第71話 帝国
部屋の中は、静寂に包まれている。
寝込んでいるシエスに呼ばれて、それから僕はルシャと一緒にシエスの傍にいた。もう数時間が経っただろうか。
ルシャは定期的にシエスを癒しているけれど、僕は本当にただ居るだけだ。シエス曰く、僕が傍にいた方が気持ち悪さが薄れるらしい。新鮮な空気を吸った方が酔いにも良いかと思ってシエスを外に連れ出そうともしたけれど、シエスは嫌がった。乗り物に酔うこと自体が初めてなせいで、どうも本能的に、初めて見た海そのもののせいで気持ち悪くなっていると思っているらしい。これでシエスが海嫌いにならなければいいのだけれど。
シエスは寝台に横になって目を閉じているけれど、眠ってはいないだろう。その証拠に、時々苦々しげに唸りつつ、腕が毛布の下から伸び出ていて、隣に座る僕の服の裾をしっかりと掴んでいた。別に、逃げたりなんてしないのに。目覚めた時に僕が近くにいなかったことが、よほど不安だったのだろう。しっかり者のシエスも、身体が弱ると流石に弱気になるみたいだった。
ルシャはシエスの酔いを治癒する時以外は僕の横に腰掛けて、僕の肩に頭をのせて、何をするでもなくまったりとしている。暇じゃないかと尋ねたけれど、ルシャは首を振りつつ僕の手を少し強く握って、ただ静かに笑うだけだった。傍にいたいと思ってくれていて、傍にいるだけで幸せだと思ってもらえているなら。僕は途方もない幸せ者だと思う。
僕は二人の間で椅子に腰掛けながら、魔導都市で買った本を読んでいる。帝国の歴史についての本で、読む時間はあまりないだろうなと思いつつ、どうしても気になって買ってしまった。本当なら、どうせ読むなら帝国でよく見られる魔物やダンジョンの特徴を纏めた本を読んでおくべきなのだろう。僕らは冒険者なのだから。だけど、趣味というのはどうにも抑えがたい。村にいた頃から、特に歴史書を読むのが好きだった。
ある程度読み終えたところで、本を閉じた。そろそろ夕方だろう。今日は良く晴れていたから、きっと綺麗な夕焼けが見れるはずだ。海の上で見る夕焼けには興味があったけれど、生憎この部屋には窓が無い。シエスも離してくれないだろうし、夕焼けはまたの機会に期待するしかないか。
背筋を伸ばして、少し凝ってしまった身体を解していると、頭まで毛布を被っていたシエスが唐突に毛布から顔を出した。顔が少し青い。
「ルシャ、おねがい」
声も弱々しい。シエスが船旅に慣れるにはまだしばらくかかりそうだ。まだ船はそこまで大きく揺れていないのにこの状態だと、もし帝国に着くまでに嵐にでもぶつかったら、シエスはどうなってしまうのだろう。
「はい。そのまま横になっていていいですよ」
ルシャは僕の横から立ち上がり、シエスの寝ている寝台に座って、シエスの額に手を伸ばした。すぐに指先から光が溢れて、シエスへと溶け込むように吸い込まれていく。
いつ見ても不思議な光だ。明るいけれど眩しくはない、春の陽光のような暖かな光。僕の『力』は光らないのに、この違いは何なのだろう。それとも、僕も実は体内で発光しているのかな。
「……楽になりましたか?」
「ん。ありがとう」
「ふふ。どういたしまして。早く元気になってくださいね。シエスが大人しいと、なんだか調子が狂ってしまいますから」
「……私はいつも、静か」
ルシャはふてくされたようなシエスの言葉に笑っていた。シエスも目はじとっとしているけれど、顔色が良くなっている。これでまたしばらくは大丈夫だろう。
「ロージャ。何か面白い話、して」
シエスが寝台の上で上体を起こしながら、なんだか無茶なことを言ってきていた。
「面白い話?そう言われてもな。どんな話が聞きたいのさ」
「……なんでもいい。海以外の話」
なんとも漠とした条件だった。シエスが海嫌いになりかけているのも気になるけれど、今はとにかく酔いから気をそらしたいのだろう。
といっても、シエスとはもうそれなりに長い間一緒にいる。話したいことはいつもその場で話してしまっているし、今さら改めて面白い話と言われても、すぐに思いつくものでもない。困ったな。
