第76話 地の壁と天の鳥

 そして僕は、アルコノースのくちばしを盾で受け止めた。


 衝撃が僕の全身を貫く。経験したことのない圧力。その重さに、一瞬で盾は大きく凹み歪んで、盾を握る手と踏ん張る脚から感覚が消え失せて、身体中の骨が軋む音が聞こえた気がした。痛い。『力』で覆っているのに、腕も脚も背も、僕の何もかもが悲鳴をあげている。

 これは。人の限界も、魔導の超常すら超えている。盾と身ひとつで持ちこたえられる訳がない。頭の片隅で、一瞬でそう確信した。


 けれど。僕はアルコノースを正面で受け止めていた。あり得ない速度で僕を襲った巨体を押し留めて、衝突の衝撃で生じた暴風のど真ん中で、盾も身体も限界を超えながらなお自らの脚で立っている。意思と『力』だけが僕を支えていた。

 僕の身には今、白い鳥の圧倒的な力に応じるかのようにこれまで感じたこともないほどの濃い『力』が満ちている。とうに限界を超えた身体を、それでも衝き動かす不可視の力。

 僕の背にはシエスとナシトがいる。僕が押し切られれば二人とも無事では済まない。なら限界だとか無理だとか、そういうことは全て無視して、僕が守る。僕になら護れる。それを強く思うだけで、『力』は身の内に迸っていた。

 だから、全身の感覚を失って目すら霞み始めても、僕は踏みこたえ続けた。




 途方も無く長く感じた数瞬の後で、ついにアルコノースの勢いが弱まり、嘴が唐突に盾から離れた。僕は前につんのめりそうになる。反射的に盾を地に叩きつけて杖代わりにして、なんとか踏み止まって前を向くと、アルコノースは少し離れて羽ばたきながら滞空していた。奇声をあげることもなく、じっと僕を見ているような。


 瞬間、僕の後ろから無数の炎の球が飛び出した。アルコノースの正面へ、真っ直ぐに飛んでいく。後ろを向く余裕は無いけれど、おそらくシエスの魔導だろう。僕を信じて、僕の後ろで魔素を蓄えていてくれたようだ。

 アルコノースは、燃え盛る炎を避けようともしていない。魔導を扱わない神獣であるというなら、魔導を防ぐ手立ては無いはずだ。それなのに微動だにしないのは、奇妙だった。


 そして、炎の魔導は神獣に触れる寸前で、まるで壁か何かに阻まれたかのようにかき消えた。アルコノースの身には火傷ひとつ無い。

 僕は一瞬、茫然としてしまった。何が起きた?アルコノースは魔導を扱えるのだろうか?そもそもあれが魔物でないという保証はどこにもないのだけれど、ルシャの言を疑う気にもなれない。

 アルコノースは炎など無かったかのように、盛んに羽ばたき始めた。また突進してくるつもりだろうか。まずい。すぐに立ち上がらないと。そう思って『力』を意識しかけた時だった。


 アルコノースの目の前で、閃光が弾けた。白い神獣は甲高い声で驚いたように鳴いて、僅かに慌てるような様子で、また上空へと飛び上がっていった。

 あの光は、ナシトの魔導だろうか。いずれにせよ助かった。これで少しは時間が稼げるはずだ。


「ロージャ、大丈夫?」


 後ろからシエスの声が聞こえる。声が不安げに揺れている。顔を見て安心させたいけれど、アルコノースから目を離す余裕も無かった。


「大丈夫。だけどちょっと、身体が痛いかな。盾も歪んでる」


「ロージャ、すごかった。あの鳥も驚いてた」


 僕の無事が分かったからか、シエスの声はいつもの調子に戻っていた。本当は立っているのも辛いけれど、これくらいの痩せ我慢は許してほしい。


「ルシャは今どうしてる?」


「治癒は終わったみたい。こっちに向かってきてる」


 朗報だった。この早さなら、おそらくガエウスも救助し終わっていて、僕が受け止めた魔導師以外に重傷者もいなかったということだろう。

 なら後は少し時間を稼いで、僕らも逃げるだけだ。



「さっきの魔導、効かなかった。どうして?」


 シエスの声は僕ではなくてナシトに向いているようだった。


「奴の体内で魔素の動きは感じなかった。魔導ではないだろう。分からんが、少なくとも直接の魔導は通じない」


「……卑怯」


 シエスがぶうたれていた。相変わらず、いつも自分の調子を崩さない娘だ。

 ナシトにも分からないなら、この戦闘中に解明するのは難しいかもしれない。神獣の力として、ただ事実として受け入れるしかない。厄介だな。考えながら、アルコノースの動向をうかがう。

