第75話 神獣

 アルコノースと呼ばれた鳥がひとつ羽ばたいて、僅かに速度を落とした。

 まだ遠いのに様子が良く見えるのは、それだけ図体が大きいということだろう。おそらくは、伝承の巨人スヴャトゴールと同じか、それ以上。


 その白く巨大な鳥は不思議な雰囲気を纏っていた。姿形は間違いなく鳥のそれなのに、鷲のように雄々しい力強さと隼のように鋭い凛々しさが混じり合っていて、神々しささえ感じてしまう。

 けれど叫びあげる声は擦り切れていて、明らかに怒り狂っている。神聖にすら見える容貌とはそぐわない、痛々しい声だった。


「奇妙だな」


 ナシトの声で我に返る。

 見入っている場合じゃない。こうしている間にも奴は近付いてきている。どう対応するのか一刻も早く決めないと。そう思いつつ、ナシトを振り返る。


「あの鳥。纏う魔素がおかしい」


 ナシトの放った言葉の意味が一瞬よく分からなかった。魔素がおかしいと言われても、そもそも感じられすらしない僕にはピンと来ない。

 どう尋ねたものかと一瞬逡巡していると、僕の横でルシャが一歩、ナシトに近付いた。


「……あれがアルコノースであるなら、魔素を取り込むことはないはずです。アルコノースは魔物ではないと言われていますから」


 ルシャの言葉に僕はいっそう混乱してしまった。


「あれだけ大きいのに、魔物ではないの?」


「ええ。アルコノースは、魔素がこの世界に満ちる前からこの世界に在ったとされる、天に棲まう神獣です。帝国のお伽噺に僅かに記載が残るだけの、既に忘れ去られた存在ですが。……昔、飛ぶ姿を見たことがあります。今の今まで、目の錯覚と思っていたのですが」


 神獣。聞いたことはある。神話や伝承は魔物の記載も多く含むから僕自身それなりに読み調べていた。でも僕は単に、神獣も太古の魔物の一種くらいに思っていた。けれど、ルシャの言う通りあの白い鳥がアルコノースで、そのアルコノースが魔物でなく神獣だとするのなら。あの鳥は魔導に頼ることもなくただ自力で、あんな速度で飛んでいるというのだろうか。にわかには信じられなかった。


「おい。おしゃべりもいいが、あのパーティ、危ねえぞ」


 ガエウスの声にまた、白い鳥の方を振り返る。

 アルコノースは徐々に高度を落としていく。ライノブィクの群れを狙っているのか、それともその近くにいるパーティに襲いかかるつもりなのか。

 まだ少し距離があるから、彼らがどんなパーティなのかまでは分からない。けれど僕には、上空に縮尺のおかしな白い鳥が現れて、彼らは動揺しているように見えた。


「どうすんだ、ロージャ。俺は魔物でも神獣でもなんでもいいぜ。面白そうじゃねえか」


 そう言ってガエウスは笑った。その単純さと強さが今は羨ましい。

 もう一刻の猶予も無い。状況を何ひとつ理解しきれていないけれど、僕は判断しなきゃいけない。


 僕らのパーティのことだけを考えるなら、今逃げるのが最善だ。

 あのパーティは予期せぬ窮地に追い込まれているのだから、救援に駆け付けたいという思いは勿論ある。でも僕らは冒険者だ。善意だけで生きていけるほど易しい世界ではない。僕は見知らぬ誰かと大切な仲間なら、迷わず仲間を優先する。

 あの鳥が魔物なのか神獣なのかはまだ分からないものの、攻め手の分からない相手と命を懸けて相対して、仲間を危険に晒すのは極力避けたい。幸い、アルコノースの意識はまだ僕らには向いていないようで、この場から安全に離脱することは十分可能だろう。ガエウスは怒るだろうけど、皆を守るのが僕の一番大切な役目だ。