悩んでいると、手元の歴史書が目に入った。……これでいいか。面白いかは分からないけれど。最悪でも、眠くはなれるだろう。
「そうだな。シエスは帝国のこと、どれくらい知っている?」
「帝国?」
「そう。僕らが今向かってる、海の向こうの国。魔導学校の授業で何か聞いたことはある?」
僕が尋ねると、シエスは考え込むでもなく、首を横に振った。
「知らない。学校では、魔導しか学ばなかったから」
「なら、帝国について少しだけ話そうか。歴史を一から話すと長くなってしまうから、簡単に、ね」
そう言って、シエスの反応を見る。全く興味がなさそうなら違う話題にしようかと思っていたけれど、シエスはじっと僕を見ている。聞く気はあるようだ。ルシャもシエスの隣で、僕が話し始めるのを待っているようだった。
「帝国は僕らの住んでいた王国よりずっと歴史が古い国なんだ。王国の人々が『国』なんてものを知らなかったずっと昔に生まれた。けれど帝国のある大陸は、王都大陸より遥かに大きいんだ。だから昔から、帝国以外にも沢山の国があった。帝国はその広大な大陸で他の国と争い合って、勝ち残ってきた」
平易な言葉を選びながら、けれど誤解を与えないように慎重に話す。シエスはじっと僕の話を聞いている。なんだか、シエスに魔導を教えていた頃を思い出すな。
「王国では、帝国の歴史は血生臭いとか言われることもあるけれど、帝国は自分たちの歴史、勝ち抜いて大陸を支配してきた事実を誇りに思っている。だから、帝国は戦乱の収まった今でも軍事勢力が強い国なんだ」
「……魔導も、帝国の方が、すごいの?」
シエスの質問はやっぱり、魔導に関してだった。シエスが魔導師になりたがったのは、僕らと一緒にいたかったから、というのが一番の理由かもしれないけれど、魔導自体にもちゃんと関心があるのだろう。
「魔導の研究も、帝国の方が古くから始めているね。少なくとも戦争に活かせる魔導は今も王国より優れているのかもしれない。だけど、研究の場としては、帝国はあんまり良いところではないと思うよ」
「……?」
きょとんとしてしまったシエスの横で、ルシャが口を開いた。その表情は、あまり明るくはなかった。
「……それは、帝国が聖教を統制しているように、魔導の研究も全て帝国の支配下にある、ということでしょうか」
「恐らくはね。帝国は余りにも、皇帝とそれに紐づく軍の勢力が強すぎる。武力で国中を支配している。教会も魔導学校も国からいろんなことを要求されてしまう。全ては帝国の軍事力を底上げするために」
その点、王国は自由な国だと思う。教会には布教の自由を、魔導学校には研究と言説の自由を、それぞれ王国の平穏を乱さない範囲までは柔軟に認めている。道理が通るなら、王国の利益に反することだってできる。その分教会が幅を利かせて魔導都市といがみ合ったりしていて、別の厄介事も生まれているけれど。
そんなことを考えていると、シエスからぽつりと、声が聞こえた。
「……帝国は、怖い国なの?」
シエスの問いに、一瞬詰まってしまう。彼女の素直な眼に怯んでしまった。
帝国は怖い国なのだろうか。歴史だけ見れば、確かに物騒な国かもしれない。けれど昔、遠征の形で帝国の端を訪れた時は、怖いとは思わなかった。それは僕が皇帝や軍と関わらなかったからなのかもしれない。
帝国で知り合った街の人々は、気風は少し違うけれど、優しさや人懐っこさは王国の人々と変わらないと思った。皇帝と軍に支配されているといっても、生活全てを統制されている訳ではない。帝国には僕らと変わらない、普通の人々が生きている。
僕は別に、シエスを脅したい訳じゃない。シエスに変な先入観を持たせるのは、本意じゃない。これだから、人に何かを教えるというのは難しいな。
僕は意識して、明るい声で答えた。
