第87話 不意打ち

 シエスとルシャをなんとかなだめてから、僕らはログネダさんに連れられて帝都の外へ出た。

 帝都を出ると本当は怒られてしまうのだけれど、と言いつつも、ログネダさんは特に気にしたふうもなく楽しげに笑っていた。自由そうに見えて、やはり国から何らかの制限を課せられているのだろうか。この国における彼女の立ち位置はいまいち読めない。


 手合わせをしたいというログネダさんの条件を、僕ら、というよりルシャとシエスは飲んだ。ただ、彼女がこちらに好意的であることは間違いないのだろうけど、僕らも彼女をまだ完全に信用した訳ではないから、もちろんこちらからも色々と条件はつけさせてもらった。条件をあれこれとつけたのはほとんど僕だけだったけれど。

 防具は身に着けた上で、剣は刃のないもののみ。シエスも参加するけれど、ログネダさんはシエスは狙わず、ルシャとのみ対峙する。ルシャが降参した時点でルシャとシエス二人の負け。魔導は双方使ってもよいけれど、大がかりなものは使わない。王都の闘技会のものとあまり大差ない条件のはずだ。加えて、何か危険を感じたらすぐに僕が介入できるようにしてもらった。ログネダさんは全て受けてくれた。



 帝都の外に広がる畑の合間、空き地を見つけてそこに陣取る。帝都の城壁からは少し離れたので、あまり騒がなければ警備にあたる帝国軍から目をつけられることもないだろう。


「誰かと手合わせなんて、いつぶりかしら」


 ログネダさんは立ち止まって息をついた後、何事かつぶやいて、しゃがみこんで手を地につけた。みるみるうちに地面から棒のような、剣のようなものが生えて、ログネダさんの手に収まる。予想はしていたものの、彼女も魔導を人並み以上に扱えるようだった。


「剣は、こんなものでいいかしら?ルシャさん」


「ええ、十分です」


 土か石かでできた剣を、ルシャはログネダさんから受け取った。何度か握り直して、感触を確かめている。


「シエスちゃんは、何もいらない?」


「ん。必要ない。……あと、シェストリア」


 シエスは杖を持っていない。でも手ぶらでも問題なく魔導を扱えるから、わざわざ創り出してもらう必要はないようだった。

 ログネダさんに答えるシエスの声は心なしか刺々しかった。ルシャもちらちらと僕の方を見ている。まだ二人とも、ログネダさんのあの言葉を気にしているのだろうか。……今日の夜あたりに、また色々と聞かれるだろうな。僕もよく分かっていないのに。ログネダさんと会うのは、これでまだ二回目なのに。

 逸れかけた思考を中断する。今はとりあえず、手合わせに集中しよう。息をひとつついてから、口を開く。


「ログネダさん。僕は貴女の腕前を知らないのですが……どうか、双方に怪我のないように、お願いします」


 本当なら、こんな手合わせに意味はないはずだ。だけど今、協力をお願いしている立場なのは僕らで、ログネダさんはどうしてか手合わせをしたがっている。それが危険なものでない限りは、僕らは従うしかない。何事もなく終わることを、祈るばかりだった。


「あら。安心しなさいな。あなたのいちばん大事なふたりですもの。怪我ひとつ負わせはしないわ。少しだけ、剣を合わせるだけよ」


 ログネダさんはまた笑う。この人は、どうしてこんなにも楽しそうなのだろう。


「でも、ルシャさん、シエスちゃん。ちゃんと、本気で来てね?私、こんなおばさんだけれど、一応まだ現役のつもりなのよ?」


 そう言って彼女は剣をひとつ振るった。剣に刃はなく、造りは大雑把でどこも鋭くなどないはずなのに、その振りは風を軽やかに斬り、涼やかな音を立てた。嫌な予感がする。ルシャも同じだったのか息を呑んで、少し腰を落として、構えた。僕も鎧と盾を発現させて、万が一に備える。