 けれど。もしあのパーティがこちらに気付いていたら。僕らが逃げた後にあのパーティが生還して、僕らが彼らを見捨てて逃げたことが明らかになったら。僕らの帝都での活動は今後大きく制限されてしまうだろう。冒険者稼業において、周囲からの信頼が何か役に立つかと言われれば疑問だけれど、信頼が無いことで生じる厄介事は山ほど思い付ける。帝国で時間を浪費すればその分『果て』が遠のいて、シエスの命が削れていくかもしれない。それは避けたい。


 それに、これは僕の慢心かもしれないけれど。

 相手がたとえ神獣と呼ばれる神の如き存在だったとしても、僕らなら乗り越えられる気がしている。僕ひとりなら絶対に無理でも、僕には心も預けきった仲間がいる。

『果て』を目指すのであれば、これくらいの冒険で逃げる訳にはいかない。そう思ってしまうのは、ガエウスの影響だろうか。僕も冒険に取り憑かれ始めているのだろうか。



 考えた末に、口を開く。


「……救援に向かおう。けど討伐でなく撃退、もしくは彼らの撤退までの時間稼ぎだけだ。いいかな」


 僕の答えを聞いて、ガエウスはただ歯を剥き出しにして、荒々しく笑った。シエスも僕を見上げていつものようにこくりと頷いてくれた。ナシトは何も言わず、僕の後ろにいる。反対の時はナシトも発言するから、これもいつも通りだ。

 ただルシャだけが、思いつめた顔をしていた。


「あれがアルコノースであるなら。アルコノースは知性があり温厚であるはずなのです。けれど今の姿は、魔物と何も変わらない」


 確かに、途切れ途切れに聞こえる鳴き声からは理性など感じられない。何かに苦しんでいるのか、怒っているのか、それとも狂気に呑まれているのか。


「何か、嫌な予感がします。どうか、無理はしないで」


 ルシャの声は少しだけ弱々しかった。


「ああ。無理はしない。危なくなったらすぐに逃げる。それくらいなら、できると思ってる」


「……信じます」


「ああ。信じて。何があっても、僕が守るよ」


「無理は、駄目ですよ。……行きましょう」


 ルシャの声に頷いて、僕は前に駆け出した。もう時間が無い。アルコノースはもう、ライノブィクの群れと見知らぬパーティに近付いていて、ぎらつく眼で彼らを見据えていた。




『力』を脚に込めて、全速力で跳ぶ。目の端で草原の青と雲海の白が後ろに流れていく。僕だけでも先行しようと思っていたけれど、ガエウスだけは難無く僕の横を並走していた。他の皆は、僕ら二人の少し後ろを駆けている。アルコノースとの距離は詰まっているけれど、まだ遠い。

 前を見ると、アルコノースが中空に留まりつつ、翼をいっぱいに広げるのが見えた。見据える先は、ライノブィクの群れ。狙いはあのパーティではないのかと思って、少しだけ安堵しかけた、その瞬間だった。


 アルコノースが羽ばたいて、翼の前の空気が爆ぜたかのように、爆音が轟いた。

 風の奔流がライノブィクの群れを襲って、巨体であるはずの牛の魔物たちがいとも簡単に、四方へと吹き飛ばされていくのが見える。百体はいたはずの牛の群れが、一瞬で散り散りになっていた。

 それから一拍遅れて僕らの元にまで衝撃が届く。豪風が顔を叩いて、思わず腕で顔の前を覆ってしまう。すごい風だ。後ろのシエスが吹き飛ばされないか少し心配になったけれど、ナシトも傍にいるし大丈夫だろう。


 衝撃波が過ぎた後も、空気はしばらく震えていた。

 圧倒的すぎる。あれが魔導でなくただの羽ばたきだというなら、あの鳥は生物として想像もつかないほどの遥かな高みにいる。神獣という大仰な呼称も頷けるほどの強さだった。けれど、走る脚は止めない。


