第72話 旅路
それから数日が経って、僕らは帝国の端に位置する港に辿り着いた。
魔物が襲ってきたあの日以降は特に面倒事が起きることもなく、シエスにとってはこの上なく幸運なことに時化とぶつかることもなく、僕らは無事に航海を終えることができた。
シエスも最後の方は幾分か船の揺れに慣れたようで、一緒に甲板の上を歩いたり、釣りをするナシトの横でぼんやりと海を眺めたりしていた。けれど海には少し苦手意識を持ってしまったようで、港で船を降りて久しぶりに地に足を下ろした時は、いつもの無表情が崩れて明らかにホッとしたような顔をしていた。次に船に乗る時には、酔いが少しは軽くなると良いのだけれど。
港を離れて、僕らはまず帝都を目指すことにした。僕らの旅の目的は、『果て』を見つけ出すことだ。けれどどこに『果て』があるのかは誰も知らない。だから効果のほどは分からないものの、とりあえずはいつも通り情報収集から始めるべきだろう。帝国では僕らの知らない『果て』についての伝承があるかもしれない。単なる噂でも何でも、まずはかき集めてみるつもりだ。
幸い、帝国の都は港から数日の距離にあって、さほど遠くない。帝都に拠点を置いて街で色々と情報を集めつつ、怪しいと感じたダンジョンがあれば探索を始めていく、という方針だった。
港を出て、五人で南東に歩き出す。帝都までは整備された街道が続いている。道の脇には魔物除けの魔導灯も置かれていて、魔物に襲われることもまずないだろう。
道幅はそれなりにあるから港で馬車を借りることもできたけれど、歩いても数日の距離だ。手持ちのお金は少ない訳ではないものの、まだまだ終わりの見えない旅だから、節約するに越したことはない。それに、長いこと酔っていたシエスにはできるだけ新鮮な空気を吸ってほしかった。
前を行くシエスははきはきと歩いている。すっかり元気になったようで、安心する。
街道は少し前から林道になっていて、木々に陽の光が遮られて少しだけ肌寒い。シエスの方を見ると、シエスのいる辺りで林が終わっていて、街道がまた開けているようだった。
「ロージャ、見て。何もない」
一足先に林道を抜けたシエスが振り返って、呼びかける。少し驚いたような声色だった。僕も少しだけ歩調を早める。
林を抜けると、目の前に平原が広がった。見渡す限り一面の緑で、快晴の青空と良く映えて、ただただ広大だった。シエスの横で思わず見入ってしまう。本当に、何もない。
陽は暖かくて風も優しく、陽に暖められた草の匂いも心地良い。なんだか、寝転がって昼寝でもしたくなってきたな。
「……なんだか、故郷を思い出しますね」
遅れて僕の横に並んだルシャが、ぽつりとつぶやく。見ると、辛そうではないけれど僅かに切なそうな眼で、目の前の草原を眺めていた。
「ルシャの住んでいたところも、こんな風だった?」
「そうですね。というより、帝国は本当に広くて、そのほとんどが平地なので、街の外に出ると畑か、こうした草原ばかりですよ」
言われてみると、こちらの大陸に来てからあまり山を見ていないような気がする。僕は山の麓と言ってもいい村に長いこと住んでいたから、ただ限りなく広がる平原というのは殊更壮大なものに見えてしまうのかもしれない。
そんなことを思っていると、立ち止まった僕ら三人の横を、ガエウスとナシトが通り過ぎていった。
「早く行こうぜ。こんなの、帝都に着くまで嫌というほど見れんだからよ」
ガエウスはひどくつまらなそうにそう言い捨てて、前へと歩いて行く。見るからに退屈そうで、戦闘中の覇気など欠片も感じられない。こうして見ると、ガエウスも歳相応にくたびれたおっさんに見えるのだけれど。
けれど彼の言うことも正しい。早く帝都まで行こう。
そう思って、シエスの肩に手を置いて促す。彼女はちらと僕を見て、すぐに歩き始めた。一瞬だけ見えたシエスの眼はいつもより僅かに大きめに見開かれていて、僕はそれを見て嬉しくなった。彼女は出会った頃と変わらず、初めての景色を楽しんでいる。
望んで始めた旅ではないけれど、この旅がシエスにとって大切なものになればいいなと思う。生きる意味なんてもう考える暇もないほど充実した旅になれば。
「おい、シエス。ヒマでしゃあねえから、魔素ばら撒いて魔物でも呼んでくれねえか」