 アルコノースは上空高くで翼を大きく広げて、円を描くように飛んでいる。退避中であるはずのパーティを追われるとまずいと思っていたけれど、眼はこちらを向いているようなので、注意を引き付けることには成功したようだ。


「やるじゃねえか、ロージャ!お前ももう立派にバケモンだな」


「ロージャ、無事ですかっ」


 横からガエウスのだみ声と、ルシャの焦ったような声が聞こえて、それからすぐに暖かい光に包まれた。

 身体中の痛みが引いていく。ぼやけていた四肢の感覚が戻り始める。ルシャの癒しはいつも暖かくて、戦闘中だというのに気が緩みかけてしまう。


「あのアルコノースを、正面から受け止めるなんて。無理はしないって、言ったじゃないですかっ」


「ごめん。けど無理はしてないさ。防げると思った。想像よりずっと重かったから、軽率だったけれど」


 ルシャに答えながら、立ち上がる。一瞬手元を見ると、盾も歪みが消えて元の形に戻っていた。

 あの白い鳥と同じような大きさのスヴャトゴールを撥ね返したことがあるから、僕は侮っていたのかもしれない。ぶつかってようやく、神獣の格の違いを理解したような気がする。

 受け止められるからといって、力が互角な訳じゃない。向こうは安全なところから風を叩きつけることもできるだろうし、何よりこちらの魔導は何故か効かない。圧倒的な劣勢であることには変わりない。慢心していい状況じゃない。気を引き締め直さないと。

 でも、少なくとも防ぐことはできた。それは自信に変えていいはずだ。


「……もう。貴方が頑固者なのを、忘れていました。命を張るのはせめて、私も傍にいる時にしてください」


 ルシャがそう言うとともに、癒しの光が消えていく。僕は何も言わずにただ頷いて、ルシャに答えた。

 アルコノースを見る。まだ上空にいるけれど、そろそろ奴の視界も元に戻る頃だろう。


「みんな。逃げる前にあと少しだけ時間を稼ぎたい。魔導が効かないなら、僕とルシャで撹乱しつつガエウスが矢で急所を狙うくらいしか思い付かないけれど」


「それもいいけどよ。さっき面白えもんを見つけた。奴の首筋に、何か刺さってるぜ。魔素みてえなもんを感じたが、怪しくねえか」


 ガエウスの言葉に、ナシトが頷く。


「魔具の一種だろう。強引に周囲の魔素を取り込む類の」


「気付いてたのかよ。まあいい。それでもよく分からねえけどな。神獣ってのは、魔素が嫌いなのか?」


「……神獣の中には、魔を憎む者もいると聞いたことがあります。もしかすると、アルコノースが暴れているのはその魔具のためかもしれません。それを除けば、正気に戻るのでは?」


 ルシャはアルコノースに知性があると信じている。あの白い鳥に何かしら思い入れがあるのかもしれない。それとも神獣に、だろうか。ルシャは神と信仰に生きる意味を見出していたのだから、神をその名に冠する神獣にも何か思うところがあっても、おかしくはない。

 アルコノースを見ると、徐々に下降し始めていた。もう時間が無い。


「でも、危険じゃないかな。僕らは、後は時間を稼げればいいのだから――」


「おいロージャ。自分だけ楽しんで、俺には何もさせねえなんて許さねえぞ」


 ガエウスの声は真剣だった。勘弁してくれ。


「ロージャ。慎重に臨むべきなのは分かっていますが……一度だけ、試させてもらえませんか」


 ルシャも珍しくガエウスに同調している。


「あの鳥、可哀想」


 シエスまで。ナシトはその横でただ頷いているけれど、何に頷いているのかはよく分からない。

 アルコノースは体ごとこちらを向いて、向かってきていた。もう考えている暇も無い。なら、僅かな糸口でも賭けてみるしかないか。駄目でも、その時は走って逃げるだけだ。


「分かった。なら、僕が奴の気を引く。ナシトとシエスは僕の後ろに。何とかして僕が奴の動きを止めるから、ルシャとガエウスはその隙に背に回って、魔具を狙って」


 一息に言って、皆の眼を見る。反対は無いようだった。


「よし。行こう。武運を」



 僕がそう言うと、まずルシャとガエウスが消えた。僕らがいるのはだだっ広い平地だから隠れる場所は見当たらない。単に一旦距離を取るつもりのようだ。

 僕も盾を手に、前に出る。


 魔素の動きや首筋の魔具については僕には分からないけれど、気付いたことならある。アルコノースはずっと、魔物か魔導師を狙い続けている。確かに魔を憎んでいるのかもしれない。

