第4章 あばよ

第70話 船旅

 顔に吹きつける風が冷たい。鎧を身に着けず軽装のまま甲板に出ているから、風が服の隙間から背筋まで届いて、思わず身震いしてしまった。

 いつの間にか冬の盛りは過ぎていたようで、陽の光はもう十分に暖かいけれど、それでもまだ冬を越えたとは言えない寒さだ。僕は風の強さと冷たさに怯んでしまって、船内の部屋に戻ろうか一瞬悩んだものの、それでもやっぱり海を見たくて、服の裾を押さえながら船首の方に進んだ。


 僕たちが乗っているのは比較的大きな船で、甲板に立つ僕と水面との間には少し距離がある。海も荒れている訳ではないようだから、僕のところまで水しぶきまでは飛んでこない。

 甲板の先まで歩いて、船首近くから前を見た。目の前に、どこまでも広がるかのような海と、綺麗に晴れて澄みきった青空が開ける。

 その広さと大きさに圧倒されながら、少しだけ笑ってしまう。村で木こりをしていた頃、ひとりで山に登って、山頂近くからどこまでも広がる緑と空の青を見た時のことを思い出す。あの時も僕はその限りない広さに呆然としてしまったけれど、海というのは山よりも果てが無くて、尚更僕自身がちっぽけに思えてしまう。世界というのは本当に、どこまでも広い。



 まだ対岸の大陸は見えない。帝国は、まだ遠い。けれど数日で辿り着けるだろう。

 僕らは今、王都大陸を離れて、海路で帝国を目指していた。




「よお、ロージャ。シエスはもういいのか?」


 そのまま何をするでもなくただ海を眺めていると、後ろから聞き慣れた声がした。振り向くまでもなく誰の声かは分かるけれど、すぐに振り返った。

 そこには案の定、ガエウスが立っていた。船旅に飽きたのか、表情はなんだか不満げだった。


「ああ。ただの船酔いだから。今は少し落ち着いたみたいで、部屋で眠っているよ。傍にルシャもいる」


 答えながら、思い出す。

 シエスは、僕らが王都近くの港から出発した直後は甲板の上にかじりつくようにして、広大な海にただただ感動していた。無表情が標準のシエスが分かりやすく目を輝かせていたから、相当喜んでいたと思う。見ていて僕も楽しかったし、嬉しかった。

 けれどシエスはそれからすぐに青い顔になって、きゅうと変な声を立てて倒れた。それからはずっと寝込んでいる。

 僕は最初、シエスの胸元に埋め込まれた『果て』の欠片の影響かと焦ったけれど、すぐにただの重い船酔いだということが分かって、安心した。いや、シエスが苦しんでいることは変わらないんだけれど、船酔いばかりはもうどうしようもない。シエスが早く揺れに慣れるのを祈るしかない。


「へっ、面白えな。魔素には絶対負けねえ嬢ちゃんも、船の揺れは駄目だったか。そういや酒飲ませた時もすぐ酔ってたな。実は酔いやすいのが嬢ちゃんの弱点、ってか」


「……もう飲ませないでくれよ?」


 ガエウスは僕に答えず、不穏にニヤつくだけだった。

 シエスはまだ成長期だ。身体に変な影響が出たら大変だし、そもそも小さい頃から飲酒を覚えると、碌な大人になれない気がする。酒は理性を狂わせて、その狂いようを楽しむものだ。

 特にシエスは知性と理性が何より大切とされる魔導師なのだから、酒は天敵であるはずだ。僕が今までに出会った魔導師には、酒飲みはいなかった……いや、いるな。ヴィドゥヌス校長はガエウスに劣らず大酒飲みだ。けれどあの校長は、魔導師の例として考えるべきではない気がする。偉大な大魔導師には違いないけれど、色々と破天荒すぎる。



 そんなことを考えていると、ルシャが甲板に上がってくるのが見えた。ルシャもすぐに僕らを見つけて、こちらに歩いてきた。風にさらわれないように髪を押さえている。ただ歩いているだけなのに、幾人かの船員が作業の手を止めてその後ろ姿を呆と見つめていた。


「ルシャ。シエスは、大丈夫?」


「ええ。寝ている間は酔いも進まないので、癒す必要も無いようです。寝入っているので、起こさないように抜けてきました」


 ルシャはそう言って、疲れた様子も見せずに凛と立っている。けれど彼女はシエスが倒れてから頻繁にシエスの酔いに対して『癒し』を使っていた。ただの船酔いだし、一度癒しても船に乗り続けている限りはまたすぐに酔ってしまうので、そこまでする必要もないのだけれど、いつになく弱々しく半泣きのシエスに縋られると断れないのがルシャだった。


「おい、ルシャ。嬢ちゃんを甘やかしすぎんなよ?ただでさえ生意気で、俺への当たりが強えんだ。たまには痛い目遭うくらいで丁度いいんじゃねえか。それにその『力』も、無限に使える訳じゃあねえんだろ?」


 ガエウスの声はからかうように笑っていた。けれど『力』について気にしているあたり、船上で何か起きた時のことも考えているのだろう。よくふざけているけれど、彼はいつだって冒険に備えている。