「……シェストリア」


 シエスだけが、ぶうたれたような声でまだ呼び名の訂正を要求していた。それにログネダさんはまた微笑んだ。


「じゃあ、いくわね」


 穏やかなままの声でそう告げて、次の瞬間には、彼女の目付きは変わっていた。そうしてログネダさんは、消えた。空気が揺れる。



 数歩の距離があったルシャの真横に、もうログネダさんが詰めている。低く腰を落として、剣を腰から、斬り上げる。ルシャは後ろに一歩跳んでそれを躱した。けれど反撃の突きも払いも出せていない。ログネダさんはそのままルシャと離れず、横薙ぎにもう一撃を振るう。ルシャがぎりぎりで躱して、金の髪が剣の風で揺れる。二人とも、恐ろしく速かった。そのまま、ログネダさんが攻め、ルシャが躱すのが数度続く。


 考えてみると、ルシャの戦いを外からじっと見るのは初めてかもしれない。これまでは、僕が彼女の前で守るか、二人とも前に出てそれぞれ戦うかばかりだった。

 ルシャは戦闘において何でも器用にこなすものの、一番優れているのは回避だと思う。彼女の性格からか、先手を取ることは少なくて、回避からの反撃で敵を無力化することが多かったはずだ。闘技会で戦った時のソルディグほど正確無比の反撃、という訳ではないけれど、ルシャの戦い方はなんというか、しなやかだった。

 そのルシャが、今はログネダさんを相手に、防戦一方だった。剣撃を躱すことはできている。でもルシャの剣はまだ一度も振られていない。遠慮している訳ではないだろう。躱すことで精一杯なのだろうか。


「綺麗に避けるのね」


 一旦離れてつぶやいたログネダさんの声は優しげで、それはひどく場違いな響きだった。

 彼女の剣は、ひたすらに荒々しかった。振りは大きく隙だらけに見えるのに、ただただ速い。守りなど全て捨てて、ただ必殺の剣を振るう。ルシャとは正反対の、嵐のような剣だった。

 刃がなくてもあの勢いじゃあ、当たれば大怪我を負ってしまう。そう思って、声をかけようとした時。


「大丈夫ですよ、ロージャ。まだ、見えます」


 ルシャだった。


「それに、これだけで終えてしまったら、この方はきっと、口添えもしてくれないでしょうし」


「あら、よく分かっているじゃない。でも、寸止めもできるから、だいじょ――」


 僕に答えるために、ログネダさんの猛攻が止んだ一瞬。彼女の真横から音もなく、氷柱が数本迫ってきていた。シエスの得意な、氷の魔導。

 ログネダさんは言葉を斬って、その場から動かずに氷柱を迎え撃った。氷柱の横腹を剣で殴りつけて、砕き折る。氷片が粉々に散って空に舞った。


「シエスちゃんは、意地悪ね。話している途中だったのに」


「これくらいは、普通。あと、シエスは駄目」


 僕の前でぼんやりと立っているだけに見えたシエスも、魔導を発動させていたようだった。この期に及んでまだ呼び方に拘っている。


「やっぱり意地悪。そういえば、私もロジオンのこと、ロージャって呼んでもいいかしら?」


「駄目」

「ダメですっ」


 シエスとルシャが同時に叫ぶ。特にルシャの声は明らかに慌てていた。いや、僕の名前をどう呼ぶかはその人次第だし、それを拒否できるのも僕だけな気はするけれど。


「あら。嫌われてしまったかしらね」


 そう言って、口を手で隠してふふと笑うログネダさんは、その手に剣さえなければ上流貴族のご婦人にしか見えない優雅さだった。


「おしゃべりも、いいのだけれど。もう一度、いくわね」


 ログネダさんはそう告げて、腰を落とした。

 確かに、彼女の剣撃からは敵意も殺意も感じられない。寸止めができるというのも本当だろう。でも、不安なものは不安だ。ダンジョンにいる訳でもないのだし、ルシャには怪我なんてしてほしくない。

