙を突き抜けながら、鎚を握り込む。間合いに入って、ナタの横腹目がけて鎚を叩き込む。

 一瞬見えたナタの顔は、まだ嘲るように笑っていた。


「仲間の魔導、か。要するに、君はひとりじゃ私ひとり、超えられないんだね」


 鎚が触れる刹那に、ナタがまた音もなく消える。声は、真後ろから聞こえた。


「それじゃ『果て』には届かないと、思うけどな。英雄は、ひとりなんだよ」


 首筋に、ひりつくような殺意。ナタの剣が、鎧の背の隙間を穿とうとしている。

 疾い。暗殺者じみた動きが、洗練されすぎている。技術だけなら、僕が及ぶような域ではない。でも、逃さない。もうそう決めた。

『力』を全身に流して、振りかけの鎚を、無理矢理に止める。そのまま振り向かずに、ナタの突きよりも速く脚を振り上げる。腰のあたりを思い切り、蹴り飛ばす。


「へえ」


 すぐに踏み込む。数歩分弾き飛んだナタを追って、跳ぶ。彼女を追い越して、彼女の後ろに回って、脚を地に叩きつける。地は抉れてまた、土煙が上がる。けれど僕が鎚を振り始めるより速く、ナタの剣が鋭く、僕へ飛んできた。ナタは僕を見失っていない。やはり、不意打ち以外は彼女の方が速い。


 ナタは、疾い。もしかすると、あのガエウスより疾いのかもしれない。彼女の初動は、僕の眼では捉えきれない。どんなに圧倒的な力があっても、当たらなければ意味がない。彼女もそれを分かっている。だから余裕を隠そうともしないのだろう。

 けれど、逃さない。彼女は、敵だ。僕が叩き潰す。


 土煙を貫いて迫るナタの突きは、僕の右肩の付け根を狙っている。それを、躱さない。剣が鎧の隙間を突いて、肩に切先が食い込む。鋭い痛み。鎧の中で血が流れて、零れ落ちる。剣に魔導を込める時間はなかったようだった。

 肩に力を込める。激痛が走る。すぐに剣を引き抜こうとするナタを肉と鎧で、一瞬だけ止める。この一瞬。僕はもう、鎚を振りかぶっていた。腰を軸に、感覚のなくなりつつある右肩も『力』で無理矢理に動かして、すくい上げるようにナタの、横腹へ。叩きつけようとしたその瞬間。


「ナタっ!」


 切羽詰まった声。敵意は感じなかった。だから、僕の鎚とナタとの間に割り込んでくる誰かに、気付くのが遅れた。

 ルルエファルネが、細身の剣で僕の鎚を受けていた。鎚は一瞬だけ止まって、その一瞬にナタの姿が消える。けれど剣は容易く圧し折れて、僕の鎚はそのままルルエファルネの上半身へ吸い込まれていった。空いた胸と腹に鎚が叩きつけられて、金のエルフのくぐもった声。ルルエファルネは、一瞬で吹き飛んで、林の中へ消えていった。衝撃で木々の倒れる音。

 鎚を持ち直す。僅かに動揺した内心を押さえつける。ルルエファルネも、敵だろう。ナタを庇うのなら。


 ナタは僕から少し離れたところで、ルルエファルネの消えていった方を見ている。その表情は見えない。つぶやく声だけが微かに聞こえる。


「馬鹿だなあ、ルルは。私のこと、信じすぎ――」


「ロージャっ!」


 泣きそうな声がして、肩が暖かい光に包まれた。ルシャがすぐ隣に来てくれたようだった。刺すような痛みが癒えていく。


「ありがとう、ルシャ」


「……軽傷で、良かったです。マナイさんも無事です。彼らパーティは念のため、少し離れたところに移ってもらいました」


 ルシャの言葉とほぼ同時に、遠くで爆音が響く。ガエウスはまだ、戦っている。


「ありがとう。ルシャは先に、ガエウスのところへ――」


「ねえ、幼馴染くん。君、『果て』を目指すの、もう止めておいた方がいいよ」


 ナタが僕らを遮って、普段と変わらない口調で語りかけてくる。ルルエファルネを心配するような雰囲気は、なかった。


「なんとなく分かってたけど、やっぱり君には無理だ。力も欲も、弱すぎるよ。私が消す必要もないや。仲間のためなんてしょうもない理由で戦ってる君じゃ、届くはずもない。途中で皆死んで、それで終わり」


 ナタはいつも通り、呆れるように嘲るように、笑っている。

 こいつは何を笑っているのだろう?


「別に、『果て』に辿り着かないなら君らがどうなってもいいんだけどさ。親切心ってやつだよ。君は木こりとして生きて、そのまま死ぬべきだった。ユーリが言うように、さ」


 この女は。

 自分の仲間が吹き飛ばされているのに。気にした風もなく、仲間を頼る僕を見下して。僕を試したいからなんて理由で、僕らを、ガエウスを陥れて。自分の仲間も、僕の仲間も、どうでもいいと嗤う。


 腹が立つ。脳裏が凍えるように冷えていく。僕の信じたかったものを否定して、僕の信じるものを馬鹿にして。僕の生き方を全て、嘲笑っている。

 もう絶対に、逃さない。こいつは敵だ。僕の仲間を危険に晒す、僕から大切なものを奪おうとする、敵だ。



 だから、ここでころす。逃しはしない。




「ナタ。僕の仲間は、僕の全てだ」


「へえ。それで?」


「皆を守って、傍で生きる。それが僕の全てだ」


「そうかい。なら、君の無力でガエウスさんを失う気分はどう――」


 隣のルシャには何も告げず、前へ跳んだ。ナタへ向け駆けながら腰から手斧を取って、投げる。『力』を込めた斧を、ナタはただ身を捩って躱した。注意が斧に行った一瞬の隙に、ナタの横まで跳ぶ。鎚を思い切り、上から振りかぶる。