「これくらいは『力』を使った内にも入りませんよ。それに、シエスが辛そうにしているのを見る方が、私には耐えられませんから」


 答えながら、ルシャの表情は少しだけ暗かった。ただの船酔いと分かっていながら、それでもシエスのことが心配なのだろう。ルシャは本当に優しいから。


「ありがとう、ルシャ。でも無理して疲れたりしないようにね。帝国に着くまで、あと三、四日はかかると思うから。……シエスが揺れに慣れてくれると良いのだけど」


「……帝国、ねえ」


 ガエウスからつぶやくような声が聞こえて、その声がさっきまでの調子とどこか違っていたので、思わず彼の方を見てしまう。

 ガエウスは僕ら二人に背を向けて、海の向こう、帝国のある方を見ていた。彼のくすんだ金髪が風に暴れていて、けれど気にした様子もない。


「……?何か、気になるのか、ガエウス」


「いや、そういうことじゃねえ。この海を渡る時はいつも、俺がガキだった頃を思い出しちまう。それだけだ」


 ガエウスの声はいつになく静かだった。

 ガエウスと帝国と言えば、恐らくは、あの戦争の頃のことだろう。もう長いこと一緒にいる僕に対しても、ガエウスが未だ話したがらない、過去のこと。


「……『大戦』のこと、かな」


 僕は慎重に言葉を選んで、尋ねた。ガエウスが珍しく自分から自らの過去に触れたことが、僕にはなんだか大きな意味を持つことのように思えてしまった。実際にはただ、いつもの彼の気まぐれだと思うけれど。


「ああ。俺の人生唯一の、汚点だよ。……もう昔の話だ」


 それだけ言うと、ガエウスはどこかへ歩き出してしまった。ガエウスの後ろ姿は、普段より少しだけ控えめに見えた。



「……ガエウスは、帝国に何か、因縁があるのでしょうか」


 ルシャがぽつりと、つぶやく。


「僕も詳しくは、知らないんだ。ガエウスは、冒険者になる前のことをほとんど話さないから」


「そうなのですか。彼は生まれた時から冒険者だったのだと、すっかり思い込んでいました」


 ルシャの言葉に、少しだけ笑ってしまった。以前人づてに、ガエウスの過去について少しだけ知った時、僕も全く同じことを思っていたから。


「……冒険者になる前、二十年以上前の『大戦』にガエウスは参加していた。そこで功績をあげて、戦後に英雄として『王国十四士』に数えられるようになった。僕が知っているのもそれくらいだよ」


 ガエウスにこの話をすると怒り始めるから気を付けて、と付け加えながら。僕はふと、ガエウスから過去を話してもらえる日は来るのだろうかと考えてしまっていた。

 ガエウスはひたすらに頑固でわがままで、言いたくないことは死んでも言わない男だ。しかも彼は少し前までの僕と違って、過去を引きずっているというよりは、帝国との過去をきちんと見据えた上でそれを全て無駄なものと断じているような感じがする。彼の中では、もう終わった話なのだろう。飲み込めているから、その過去が冒険に支障を来すようなこともないのだろう。


 けれど。さっきのガエウスの背中は、少しだけ愁いを帯びて見えた。それが過去のせいなら、やはり気になる。仲間として、僕では助けになれないだろうか。それとも、まだ僕は彼の過去までを預けてもらえるほど、頼もしくはないのだろうか。



 そこまで考えて、気付く。

 きっとシエスとルシャは、僕が過去を打ち明けたあの夜まで、ずっとこんな風に悩んでいたのだろうなと、ようやく理解することができた。そしてその悩みを、きちんと僕に伝えてくれていたということも。

 思わずルシャの手を握ってしまう。ルシャは不思議そうに僕を見上げながら、ごく自然に手を握り返してくれた。


 "ロージャ、どこ"


 急に頭の中に、声が響く。平坦だけど、不安を隠し切れずに揺れる声。シエスが起きたようだった。


 "ロージャ、ルシャ、たすけて。きもちわるい"


 シエスの声は疲れ切っていて、すぐにでも泣きだしそうな雰囲気だった。ルシャにも声は届いているようで、その必死な様子に思わず二人で目を合わせてしまった。


 "ロージャ、ロージャ"


 頭に声が響き続ける。シエスのいる部屋から僕らの立っているところまではそれなりに距離があるのに、シエスの声ははっきりと聞こえる。全力で声を届けてきているようだった。こめかみあたりが鈍く痛み始めた。早くも魔素酔いが始まっている。

 分かった。分かったから、魔導で僕に声を届けるのはもう止めてくれ。僕まで酔って、倒れてしまうよ。けれど悲しいことに、僕にはシエスへ声を届ける術がなかった。シエスの声は頭の中でいっこうに鳴り止まない。


「やばい、気持ち悪くなってきた。早く行こうっ」


 ルシャに言って、歩き出す。幸い、まだ真っ直ぐ歩けるようだ。

 手は離さずにルシャの腕を引くと、ルシャは僕の横に並んで歩きながら、空いた方の腕を伸ばして僕の頬に触れてきた。ルシャの手から温かな光が漏れて、鋭くなり始めていた頭痛が瞬く間に引いていく。狭まり始めた視界も、元に戻る。


「ありがとう、もう大丈夫だよ」


「……いくら辛くて寂しくても、ロージャまで酔わせるのは、やりすぎです。シエスには後で、お説教ですねっ」


 そう言って、ルシャはいつもよりいたずらっぽく笑った。でもきっと、ルシャはシエスが辛そうにしているのを見ると、説教なんてできないに違いない。僕も別に、シエスに怒る気なんて全く無かった。

 とにかく早くシエスのところへ行って、安心させよう。そう思って、僕らは二人、甲板の上を走り抜けた。


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