第74話 雲の上
「これは……すごいな。大きいだろうなとは思っていたけれど、想像以上だ」
思わずつぶやいてしまう。
僕の目の前には、文字通りの断崖絶壁。帝国に来てまだ数日なのに既に見飽きてしまった平坦な草原の中に、神が手違いで作ってしまったかのような脈絡の無さで、一箇所だけ突き出した大地の塊。あまりにも高くそびえているせいで、その頂上は雲の向こうにあって、僕らのいる低地からでは見えなかった。……船と呼ぶには雄大すぎる気もする。
これを登るのか。その困難さを思うと、少しだけうんざりしてしまう。けれど、これだけ大きいならきっと、雲の上の景色は格別だろう。それが楽しみだから気力は萎えなかった。
僕らは今、依頼対象である牛の魔物の討伐のために帝国のダンジョンであるライナの舟を訪れていた。依頼を受けた後、棲息する魔物について調べつついつも通り武具の調整をして、それから出発してまた数日、ひたすらだだっ広い平原を歩いた。
ライナの舟の麓まで、道中シエスが退屈してしまうかなと少し心配していたけれど、彼女は歩きつつナシトから魔導の講義を受けていた。ナシトは相当に厳しいようで、シエスには退屈する余裕も無かったようだ。休憩時には、僕からすれば違いの分からない魔導陣をいくつも地に描いて、間違いをナシトから指摘されて首をかしげていた。
「……?これは忌避の魔導で、ここにこう、線を足すと、守護の魔導になる」
「そうだ」
「……どうして、私のは発動しなかったの?」
「考えてみろ」
ナシトは教えるというか、分かるまで試行錯誤させて悟らせるという指導方針のようだ。彼の性格的に単純に説明するのが面倒だから、という可能性もあるものの、シエスはふてくされる訳でもなく真剣に考えているから、二人の性格に合ったやり方だと思う。
「……線の角度が、違う?」
「そうだ。魔導陣は持続に優れた発現形式だが、ほんの僅かにでも歪めば発現しない。全く異なる魔導が生じることもある。戦闘時に扱う時は、細心の注意を払え」
「……ん」
「お前はあまり、絵心が無いな。魔導陣はあまりおすすめしな――」
「うるさい」
真剣な雰囲気だったのに、ナシトが余計な一言を言って、シエスがじとっと彼を睨むように見つめた。ナシトは怯むことなくシエスを見て、いつも通りにたりと不気味に笑っている。嘲笑っているのか誤魔化し笑いなのか、相変わらず分からなかった。
二人の掛け合いが微笑ましくて、僕も彼らを眺めながら笑っていたら、シエスがそれに気付いてずんずんと駆け寄ってきて、絵心があることを証明しようと色々と地に描き始めて大変だった。……僕から見てもやっぱりシエスは絵が下手だったけれど、それは言わないでおいた。
そんな麓までの道のりと違って、ライナの舟を登り始めてからは過酷だった。
ダンジョンとしてのライナの舟は頂上に着いてからで、登りきるまではただの登山みたいなものなのだけれど、断崖絶壁を削って無理矢理作ったような細い登山道をひたすらに登っていくのは骨が折れた。
道と言っても、人ひとりが通れる程度の足場が細く続いているだけで、地崩れなどで道が途切れていることも多く、そこには腐りかけた木の板が気休め程度に置かれているだけだった。勿論横を見ればいくらでも真下が見えて、一歩でも踏み誤れば終わりだ。眼下には平原が地の果てまでも続いていて、たぶん壮大な景色なんだろう。でも残念ながら落ち着いて周りを見ていられる状況ではなかった。
「なかなか良いスリルじゃねえか。落ちんなよ、嬢ちゃん」
先頭を行くガエウスからはしゃいだ声が聞こえる。危ない時ほどこの男は楽しそうに笑う。
「ん。落ちても、ロージャが助けてくれる」
シエスは僕の前でてくてくと歩いている。シエスも危険を前にして怖気づかないのは、生来の性格なんだろうか、それともガエウスあたりの影響なんだろうか。
念のため、シエスと僕、僕とルシャは事前に準備しておいたロープで互いを結び付けている。本当は五人全員で結ぼうと思っていたのに、ガエウスとナシトが嫌がったので三人だけになった。まあ、彼らは落ちても勝手に登ってこれそうだからいいのだけど。
ロープは頑丈なものを選んだ。シエスとルシャが二人同時に落ちても持ちこたえられる自信はあるから、それは別に心配していない。僕が恐れているのは、僕自身が足を滑らせて落ちてしまうことだ。僕が落ちたらシエスもルシャも道連れにしてしまう。それが恐くて、僕はいつも以上に気を張ってしまっていた。
だから前を歩く二人の雑談にも混じれず、ただ足元を良く見て一歩一歩慎重に歩いていると、後ろからぽんと、肩に手が置かれた。けれど後ろを振り向けない。
「ロージャ。その。もしロージャが落ちても、私が支えますから」
優しい声が聞こえた。ルシャには僕の心配も筒抜けだったようだ。慎重に肩越しに後ろを向いて、答えた。
「いや、でも僕は見ての通り、重いからさ」
「ふふ。私だって魔導を使えば、ロージャくらい片手で持ち上げられますよ?」
確かにルシャの言う通りなのだけど。ルシャは胴も腕も細くて、ルシャに引っ張り上げられる自分をどうしても想像できなかった。
「……信じていませんね?なら――」
そう言うとルシャはおもむろに僕の胴に抱きついてきた。なんだろうと思っていると、気が付くと僕の足は地面から離れて、浮いていた。ルシャが僕を後ろから抱きかかえているようだった。
僕を抱いたまま、ルシャが笑う。
「ほら。だからロージャ、安心して歩いてください。歩き方がぎくしゃくしていて、こちらが心配になってしまいますから」
「……ありがとう、ルシャ。分かったよ。分かったから、もう下ろして」
誰かに抱きかかえられたのなんて、いつぶりだろう。僕は照れくさくなって声が少し上擦ってしまっていた。
ルシャはまた楽しそうに笑って、僕を下ろした。けれど下ろした後もしばらく、彼女は僕の背に抱きついたままだった。
「……あの、ルシャ?」
「……」
どうしてかルシャは何も言わない。じっと僕に抱きついて、身体を擦り付けているような。先程までの楽しそうな様子が、少し真剣なものに変わっていた。そういえば、ルシャは最近、僕に触れたがっている気がする。それは恋人として、というのもあるだろうけど、その真剣な雰囲気が気になった。どうしてだろう?