「怖くはないさ。脅すようなことを言ったけど、実際は王国と何も変わらないと思うよ。帝国にだって、僕みたいな気弱な人もいれば、ガエウスみたいな荒っぽいな人もいる。幸い僕らは冒険者だから、国と関わることなんてそうそう無いしね。軍に目を付けられないように気を付ける必要はあるけど」
「そういう面倒を考えるのは、ロージャの仕事。私とルシャは、ロージャの傍にいる。それが仕事」
シエスはそう言って、無表情のままに胸を張った。僕は笑ってしまう。そう難しく考える必要もないか。
そう思いつつふとルシャを見ると、彼女はなにやら考え込んでいるような様子だった。
「ロージャ。実は以前から少し、気になっていることがあるのです。軍事大国である帝国に、なぜ王国は『大戦』で勝つことができたのでしょうか」
ルシャの問いは、『大戦』についてだった。
二十年近く前に王国が帝国に仕掛けた戦争。理由は様々に推察されているけれど、王国の最大の狙いは、僕らが今まさに渡っているこの海での航行権と商業権を勝ち取ることだったと言われている。
「僕も、それが不思議でさ。色々と本を読んでみたけれど、まだよく分からないんだ。王国は王都を移して、王都近くの港で海軍を新設して徹底的に鍛えていたとか、今の宰相が軍師として神懸かり的な戦術で打ち負かしたとか、色々説はあるんだけど」
『大戦』は王国にとって最も新しい戦争で、当時世界最強と名高かった帝国を敵に回しながら華々しい勝利をあげた戦争だ。当然ながら『大戦』に関する本は王国で沢山書かれている。
けれど僕は、少し奇妙に思っていた。王国も決して小さな国ではないけれど、帝国と比べるとやはり見劣りしてしまう。特に軍事においては、当時も圧倒的な差があったはずだ。どの歴史書でも、王国軍の素晴らしさは言葉を尽くして賛美されていたけれど、そもそも帝国軍に対して数で劣っていた王国軍が海戦や会戦をどのようにして勝ったのかを、詳細に語る本は無かった。何かが、ぼかされていた。
「ロージャにも分からないとなると、もうお手上げですね」
そう言ってルシャは笑う。彼女の問いは本当に興味本位だったようで、真実が分からなくても構わないようだった。
「ん。ロージャは物知り」
シエスがなぜか、僕を褒めておきながら自分が褒められたかのように、嬉しそうにしている。
なんだか照れくさくて、僕は頬をかいた。
「二人とも買いかぶりすぎだよ。全部本に書いてあったことそのままだから、自慢できることじゃないさ」
「私は何も知らない。ロージャは沢山知ってる。だから、ロージャの方がえらい」
シエスは寝台の上で胸を張っている。なんでそう自慢げなのか。シエスの理論はめちゃくちゃだけれど、シエスは嬉しそうだから、まあ、いいか。
「……でも、僕も帝国語は話せないよ。向こうに着いたら、話せるルシャにかなり頼ることになると思う」
「はい。任せてください。母語とはいえ、もう長いこと話していないので、少しだけ不安ですけれど」
「ルシャなら、大丈夫」
「ふふ。ありがとう、シエス」
聞いたこともないであろうルシャの帝国語に、なぜか太鼓判を押すシエス。僕もルシャもそんなシエスに心なしか癒されて、笑ってしまっていた。
帝国語は王国での公用語と似ているけれど、きちんと学んでいない僕ではやはり聞き取れないし、話せない。その点、ルシャはそもそも帝国出身だし、教会で使徒となるための教育の一環で改めて公的な場でも扱える水準まで身に付けている。実はガエウスとナシトも話せるのだけれど、帝国での交渉役をルシャに任せたのは、単純に交渉事を任せられるかどうかで決めた。あの二人に任せると、たぶん毎日厄介事が起きてしまう。
僕もいつか時間ができたら、帝国語を学んでみたいな。そんなことを思っていた時だった。
部屋の扉が勢い良く開く。見ると、そこにはナシトが立っていた。手には大きな魚をむんずと掴んでいる。
入ってきたはいいものの、ナシトは何も言わない。黒いフードの下からこちらを見つめている。相変わらず、良く分からない。そもそもあの魚はなんだろう。ぴちぴちと跳ねようとする魚の口を無言で掴んでいるナシト。中々に奇妙な光景だった。