 だから二人の前にいれば、その近くにいる僕にも自然と注意が向く。無理して気を引く必要が無いという点だけは、他の魔物より楽だった。


 アルコノースは先程の閃光を警戒しているのか、最初のような突進をしてくる気配は無かった。けれどかなりの速度でこちらに向かってきている。……注意を引くなら、また上に飛ばれて仕切り直しにされると厄介だな。


「ナシト、シエス。魔導でアルコノースが飛ぶのを邪魔できないかな。できればでいいのだけど」


「……やってみる。たぶん風も氷も効かないから、土で攻めてみる」


 土というと、おそらく『大空洞』でナシトが使ったような、土の壁を生み出すような魔導だろう。


「頼んだ。……ナシト、アルコノースが僕に集中したら、気配を消して隠れていて。シエスを頼むよ」


「ああ」


 ナシトの答えを聞いて、僕は『力』を脚に流して、一歩前へ跳んだ。かなり下まで降りてきていたアルコノースの目前に躍り出る。僕に気付いて、アルコノースは甲高い奇声をあげた。

 そしてアルコノースは中空で翼を広げた。ライノブィクの群れを吹き飛ばした、風の爆撃が来る。翼の腹は正面斜め下、僕の方を向いているから、標的は明らかに僕だけのようだ。

 翼が前へ振られ始めた瞬間に、前へ跳ぶ。背で風が弾けるのを感じながら、アルコノースの足下を過ぎる。

 けれど真下に来る頃には、アルコノースは僕の位置を捉えていて、その巨体を素早く空中で翻した。速い。僕の右半身に向けて真っ直ぐに、またしても嘴が迫る。盾を右に向ける。正面から受け止めるつもりはなかった。

 嘴が盾に触れる瞬間、思い切り地を蹴って、後ろに跳ぶ。跳びながら盾で嘴を横から殴りつける。鈍い音がした。

 嘴は躱した。けれど今度は、右から翼の前縁が迫っていた。アルコノースは閉じていた翼をおもむろに広げていた。翼で僕を巻き込むつもりのようだ。僕はすぐに上へ跳んだ。翼の上を跳び越えながら、行き交う瞬間に盾で翼を押す。翼は案の定びくともしない。僕は回転しつつアルコノースの突撃をやり過ごした。

 背の鎚を取る余裕は無かった。速すぎて躱すだけで精一杯だ。


 アルコノースは僕と行き交った後、低い位置で羽ばたきながらこちらを見ている。首を振り回して、また奇声をあげた。やはり魔具が何かしているのだろうか。

 その時だった。


「『天蓋シェレム』っ」


 少し離れたところからシエスの声が聞こえた。途端、地が震えて、四方から地の壁が天へと伸びる。土の壁は勢い良く伸びて、驚くべき速さで丸く壁のような屋根のようなものを僕らの頭上に形成し始めていた。

 シエスは地の壁で、僕らのいるあたり一帯を覆い隠すつもりのようだった。相変わらず、魔導の規模が桁違いだ。すぐにシエスの魔導は完成して、地の壁は僕らをすっぽりと覆った。陽の光までも遮られて、真昼なのに薄暗くなった。

 アルコノースも異変に気付いたのか、構わず土の壁を突き抜けようとして、真横に飛んだ。巨体がぶつかり、壁は僅かに崩れて綻んだ。けれど壁はかなりの強度だったようで、不意をつかれて勢いも無い今はまだ壁を崩しきることができていない。神獣の意識は完全に壁に向いていた。



 意図せぬ形だが、好機だった。

 そこを逃さず、ルシャが駆けた。シエスの生み出した土の壁を蹴り上げるように、壁伝いを駆け上がっている。アルコノースはまだ彼女に気付いていない。上から首筋を狙うつもりのようだ。ルシャに注意がいかないよう、僕も跳んで、神獣に近付いておく。

 アルコノースがこちらを振り返って、また僕を見る。意識を引くために、僕は盾と持ち換えて鎚を手にした。


 その時、ルシャが神獣の真上に来て、壁を強く蹴り、中空へ身を投げ出した。剣を構えながら真っ直ぐに、魔具があるという首の後ろへ落ちていく。ルシャがアルコノースの首に取り付く瞬間。