 まあ、この距離なら最悪、ルシャが重い一撃を食らいそうになった時は、ログネダさんに僕が突進すれば下手なことにはならないだろう。


 そんな一瞬の逡巡の内に、ログネダさんとルシャの戦闘は再開していた。ログネダさんが攻め続け、ルシャが躱し続ける。


「ロージャ」


 シエスから声がした。僕を振り返らず、声だけで僕を呼んでいる。


「どうしたの?」


「……見えない。魔導を撃ったら、ルシャにもぶつかりそう」


 シエスはどうやら困っているようだった。彼女の得意分野は大規模魔導だから、こういう場面はまだ辛いか。


「『知覚』の魔導は、まだナシトから教わってない?」


「教わった。……けど、まだ苦手」


「こういう時は、使えると便利だよ。ログネダさんはシエスには攻めてこないし、今練習してみてもいいかもね」


「ん」


 いつもの頷きの後、シエスはぶつぶつと何か言いながら、自分の世界に集中し始めた。

 あのナシトも天才と認めているシエスにも、他の魔導師と同様に得手不得手があるというのは、シエスが普通の娘として成長している証拠のようで、なんだか嬉しい。彼女のことだから、苦手といってもほんの少し使いにくいくらいで、結局すぐに使いこなしてしまうのだろうけど。


 目をルシャの方に戻す。彼女はまだ、苦戦していた。

 ログネダさんは強いだけじゃなく、上手いのだろう。ルシャが反撃できない角度と一瞬を的確についている。ルシャの額には汗が浮いていて、対するログネダさんは穏やかな笑みをまだ浮かべている。

 この人は、軍を率いる立場だったはずなのに、剣士としても本当に凄腕なのか。すごいな。ルシャだって相当の使い手なのに、その彼女を追い詰めて、涼しい顔をしている。


「上手なのだけれど。私のロジオンを預けるのは、まだ少し不安ね。ルシャさん?」


「……っ、まだ、やれますっ」


 煽るログネダさんに、猛るルシャ。手合わせというより、師弟の修行のように見えてくる。よく分からない流れでこうして打ち合っているけれど、ルシャにとって良い経験になるのなら、良かった、のかな。

 そう思って、気を抜きかけた時。



 ログネダさんが、また唐突に消えていた。ルシャの脇を抜けて、向かう先は、シエス。

 背筋が凍る。『力』を脚に流して、地を蹴る。何も気付かず立っているシエスの前で、強引に止まる。もう目の前には、土の色をした無骨な剣が迫っていた。盾でそれを受ける。予想以上の衝撃が盾を打つ。でも、耐えられないほどではない。


「何のつもりですか、ログネダさん」


 問うものの、答えはなかった。盾越しに彼女と目が合う。敵意も殺意もなく、けれど先程とは違う、感情のない眼をしている。意図が読めない。

 ログネダさんはまた跳んで、僕の真後ろ、シエスの傍に一瞬で詰めた。僕は後ろを振り向く前に、後ろ手でシエスの腕を掴んで、前に引っ張る。シエスの身体を抱きとめてから、盾をまた、ログネダさんに向ける。衝撃に備えて腰を落とし、『力』を込める。

 盾にぶつかる直前、ログネダさんの剣は止まった。それから無理矢理な動きをして、僕とシエスのいる方とは別方向へ振られた。そこにはルシャがいて、彼女はログネダさんの脇腹めがけて鋭い突きを放っていた。ログネダさんは剣を払い上げて、それを防ぐ。

 生まれた一瞬の隙に、僕はシエスを抱いたまま、大きく後ろに跳んだ。ルシャも距離を取っている。ルシャの眼は先程の打ち合いの時よりもずっと真剣で、ダンジョン内で見る、命のやり取りをする時の表情になっていた。気付くと、シエスも僕の腕の中で魔導の式らしきものをつぶやき始めていた。