「やだ」
「魔導の練習、もっとしたいんだろ?ここなら思う存分ぶちかませるぜ。今なら俺たち以外に誰もいねえ。文句なんて言われねえさ。ほら」
「……ロージャ。……いい?」
「駄目だよ。早く行こうと言ったのはガエウスじゃないか」
ガエウスにころっと誘惑されたシエスが、立ち止まってこちらを振り返っていた。すれ違いざまに頭を撫でて、取り合わずにそのまま前へ歩く。後ろからはガエウスがぎゃあぎゃあとわめく声が聞こえる。いつもの旅路だ。
帝都はまだ見えない。けれど遠くはない。じきに見えてくるだろう。
それから、ちらほらと人里を見かける以外は景色がいっこうに変わらないこの平原で何回かの夜を過ごした後、僕らはようやく帝都らしき影が遠くに見えるところまで来ていた。
「ようやく、ですね。ずっと同じ景色というのは流石に気が滅入ります」
朝、帝都を遠くに眺めながら言うルシャは、確かに少しげんなりとしていた。
「確かにね。まあ、この分なら今日中には着けるかな。僕もそろそろ、宿で思い切り水を浴びたいよ」
寝床を片付けながら答える僕の声も少し疲れているに違いない。壮大な景色も、慣れてしまうとただ厄介なものに成り果ててしまっていた。今日中に着かないと、そろそろガエウスあたりが退屈さに暴走してしまうかもしれない。
そう思ってひとり苦笑しつつ出発の準備を終えて、朝食を終えたのにまだ眠そうなシエスに声をかけて、歩き出そうとした、その時だった。
「誰か来る」
知らぬ間に僕の後ろに立っていたナシトがぼそりと、けれど全員に聞こえる大きさで声を発した。
「魔素を感じる。魔具の類か――」
「……四人、か?賊っぽくはねえな。どうせ帝都からの冒険者ってとこだろ」
すぐにナシトが魔素を、ガエウスが気配を探っていた。僕にはまだ何も感じられないけれど、二人が言うなら本当だろう。念のため、ガエウスに尋ねておく。
「敵意は」
「それっぽいのは感じねえな。俺たち狙いじゃなさそうだ。つまらねえ」
「なら、彼らを待たなくてもいいだろう。変に警戒されるのも嫌だしね。道を開けつつ、僕らも出発しよう」
それだけ言って、僕は帝都に続く街道を歩き出した。けれどこれも念のため、シエスの傍に寄っておく。ないとは思うけれど、近付いてくるのが万が一盗賊だったりしたら、まず狙われるのはシエスだろう。考えすぎだとしても、備えておくくらいは当然だ。冒険者としてはまだまだ未熟なシエスには、しばらく過保護になるくらいで丁度良いはずだ。
そう言い訳じみたことを考えつつ、シエスの傍に寄ってから背のあたりに感じるルシャの視線を努めて意識しないようにした。いや、ルシャのことが大切じゃないとかそういうことではないんだ。ルシャは急に攻撃されたってひとりで対応できるから、ルシャの強さを信頼してるだけだ。ルシャだってそのことは良く分かってるだろうに。
でも、理屈と感情が別だということは僕も良く分かっている。……後できちんと言い訳を話して、許してもらわないとな。
前から冒険者らしき人影が近付いてくるのが見えた。大切な二人のことを考えて緩みかけた意識を引き締め直す。
ただ歩くにしてはやけに早足に感じるけれど、ガエウスの言う通り、近付いてくる一団から敵意や殺意といった類のものは感じない。けれど一流の暗殺者はそんなものを相手に気取らせはしない。僕は鎧も盾も発現させていないけれど、手斧には手をかけている。
冒険者らしき一団は僕らの前で歩みを止める様子はない。すれ違い際にも何も起きず、そのまま何事もなく行き違うだけかと思った、その時。
「……貴方」
一団の最後尾にいた一人が急に立ち止まって、僕を見ていた。つられて他の三人も止まる。声をかけてきた相手はフードをしていて顔は見えないけれど、その声には憶えがあった。
少しだけ鼓動が速くなる。乗り越えたと思っているのに、僕は自分の小心までは克服できていないようだった。
「貴方、どうして帝国にいるのです」
鈴の鳴るような高い声で、けれど僕には快く聞こえない。出会い方が悪すぎた。
「……僕らも冒険者だ。どこに行こうと自由でしょう」
「……相変わらず、折りの悪い男ね」
そう言いながら、苛立ちを隠そうともせずに荒くフードを除けて、長い耳と眩い金の髪を露わにしながら、聖都で出会ったエルフの女性が僕を睨みつけた。
