第77話 志
しばらくして、白い鳥が僕らの目の前にふわりと降り立った。荒々しさは無く、優雅にさえ見える所作だった。
一応鎧は身に着けたままで、鎚も手にして警戒を続けているものの、目の前のアルコノースは先程までの狂ったような様子が嘘のように静かで、こちらをじっと見つめる眼もひどく穏やかに凪いでいた。
その背からひょっこりとガエウスが顔を出す。すぐに跳んで、僕らの傍に着地した。
「怪我は無さそうだね。安心したよ」
「たりめえだろ。なかなかのスリルだったぜ。雲の上の更に上からの景色なんざ、見た人間は俺が初めてだろうな」
ガエウスは満足げだった。下から見ていた僕らはただ不安だったのだけれど、この男は不安など欠片も抱いていなかったみたいだ。
危険に命を晒して、危機そのものすら楽しみながら、その向こうにある何かを掴み取ることを生きがいにしているガエウス。小心者の僕には到底できない生き方だけれど、その生き様はいつも清々しくて、羨ましい。彼はがむしゃらに無理矢理に突き進んで、最後には必ず自分の欲しいものを手にしている。その心の強さに、僕はいつだって心の何処かで憧れている。絶対に彼のようにはなれないのに。
"世話をかけたな、人の子らよ"
頭の中に声が響いたのは、そんな時だった。ナシトの仕業かと思って思わず振り返ってしまう。ナシトは横に首を振っていた。
言われてみれば、声の調子が違う。ナシトの声は魔導を通じてでさえもどこか陰鬱だけど、今響いたものは透き通っていて柔らかかった。
直ぐに前へ向き直る。信じ難いけれど、これはアルコノースの声、だろうか。そんな僕の思考に応じるように神獣は僅かに頭を動かして、頷いたように見えた。
"醜態を晒した。同胞が見ていれば、千年は笑い物にされるほどの、な。礼を言わせてほしい。勇有る者達に、感謝を"
そう言って、アルコノースは首を低く垂れた。神獣の礼の示し方なんて知る訳もないけれど、少なくとも姿形は獣である彼らが首筋を露わに見せるということは、敵意は無いことは明らかだろう。
僕は困惑しっぱなしだった。この声はなんだろう。魔導ならそろそろ魔素酔いの症状が出ていてもおかしくはないのに、その気配は無かった。魔導とは別の、神獣の力なのだろうか。そもそも神獣とは何だ。
戦闘に集中していて後回しにしていた疑問が頭の中に噴出し始めている。けれど目の前の巨大な鳥が神獣だということは不思議と確信していた。少なくとも、魔物ではない。
とりあえずは、礼を失することのないようアルコノースに答えるべきだろう。
「礼なんて。こちらこそ、防衛のためとはいえ貴方に危害を加えてしまい、申し訳ございませんでした」
"いや。魔に狂わされていたとはいえ、中々に面白い時間であったよ。人に翻弄されるなど、昔を想い出すようだった"
アルコノースはそう言って、僅かに眼を細めた。その様子は永い時を生きた人のようで、僕はなんだか、名のある先達を前にした時のような緊張感を抱き始めていた。
聞きたいことは沢山あるのだけれど、この超常の存在にこちらから話を切り出していいものか、一瞬迷う。
「……魔素を吸うと、狂うの?」
そんな僕の前でシエスが、いつもと何ら変わらない調子で質問していた。でも声には緊張とは違う硬さがある。『果て』の欠片を身に宿すシエスには、他人事ではないから、だろうか。校長から聞いた魔素と欲望の関係について、シエスももう何か身の内に感じているのかもしれない。
……このことは後でシエスと話しておくべきだろうな。思っているより、時間は残されていないのかもしれない。
"我ら太古の者は、魔への抵抗が弱い。取り込むと容易に欲に呑まれてしまう。故に身に寄せ付けぬよう『
「誰に、やられたの?」
"分からない。耄碌したものだよ"
「……気を付けて。世の中は物騒だから」
"ああ、その通りだな。肝に銘じよう"
神獣と何故か普通に会話しているシエスにひやりとする。ガエウスも何か気になるのか、ずいと前に出て口を開いた。
「『志』ってのは、いったい何のことだ?」
"……穿つ意志。
「ンだそりゃあ。もうちょっと分かりやすく言ってくれねえか」
ガエウスの失礼極まりない言葉に怒った様子もなく、けれどアルコノースはガエウスから目を離して、僕とその横に立つルシャの方を向いた。
"まだ、『志』を放つ人の子がいるとはな。時代はとうに
アルコノースの眼が、じっと僕らを見る。優しいのに冷たい瞳。今まで見たことのない深さをした眼だった。
神獣の言葉は抽象的で、正直僕も理解しきれてはいない。けれど彼、もしくは彼女の言う『志』については心当たりがあった。
ただ自らの意思で、世界の『法則』を歪めるもの。
「……僕らの力も、『志』なのですか?」
"おそらくは。人の身で私を止めるなどあり得ない。星の理を歪めない限りは。……小さき白き護り手よ。その力で、何を為す?"