 アルコノースは僕らの前方でついに地に降り立ち、首を振り回しながら奇声をあげ続けていた。ライノブィクはもういないのに、まだ何かに怒り狂っている。

 鳥の近くに、あのパーティは見当たらない。牛の魔物と同様、風に巻き込まれて散り散りになってしまったのだろうか。

 アルコノースが奇声を止めた。その目は一点を見つめている。そこにはパーティの魔導師らしき小柄な影がうずくまっていた。先程の衝撃で気を失っているようだった。まずい。まだ距離がある。


 白い鳥がまたも飛び上がる。けれど上には上がらず、地面すれすれを飛びながら足を前に突き出して、魔導師を掴む。捕まえた途端飛ぶ方向を真上に変えて、一瞬で遥か上空まで飛んでいった。


 そして、上空で止まったアルコノースの足が、開かれた。魔導師は気を失ったままぴくりともしていない。ただ真っ直ぐに真下へと墜ちていく。

 鳥肌が立った。あのまま地面に墜ちれば間違いなく助からない。そう思った時には、僕はただ『力』だけを念じて、走る速度をもう一段上げていた。


 アルコノースからも目を離して、ただ墜ちてくる魔導師だけを見つめた。間に合わせる。それだけを一心に思って、全力を超えて駆けた。

 そして僕が一瞬早く、魔導師と地面との間に入る。受け止める瞬間に全身へ『力』を込めた。間に合った。


 瞬間、腕に鈍器で殴られたかのような衝撃が走る。衝撃はすぐに全身に回った。けれど耐えられないほどではない。ひたすらに耐える。

『力』のおかげで僕はなんともないけれど、きっとこの魔導師は全身の骨がぐちゃぐちゃになっているはずだ。体格からして、女の子かもしれない。このままでは長くはもたないだろう。

 衝撃を受け止めきった後、僕はすぐに叫んだ。


「ルシャっ!この子を、頼む!」


 叫びながら、近付いてきていたルシャの方へ跳ぶ。


「はいっ」


 魔導師をそっと地に下ろす。ルシャはすぐに魔導師の横で膝をついて、『癒し』を行使し始めてくれた。一瞬見ただけだけれど、魔導師の子は僕がスヴャトゴールにやられた時と似たような状態に見えたから、ルシャならきっと間に合わせてくれるだろう。


 すぐに思考を切り替える。アルコノースはまだ上空にいた。耳障りな奇声をあげながら、上からこちらをじっと見ている。


「ガエウスっ、あのパーティの人たちを探して、ルシャのところへ!」


「くそっ、しゃあねえな!俺が戻るまで仕留めんじゃねえぞ!」


 恨み言を言いながら、ガエウスはすぐに消えた。アルコノースと相対したいだろうけど、消えかけの気配を探って迅速に救助する役はどう考えてもガエウスが適任だった。



 そしてすぐ、空を見上げた。アルコノースはまだ上空にいるけれど、体勢が変わっていた。頭を下向きにして、羽を広げている。その眼は僕ではなく、ナシトとシエスのいるあたりを睨み見ている。全身に寒気が走った。来る。


「展開っ」


 鎧と盾を発現させながら、跳んだ。シエスの前で強引に立ち止まって、上ではなく前に向けて盾を構える。

 上からはアルコノースの気配がかき消えていた。気配は、もう正面にある。速すぎて目で追えない。アルコノースは羽を折り畳んで、音すら置き去りにするような速さで急降下した後、地を這うように真っ直ぐ僕らへ突っ込んできていた。風を強引に突き抜けながら、鋭い嘴が迫る。僕らを見据えるその眼は確かに濁っていて、正気ではないように見えた。


 きっとスヴャトゴールの一振りより重いだろう。人が耐えられる衝撃ではないのかもしれない。だけど、受け止めてみせる。僕は全て守ると決めた。自分と仲間にそう誓った。

 だから神獣だろうとなんだろうと、邪魔をするなら乗り越えていく。僕から何ひとつ奪わせやしない。



 ただそれだけを思いながら、盾と嘴とがぶつかる刹那、僕は言葉にならない何かを叫んでいた。

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