「な、ナシト。どうしたの。その魚は……?」
「釣りをしていた」
釣りをしていたらしい。そうか。
ナシトもまあ釣りくらいするだろう。趣味らしい趣味があって良かった。確かに今日は快晴で、風さえ防げれば釣りにはもってこいの日だろう。
でもなんで、釣果と共にここに来たのだろう。
ナシトが屈んで、部屋の隅にあった台に魚を置いた。その手つきは妙に丁寧だった。
「食え、シエス」
一瞬、思考が止まる。いつにも増して、ナシトの言葉が説明不足だ。
けれど恐らくは、ナシトなりにシエスを心配していたのだろう。その結果が魚というのも不思議だけれど、ナシトの思考が読めたことなんてほとんどないから、この突拍子のなさには逆に納得できる。できれば、調理後のものを持って来てほしかったけれど。
「……ありがとう」
僕と同じように固まっていたシエスが、とりあえずの礼を言った。この状況で礼を言えるだけ立派だと思う。
「気にするな。それと、ロージャ。魔物が来るぞ」
ナシトの言葉にまた一瞬、止まってしまった。けれど今度はすぐに立ち直る。
「ありがとう、ナシト。けれど、それを先に言ってくれよ」
「大した魔物ではない。魚人ですらない、シエスの魔素につられた雑魚だろう。焦る必要も無い」
「……数は?」
「十以下だ」
それだけ言って、ナシトはすぐに部屋を出て行ってしまった。僕もすぐに行かなくては。
ナシトの感知は大抵いつも恐ろしく正確だ。確かに大した魔物ではないのだろう。とすると、この海域で良く出る魚の魔物、アムルあたりだろうか。甲板に飛び込んできて船員に齧り付く、少しばかり大きく凶暴なだけの魚。以前に帝国へ行った時も襲われたな。
考えつつ、立ち上がって部屋の出口へ向かう。同じように立ち上がろうとしたルシャを、肩越しに見る。
「ルシャ、君はシエスの傍にいて」
「ですが――」
「大丈夫。たぶんガエウスひとりでも片付けられるくらいだと思うから。戦ってる間にシエスが酔ってまた僕に魔導で攻撃してくる方が、ずっと脅威だよ」
「……そんなこと、しない」
シエスのぶうたれた声が聞こえた。ルシャがこちらに向かう気配も薄れたので、二人を安心させるように笑って、外に出た。
そのまま甲板に出て、船首近くに向かう。魔物はまだ現れていないようだけれど船員は既に退避していて、甲板の上はがらんとしていた。元々、魔物が出たら僕らが対応するという契約で安価に乗せてもらっている。船員たちも魔物の襲撃には慣れているようで、船には混乱した雰囲気なんて欠片も無かった。
ガエウスは船尾の方にいるようだ。ナシトは見当たらないけれど、いつも通り気配を消しているだけだろう。
甲板では鎚は使えない。手斧も海に落とすと回収できないので、できれば投げたくはない。盾を使うほどの相手でもないだろう。だから、発動句を口にして斧と鎧だけを発現させる。
ふと見上げると、ちょうど夕焼けが空を赤く染めていて、こんな時でなければじっと眺めていたいほど雄大で、綺麗だった。皆と一緒に、のんびり眺めたかったな。
けれど。視線を空から離す。
集中しよう。相手が弱いといっても、僕だって隔絶して強い訳じゃない。兜を落として首に噛み付かれれば、あっという間に死ぬんだ。油断だけは遠ざけなければ。
瞬間、黒い影が海面から跳び上がった。予想通り、アムルだった。大きく開けた口から鋭い牙が見える。
僕に向けて跳んでくる魔魚を躱さず、僕はただ正面で構えて、牙がぶつかる数瞬前に下から斧を掬い上げた。アムルの身が真っ二つに割けて僕の左右に落ちる。甲板に黒い血がぶち撒けられる。
僕はそのまま次に備える。
何も問題は無い。ただいつも通り、切り抜けるだけだ。
それから、背後から聞こえる矢の音を頼もしく思いながら、僕はそのまま斧を振るい続けた。
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