何を為すのか。そんなこと、僕には分からない。言えるのは、僕はただ仲間を守って、ずっと一緒にいたいと、そう思っているということだけだ。
けれど、これはまたとない機会だろう。神獣アルコノースなら、『果て』についても何か知っているはずだ。
「……僕らは、『果て』を目指して旅をしています。けれどそれが何処にあるのか、まだ見つかっていません。貴方なら、『果て』について何かご存知ではないですか」
一息に尋ねる。するとアルコノースは、片目だけを大きく見開いた。それがなんだか、おどけているように見えて不思議だった。
"『果て』を自ら遠ざけて、なお其処を目指している。人の子というのは、おかしな生き物だよ。……私はもう、魔との諍いに関わるつもりは無い。その問いには答えずにおこう"
そう言ってアルコノースは黙った。教えてはくれないようだ。でも、手がかりになる言葉をいくつか得ることができた。
神獣と戦って命を拾って、情報も得た。想定外の冒険でこれなら、上出来だろう。そう思っていたのに、ガエウスはどうやら不満だったようで、口を挟んできた。
「ケチくせえ野郎だ。『果て』は別に自力で見つけっからいいんだが、代わりになんか、ねえのか?俺たちは一応、命張ってあんたを助けてやったンだぜ?」
ガエウスは気のない振りをしながらあからさまに目を輝かせていた。そういえば、冒険の終わりには宝と酒を欲しがるのがガエウスだった。
"そうだな。……これくらいなら、礼の範疇だろう。これを持っていくといい"
アルコノースはそう言って、自らの嘴で翼をついばみ、純白の羽根をひとつ僕らへ落とした。僕の背丈ほどの羽根を掴み取る。驚くほどに軽かった。そういえば、僕らは戦闘中、この羽根をひとつたりとも散らすことができなかったな。それを思うと、この羽根にも何か、超常の力が宿っているように思えた。
"森人か土小人なら、武具へ混ぜ込むことができるだろう。魔を散らす『志』を込めてある。憎き魔を滅するのに、役立てるといい"
「ありがとうございま――」
「そういうのを待ってたんだよっ!神獣の羽根、まさしくお宝じゃねえかっ」
礼を言おうとして、遮られた。ガエウスに羽根をひったくられる。ガエウスはがははと笑いながら羽根を掲げ見ていた。……神獣を畏れ敬う気持ちとか、そういうのは彼には無いのだろうか。
「アルコノース様。ひとつだけ、お伺いしたいことがございます」
その時、ずっと黙っていたルシャが口を開いた。その声は普段よりも厳かに聞こえた。アルコノースはルシャの言葉を待つように、じっと彼女を見つめている。
「……貴方のような神獣がこの世界にいるのなら。……貴方の棲むという天には、神と呼ばれる存在も、いらっしゃるのでしょうか」
ルシャはアルコノースを見上げている。そこには祈るような色はなくて、悲しげでも、必死でもない。彼女はただ確かめようとしていた。
"我らをそう名付けたのは、人だよ。我らはただ古に生まれて、人より強かったに過ぎない。我らは主を求めない。神を求めるのはただ、人のみ"
「……ありがとうございます」
アルコノースの言葉を聞いて、ルシャは息をひとつついてふっと肩の力を抜いた。それから、僕が隣で見ていることに気付いて、僕の方を向いて笑った。
「心配しないでください。いつか神獣と会えたら聞いてみたいとずっと思っていたことを、聞いただけですから。私の信じる人はもう、すぐ傍にいますから」
「……なら、良かった。でも、悩みがあったらいつでも言ってよ、ルシャ」
僕がそう言うと、ルシャはぴくりとして、眼を少しだけ見開いた。驚いている、のかな。
「……ええ。……大したことではないのですけど、また帰ったら、ひとつお話しさせてください」
「ああ。約束だよ」
僕が念を押すと、僕があまりに真剣な顔をしていたのか、ルシャは楽しげに笑い始めた。
ルシャは自然に笑えている。だから本当に些細なことなのかもしれない。でも些細なことでも、僕は彼女の力になりたかった。
"私はもう行こう。此処の風は悪くないが、魔の気配が気に入らない"
アルコノースはそう言うと、翼を広げて羽ばたき始めた。けれど突然、ぴたりと羽ばたくのを止めて、じっと下の方を見始めた。なんだろう。
アルコノースの視線を追うと、そこにはシエスがいた。そろりそろりと近付いていたのかいつの間にか神獣の近くにいて、その腹のあたりの、短く柔らかな羽毛でふかふかした部分をじっと見つめていた。まさか。
シエスがアルコノースを見上げた。一人と一羽の視線が交わる。無言の時が流れた。
"……来なさい"
しばらくして、僕らの頭の中に呆れたような声が響いた。それから神獣は広げていた翼を畳むと、鶏が卵を温める時のように、脚を畳んでその場に座り込んだ。
それを見たシエスは瞬く間に眼を輝かせて、アルコノースの腹に飛び込んでいった。腕をいっぱいに広げて正面から抱きついて、僕によくするように頭をぐりぐりと、柔らかな神獣の腹に擦りつけている。
「………もふもふ…………」
「ああっ、シエス!ふ、不敬ですよっ!」
僕の隣でルシャの焦ったような声が虚しく響く。横を見ると案の定彼女は明らかに羨ましそうな顔をしていたので、背中をとんと押してやった。
「ろ、ロージャ、なにを」
「行っておいで。僕らは助けたんだ。抱きつくくらい許してくれるよ」
「し、しかし」
「早くしないと飛んでいっちゃうよ、アルコノース」
「うぅ」
僕の顔と、幸せそうにもふもふに埋もれるシエスの方を交互に何度も見た後で、ルシャはついに観念したのか、シエスの方へ駆けていった。
そして、ルシャが遠慮がちにシエスの隣で神獣に抱きついて、すぐに蕩けたような顔になるのを見ながら、アルコノースが困ったような眼をしていたのに気付いて、僕は少し離れたところで、笑い出してしまうのを必死に堪えていた。
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