 神獣は突如、羽を広げてその場で一回転した。羽根がルシャにぶつかる。アルコノースは、気付いていたのか。

 ルシャが吹き飛ばされていく。血の気が引く。


「ルシャっ!」


 翼に弾かれて地に堕ちようとするルシャの元へ跳ぼうとした時だった。ルシャの身体から癒しの光が溢れ出す。


「無事ですっ!アルコノースの動きを止めてくださいっ!」


 ルシャの声に安堵する。すぐに神獣へ向き直る。切り替える。

 奴の動きを止める。そのためにひとつ、思いついていたことがあった。アルコノースが翼を広げて、僅かに屈んだ。地を蹴ろうとしている。僕へ飛ぶために。今だ。


「ナシト!『知覚』の魔導を、僕に!数秒でいい!」


 僕が叫び終えるのとほぼ同時に、アルコノースは僕に向けて飛んだ。僕らが救助したパーティの魔導師を捕まえた時のように、足を前に突き出して、僕に向けて飛んでくる。ナシトは、間に合うだろうか。間に合わなければ、後ろに跳んで逃げる。ぎりぎりまで待つ。

 そして数瞬後、突如時の流れが遅くなったかのように、何もかもがゆっくりと動いて見え始めた。間に合った。これは『知覚』の魔導の効果。僕は数秒で魔素酔いするから多用はできないけれど、ガエウスも良く扱う、戦士の奥の手。


 襲いかかる神獣の足がいつにも増してよく見える。交差の瞬間、僅かに動いて足を脇に躱す。同時に鎚を手から離す。

 そのまま直ぐに地を蹴り直してまた飛び立とうとするアルコノースの脚を、その刹那に両手で掴んだ。

 瞬間、時が元通りの速さでまた動き出した。全身に『力』を込める。後はもう、ただの力比べだ。飛び上がろうとする天の鳥と、引きずり下ろそうとするただの重戦士の力比べ。普通なら勝ち目なんて無いだろう。けれど僕は負ける気なんてこれっぽっちもなかった。僕はもうきっと普通じゃない。


 吼えて、神獣の脚を捻じ切れるほど強く握り締めて、鎚を振るのと同じように地に目がけて振りかぶった。前へ飛び立とうとしていたアルコノースの巨体が、僕に掴まれて一瞬止まり、徐々に後ろに傾き始める。あげる鳴き声は、どこか困惑しているように聞こえた。

 そうして、僕はアルコノースを地に叩きつけた。


 土煙が巻き上がる。この神獣はきっと直ぐに立ち上がるだろう。でもこの隙は、あの男なら十分すぎるはずだ。僕はまたしても感覚の無くなった手をぶらりと下ろしながら、ただ中空へ向けて叫んだ。


「ガエウスっ!頼んだっ!!」


 土煙で僕には何も見えない。けれど獰猛に笑う声だけははっきりと聞こえた。


「おうよっ!邪魔するぜ、鳥野郎っ!」


 土煙の中に、アルコノースが立ち上がる影が見える。そしてその首元に、ガエウスらしき影が捕まっていた。


「大人しく、しやがれっ!」


 奇声をあげながら首を滅茶苦茶に振る神獣と、高笑いする冒険狂い。

 アルコノースは振り払うのを諦めたのか、ついに飛び上がって、羽ばたきながら上空へと高く上がっていった。数瞬後に、頭上で何かが固いものに激突する音がした。おそらくアルコノースがシエスの土壁を突き破った音だろう。



「ガエウスっ!……大丈夫でしょうか」


 ルシャが僕の傍に寄りながら、ガエウスたちが飛び去った方を見上げている。残された僕らの周囲には、これまでの戦闘が嘘のように静かな雰囲気が漂っていた。


「ガエウスなら、振り落とされても大丈夫だと思うよ」


 そう言いつつも、僕自身内心で不安を拭えない。相手は神獣と呼ばれる化物だ。相対しながら結局、最後まで勝てる気はしなかった。傷ひとつ付けられていない。ガエウスといえども、万が一があり得る相手だった。


 そう思っていると、頭上から何かが落ちてきた。地に落ちて、からりと音を立てた。棒状、いや筒状の黒い何か。いつの間に傍に来ていたナシトがそれを拾った。


「……上手くやったようだな」


 ナシトの言葉に合わせたかのように、土煙が晴れていく。少し離れたところにシエスが見えて、その奥で土の壁がするすると縮み、もとの地に戻っていくのが見えた。シエスが魔導を行使しているようだ。

 陽の光が眩しい。露わになった青空を見上げると、遠くに白い点が見える。


 その白い点は穏やかに羽ばたいていて、こちらに近付いてきていた。そこに先程までの狂ったような様子は感じられない。僕らの仮定は、外れてはいなかったようだ。

 まだ遠くてよく見えないけれど、その背には人が乗っているようだった。こちらに手を振っているようにも見えた。

 僕は思わず笑ってしまった。横のルシャを見ると、彼女も安心したように微笑んでいた。また空を見上げる。

 きっとガエウスは、青空の只中で馬鹿笑いしているだろう。戦いの末に大空を駆けるなんて、それこそまさしく彼の大好きな、大冒険だろうから。

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