そんな考えとは裏腹に、今は僕もルシャも鎧をしていないから、ルシャの身体の凹凸を背中に感じてしまって、僕は鼓動が速くなっていくのを抑えることができなかった。ルシャが何かに悩んでいるかもしれないのに、僕の頭は恐ろしく単純で嫌になる。
「ロージャ、私も」
ルシャの様子を気にしていると、前からシエスも抱きついてきて、何だかよくわからないことになっていた。これじゃあロープで結んだ意味が無い。
「おいお前ら、冒険中にいちゃいちゃすんじゃねえよっ!サクサク歩けっ!今日中に野営地点まで行けねえぞ!」
前から流石に怒ったようなガエウスの声が聞こえて、僕はなんとか二人から解放された。振り向いてルシャを見ると、いつも通りの穏やかな様子で僕に笑いかけてくれた。表情に影は無い。
けれど、何かが僕の胸の中で引っかかっていた。ダンジョンから戻ったら、ルシャに聞いてみよう。恋人の違和感からは、もう目を逸らしたくなかった。
それから、雲の中を抜け、断崖の窪みのようなところで夜を越すという経験もしつつ、僕らはようやくライナの舟の頂上まで辿り着いた。
頂上の景色は圧巻だった。草原の緑と空の青に加えて、崖の下には白い雲がこれも平原のように広がっている。雲の上の大地。なんだか別の世界に来てしまったかのようだった。
頂上は低地の平原と似て平坦で、けれどどうしてか低地よりも木々も多く見えた。低地より雨が多かったりするのだろうか。そんなことを考えていると、少し遠くの方で黒い塊が蠢いているのが見えた。
「あれがライノブィクじゃねえか?黒い牛、だろ?探す手間が省けたな」
ガエウスが目を細めながら、僕と同じ方を見ていた。頷いて、答える。
「おそらくね。彼らは群れになって動くと聞いた。けれどあれだけ多いと、少し厄介だな」
群れるとは聞いていたけれど、あの群れには優に百以上のライノブィクがいるように見える。魔導都市近くの『大空洞』に満ちていた蜥蜴と蝙蝠と比べれば少なく見えるけれど、あの牛は纏まって行動するから、正面から一体ずつ潰していくというのは骨が折れそうだ。僕やガエウス、ルシャで群れを誘導して、シエスとナシトの魔導ですり潰すのが最も効率的だろうか。
そう思って、皆と相談しようと声をかけようとした時だった。
「ロージャ、あそこを見てください。他のパーティがいるようです」
ルシャがライノブィクの群れの近くを指差す。良く見ると、僕らの見つけた群れは既に別のパーティが交戦中のようだった。牛たちが波打つように慌ただしく駆け始めるのが見えた。パーティは群れをおびき寄せて、たった今攻撃を仕掛けたのかもしれない。
狙う獲物は同じでも共同で依頼を受けた訳ではないから、同じ群れ目がけて乱入していくのは掟破りだろう。そういった類の規則はないものの、今回の依頼は数の増えた魔物を減らすことで、他の群れを見つけ出せばいいだけだ。他のパーティから余計な反感を買う理由も無い。
「あそこは彼らの狩り場みたいだ。残念だけど、別の群れを探すしかないな」
「けっ。こういう『不運』は別に要らねえんだがな。まあいい。まずはどこを探すんだ?」
ガエウスはそう言ってライノブィクの群れから目を離し、別の方角を眺め始めた。
ライナの舟は広い。どこから手を付けていこうか。そう思って僕もガエウスとは別の方を向いて、遠くを眺めようとして。
その瞬間、ガエウスの気配が一瞬で剣呑になるのを感じた。思わず振り返る。ガエウスは真剣な眼をして、また先程の、ライノブィクの群れと別のパーティが交戦しているあたりを見据えていた。
「なんだ、ありゃあ」
ガエウスの声は弾んでいた。目つきは鋭く、口元は獰猛に笑っている。
僕もガエウスが凝視している方を見た。何も見えないけれど、遠く空の上に、空の青に混じって白い何かが見えた気がした。
「あれは……まさか。実在していたのですか」
ルシャが眼を見開いていた。
僕にも見え始めた。遠くに見えた小さな白い点は驚くべき速さで大きくなっていた。こちらに近付いている。白い羽を広げてこちらへ翔ぶ、巨大な鳥。
あんな大きさの鳥は、見たことがない。あれは、魔物なのだろうか?ライナの舟に棲む魔物についてはある程度調べたつもりだったけれど、白い鳥についての記載は無かったはずだ。
「……アルコノース。天の鳥」
茫然と、ルシャがつぶやく。
その声に応じるかのように、その天の鳥は狂ったように、甲高い鳴き声を上げた。僕らからはまだ離れているはずなのに、圧するような気配がもう此処まで届いていた。
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