「単調だなあ」


 ナタの呆れるような声。鎚を振り下ろす瞬間には、ナタはもう消えて、気配は僕の数歩前にあった。けれどナタの気配は、無視する。


「無力も『果て』も、関係ない。邪魔するなら、全て」


 そのまま『力』も何もかも込めて全力で、地面目がけて鎚を叩きつける。一瞬見えたナタの顔からは、笑みが消えていた。

 シエスの呼び出した流星を強く脳裏に思い描いて、ただ速く、あの星よりもひたすらに疾く、振り下ろす。感情の全てで、叫ぶ。


「僕が――叩き潰すっ!」



 瞬間、大地がまた、揺れた。

 鎚を中心にして円形に、地が弾ける。轟音と共に地面は砕けて、抉れ上がった。途方もない量の土塊と岩片と、土煙が巻き上がる。視界が土気色に支配されて、何も見えなくなる。けれど気配は見失わなかった。

 土煙の中へ跳ぶ。鎚を背に回して、盾を掴んで、駆けながら正面へ構える。目の前、ナタへの道を阻む大きな土塊に、真っ直ぐに突っ込む。土塊は一瞬で粉々になって、土煙の奥に人影が見える。そこには赤く黒く輝く剣を手に、僕へ嗤うナタがいた。


「派手ですごいけど。お粗末な攻めだね」


 ナタが剣を振るう。刃状の閃光が数条、僕へ迫る。赤黒い魔導剣。この距離では、ナシトの魔導も間に合わない。躱す余裕はない。ただ元より躱すつもりもなかった。盾の魔導も発現させない。一瞬の隙も惜しい。ただ、逃さない。

 捻じ切れるほど強く『力』を込めて、正面へ跳ぶ。魔導の刃が繰り返し叩きつけられて、盾が大きく凹む。盾を避けた一刃は額にも食い込んで、息が止まる。けれどどこも斬り落とされてはいない。薄れかける意識の外で、僕の脚はもう一歩、地を抉るほどに踏み込んでいた。魔導剣の衝撃も貫き超えて、前へ、跳ぶ。土煙を抜けて、ナタの懐へ。


「――!」


 ナタの表情が見えた。笑っていない。剣が僕へ振り下ろされる。でも今回ばかりは、僕の方が速い。盾を上向きに倒して剣を受けながら、空いた手を思い切り伸ばした。ナタが僕の目の前から消えるより僅かに早く、僕の手がナタの頭部を捉える。顔を正面から掴んで、握り込む。


「捕えた」


 自分のものとは思えない冷たい声。それでも良かった。そのまま、ナタの身体ごと持ち上げる。鎚を振るう時間はない。このまま叩き潰す。そう念じて、ナタの頭を地面に思い切り、叩きつけた。


 そうしてまた、大地が揺れた。


 けれどまだ、ナタの頭は潰れていない。盾を手放して、代わりに剣を握るナタの手を掴んで、剣を封じる。そして頭を固く握った手をもう一度振り上げて、叩きつける。また地が揺れて、土煙が広がる。まだ潰れない。

 だからそれを何度も何度も、繰り返した。『力』の反動で瞼が重くなっても関係なく、何度も叩きつけた。

 気が付くと、敵意に満ちていたナタの気配はもう、感じられなくなっていた。

 まだ息はある。けれど衝撃に気を失ったか、頭部を守るための魔導に全てを注ぎ込んで、魔素酔いで力尽きたか。ナタに意識はなかった。ナタを地に放り投げる。周囲は土煙に満ちていて、誰の人影も見えず、気配も感じられなかった。


 鎚に持ち換える。これで、終わりだ。今度こそ、叩き潰す。そう思って、鎚を振り上げた時だった。



「待て、ロージャ」


 ナシトだった。いつの間にか、真後ろに真っ黒な影が立っている。


「殺す必要はない」


 意外な言葉だった。ナシトは、敵の生死なんて気にするような男ではない。


「……いや。この女は、生かしておけばシエスを狙う。もう、駄目だ」


「殺せば、お前が変わる。それは、望ましいことではない。俺達にとっては」


「……ナシト?何を言ってるんだ?」


 ナシトの言っていることが良く理解できない。彼にとっても、シエスは大切な教え子であるはずだ。ナタと何か関係がある訳でもない。それなのに、どうして、ナタを庇う?


「俺に任せておけ。良い手段がある。殺さずに、この女を封じる。お前は先にガエウスの元へ向かえ」


 ナシトの言葉を、疑う訳ではない。でも、ナタの問題は僕が片付けておくべきだ。僕の馬鹿な期待が招いたことなのだから。そう思って一瞬、ナシトに答えられずにいると。


 不意に、頭の中が割れるように痛んだ。これは、魔導を使われている時の。けれど痛みは一瞬で消えて、代わりに途方もない眠気に襲われる。


「ロージャ。時間がない。すまないが少し、ぞ」


 訳が分からない。無理矢理に瞼をこじ開けても、視界が歪み始めた。動かなくなったナタのすぐ脇で、膝をついてしまう。世界がぼやけはじめる。霞がかった視界の奥で、ナシトの手が僕の額に触れているのを感じる。


「許せ。すぐにルシャを呼ぶ。……お前をのはまだ、二度目だ」


 ナシトが珍しく、声に申し訳なさを滲ませていた。意識がどこか、いつもと違うところへ落ちていく感覚に襲われているのに、僕はそんなことが気になって。

 すぐに意識は、闇に消えた。

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