「おめえ、確か聖都でユーリといた――」
「何事かと思ったら。こんなところでまた会うとはね。確か、ユーリの幼馴染くん、だったよね」
ガエウスの声を遮るように、別の方からも声がした。見ると背の低い女性が、エルフの子と同じようにフードを取って、僕の方へ歩いて来ていた。彼女は確か、ユーリが僕らといた頃から『蒼の旅団』にいる、帝国出身の女の子。
思わぬ再会に一瞬止まった僕の代わりに、微塵も動じていないガエウスが口を開いた。
「んだァ?おめえらもこっち来てたのか」
「ああ、ガエウスさん。久しぶり、でもないか。ソルディグはまだ来てないよ。王都でやることあってね。私とルルの二人で先に来てるって感じかな。土地勘あるしね。ユーリが二人きりなのが少し妬けちゃうけれど――」
「ナタ。これ以上お喋りは必要ないでしょう。先に向かいましょう」
「……そのお喋りを始めたのはキミじゃないか。まあ、いいけどさ」
ナタと呼ばれた娘は軽い調子を崩さない。笑い方にはどこかガエウスと似た、嘲るような皮肉るような色があった。
ルルと呼ばれたエルフの娘はもうこちらを向いておらず、視線を街道の先、僕らの歩いてきた方に据えている。意地でもこちらを見ないようにしているかのような、おかしな態度だった。
他の二人は、『蒼の旅団』の団員だろうか。二人がソルディグでもユーリでもなくて、僕はそのことに奇妙な気持ちが湧き上がるのを感じていた。会わずに済んで安心するような、二度と会いたくないような、けれどどこかで再会を望んでいるような。
「うちのお姫さまがご機嫌斜めのようだから、引き止めておいてなんだけど、これで失礼するよ。……ああ、そうだ、幼馴染くん」
ナタが不意に僕に近付いて、見上げた。僕らの間にはかなりの身長差がある。それなのに、僕が下を向いた瞬間、彼女の全身から威圧するような気配が漏れて、僕はシエスと同じくらいに小さいはずのナタをただ小さいとは思えなくなっていた。
「ユーリはもう、大丈夫さ。だからもう彼女には近付かないでおくれよ?」
ナタの声は、朗らかな表情とは裏腹に少し冷たかった。けれど僕は彼女の言葉の意味とその声音より、それを聞いても凪いだままでいる自分の胸の内に驚いていた。
驚きながら、ただ思っていることをそのままに伝える。
「ああ。僕はもう、やるべきことを見つけた。ユーリも前を向いているなら、それでいいさ」
「……へえ」
ナタはひとつ笑うと、そのままルルと呼ばれた娘の元に戻っていった。
「帝国にいるなら、また近い内に会うかもね。その時まで、またね」
それだけ言って、『蒼の旅団』の四人はそのまま遠ざかっていった。
「なんとも身勝手な連中だったな」
遠ざかる彼らの背を眺めながら、ガエウスがつぶやいた。どの口で言うかと思いつつ、僕らも歩き出そうと、皆に声をかけようとした時。
後ろから腕をきゅっと握られて、振り向くとルシャが少し不安そうな顔をして、僕の眼を覗き込んでいた。もしかして、さっきのことを心配してくれているのだろうか。
僕は笑った。
ルシャは優しいから痩せ我慢と思うかもしれないけれど、本当にもう大丈夫なんだと伝わるように。
「ありがとう、ルシャ。大丈夫だよ。もう、少しも辛くならなかったから」
あの時、ナタと呼ばれた娘の強い言葉に怯まなかった。それだけで、僕の中にもう揺るがぬものがあることが分かった。僕にはそのことが、言葉にならないほど嬉しかった。
「ん。ロージャはもう、大丈夫」
シエスは僕の横に並んで、普段通りでいる。シエスは僕のことを信じすぎで、何につけても過大評価だと思うけれど、今はその信頼が有り難かった。
ルシャは僕の言葉を信じてくれて、表情を和らげて笑ってくれたけれど、なぜかそのまま自分の両腕を僕の腕に絡めて、それからの道中、頑なに離してくれなかった。
歩きながら頬を僕の腕につけて、ぼんやりと前を眺めるルシャはいつになく可愛らしくて、僕は何も言えなかった。今度はシエスが隣で無言のまま頬を膨らませ始めたけれど、それはまあ、後でなんとかしよう。
帝都はもう、目の前だった。
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