 何が起きたのだろう。ログネダさんは、はじめからここで僕らを消すつもりだったのだろうか。誰の指示で?自分の意思なのか?困惑と推測が頭の中に満ちかけて。

 ログネダは、僕らの前でふっと気を抜いて、剣を下ろした。その顔は穏やかで、微笑みすら戻っている。訳が分からない。


「……あなたたちは、本当に。大切な相手が危ない時は、分かりやすいほど強くなるのね。本当に、真っ直ぐなんだから」


 微かな声でつぶやくログネダさんは、ほんの少しだけ哀しげにも見えた。警戒を続ける僕らの前で、ログネダさんは剣を手放した。


「試すようなことをして、ごめんなさい。つい、本気を見たくなっちゃったの。ロジオンは、あんなに速く動けるのね。ルシャさんの一撃も、重かった」


 地に落ちた剣は、そのまま崩れて土に戻った。


「おかげでよく分かったわ。あなたたちは、一緒にいるべきね。ルシャさんも、ロジオンのためならもっと強くなれると思うわ。シエスちゃんは、まだまだこれから」


 ログネダさんは静かに話し続けている。そこに先程のような不気味さはなかった。僕も、盾を下ろす。

 ルシャとシエスはまだ警戒を続けていた。シエスももう、名前について文句を言おうとしない。


「あら。これは本当に、嫌われたものね。あれくらいの不意打ち、あなたたちなら防げると信じていたのよ?」


 ログネダさんはいたずらっぽく笑うけれど、僕らは誰も笑わなかった。敵ではないのかもしれないけれど、よく分からない人だ。


「……軍には、あなたたちを推薦しておくわ。数日でギルドに依頼がいくはずだから、そこからは、あなたたち次第。頑張ってね。さあ、もう終わり!わがままに付き合ってくれてありがとう。さあ、帰りましょうっ」


 無言を続ける僕らに、流石にやりすぎたと思ったのか、ログネダさんの声はあからさまに明るくなった。空気を変えようとしているような。実は不器用な人なのだろうか。


「……ありがとうございます。ですが、ログネダさん。流石に肝が冷えました。もう、あんな真似はやめてください。また突然不意をつかれるかもしれないと思うと、僕らも警戒せざるをえなくなりますから」


「……ごめんなさい。やっぱり、やりすぎたかしらね。軍にいた頃の悪い癖が、出てしまったみたい。息子にもいつも、急に人を試すような真似はやめろって言われていたのだけれど、ね」


 ログネダさんは肩を落として、明らかにしゅんとしてしまった。そう落ち込まれると、なんだか警戒し続けるのも悪い気がしてくる。でもルシャとシエスは今も僕の両脇に陣取って、ログネダさんの動向をじっとうかがっている。


「あの……ルシャさん?シエス、ちゃん?ごめんなさいね。怖がらせるつもりも、怪我をさせるつもりだってなかったのよ?」


「ロージャが信じるというなら、私も信じますが……私としては、できればもう少し正面から、打ち合ってほしかったです。シエスではなく、私に」


「……私は、別にいい。でも、シエスは駄目。次に呼んだら、怒る」


 シエスは頑なだった。




 帰り道、ログネダさんは僕らにひたすらに謝り倒して、その様子があまりに必死だったので、ぎこちなくなりかけていた僕らの関係はなんとか、友好的な知り合い程度までは戻っていた。ログネダさんが本当に優しい人だということは、話すほどによく分かる。個人的には、警戒すべき相手とは見たくなかった。これ以上仲良くなれるかは、これから次第だろう。


「今日は、楽しかったわ」


 ログネダさんは宿屋まで僕らを見送ってくれた。家まで送りますという僕の提案は、ログネダさんに断られただけでなく、ルシャとシエスからも禁止されてしまった。断ったはずのログネダさんも何故か落ち込んでいた。


「……『蒼の旅団』の方々といい、ログネダさんといい。ロージャの周りにはどうして奇妙な女性ばかり寄ってきて、ロージャを構うのでしょうか……」


「あの、ルシャさん?まだ私、ここにいるのだけれど」


 珍しく毒のこもったルシャのつぶやきに、ログネダさんが笑う。少しの警戒と、よくわからない和やかさが、僕ら四人の内に漂っていた。

 ルシャとシエスを先に宿屋に促して、自分も半ば宿屋に入りながら、改めて別れの挨拶をと思って、ログネダさんを振り返る。


「ログネダさん。僕たちはこれで。ダンジョンの件、お世話になります」


「ええ。任せて」


「ありがとうございます。それでは、また」


 挨拶を済ませて、宿屋の扉に手をかける。もう夕方で、弱々しい西日が差している。ログネダさんの顔は、逆光で見えなくなった。



「……ヴォーリャ。私、どうしたら、いいのかしらね」


 扉を閉じかけた刹那に聞こえたログネダさんのつぶやきは、僕に向けたものではないようだった。声音はひどく弱々しくて、泣き出しそうにも聞こえて、思わずまた、扉を開けてしまった。

 そこにはもうログネダさんはいなくて、ただ静かに遠ざかる彼女の後ろ姿だけが小さく、見えた。僕は、ただその場に立ちつくして、その背を見送ることしかできなかった。

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