第67話 帰還

 また、夢を見ていた気がする。


 夢と言っても、これまで繰り返し見ていた、ユーリとの過去のこと、ではない。言葉通りの、荒唐無稽なただの夢。



 僕は見知らぬ場所に立っていた。目に映るのは一面の青。それが空なのか海なのか、別の光なのかは分からない。けれどそれは僕の前でどこまでも開けていて、僕は見つめながら、その果てまでも見てみたい、この光の向こうまで行ってみたいと願っている。僕の心はどうしようもなく浮き立っている。


 回りには皆がいる。ガエウスは僕の前で、僕に背を向けて、けれど笑っている。ナシトは離れたところで仄暗く霞んでいる。

 隣にはルシャと、シエスがいる。身体は触れていないのに、すぐ傍にいて、息遣いまで感じられるような気がする。彼女たちは僕を見ながら微笑んで、僕と同じように、前の青を見ている。


 どうしてか、心が躍る。

 皆がいて、傍で僕を信じていて。僕の前には知らない何かが広がっていて。皆と一緒に、望む方へ行ける。きっとこれ以上なんて望むべくもない。


 青に踏み出しながら、思う。これが僕にとっての幸福なのだろう。迷いなくそう信じられる。



 その幸福の中に、ユーリはいない。いつも隣にいて、いたずらっぽく笑っていた幼馴染は、もういない。

 それはやっぱり、寂しかった。きっとどんなに時間が経っても、この痛みは消えない気がする。女々しい感傷だとしても、僕は生憎そういう人間だ。全て振り払って、忘れられるとは思えない。ユーリは確かに僕の生きる全てだったのだから。


 けれど、もう、後ろは振り返らなくて良いだろう。

 僕は前に行きたい。大切な人たちを守りたい。だからもう、過去に構っている暇はない。


 また一歩前に踏み出す。過去を踏み越える。


 僕は自分の冒険を、始めなければ。






 目が覚める。意識が覚醒していく。ここはどこだろう。知らない部屋で、僕は寝台の上に寝かされていた。

 左手が、温かかった。誰かがぎゅっと手を握っている。横を見ると、もう見慣れてしまった銀色が見えた。

 シエスと目が合う。彼女は何も言わず寝台の横に腰かけて、僕を見つめていた。


「シエス?」


「……」


 シエスは目があった瞬間、嬉しそうに目を瞬かせたけど、すぐにむっつりとしてしまった。最近は表情にも色が出てきて、より分かりやすくなったな。精いっぱいの怒り顔も可愛らしいのが、シエスらしいというかなんというか。

 一瞬和みかけて、けれどシエスの胸元が見えて、思い出す。胸元に埋め込まれた『果て』の欠片は、前に見た時よりも明るい赤色をしていた。

 寝ている場合じゃなかった。僕は寝台に寝ていた上体を勢い良く起こして、シエスと向き合う。


「シエスっ、身体は?胸のそれは、大丈夫なのかっ?」


「…………ロージャの、ばか」


 シエスは僕の問いに答えずに、なぜか僕を叱った。表情は変わらず、やはり怒っている。僕はなにがなんだか分からなくて、ぽかんとしてしまう。


「無理しないでって、言ったのに。もっと自分を大事にして」


「……いや、でも――」


「でもじゃない。ロージャは、無理するのが趣味なの?」


 シエスの声はいつも通り平坦だけど、いつもよりは厳しい気もした。ふざけている訳ではないことは分かる。


「いや、そういう訳じゃないけど」


「なら、無理しないで。……私は寝てただけなのに、ロージャは、心配しすぎ」


 シエスがぴしゃりと言う。取り付く島もない。けれど僕も流石に、言い返したくなる。

 シエスは見たところいつも通りで、元気そうだ。本当に何の問題もなかったのかもしれない。だけど、あの時にそんなこと、分かるはずもないじゃないか。あの無貌の男に何かを埋め込まれた時、シエスは苦しんでいた。それを何ともないと思うなんて、僕にはできない。


「結果的にはそうかもしれないけどさ。大事な仲間が大変な目に遭いかけてるのに、じっとしてるなんて、僕は嫌だよ」


 僕の言葉を聞いて、シエスの眉がぴくりと動いた。……怒っただろうか。けど僕だって、引くつもりはない。今回のは、別に『無理』じゃない。

『力』を使いすぎると気を失うけれど、それ以上のことにはならないというのは、ルシャからも聞いていた。別に死ぬ訳じゃない。なら、僕が倒れることになってでも、命が危ないかもしれないシエスを最優先にしたのは、間違いではないはずだ。これは別に仲間を信頼してないとか、そういうことじゃない。


「……仲間?」


「ああ。あの時、ダンジョンではシエスが大丈夫なのかまだ分からな――」


「私も、仲間……」


 シエス僕の言葉も聞かず、なんだかぼけっとし始めてしまった。声から厳しさは消えて、口元がむずむずと波打っている。眼は少しとろんとして、何か、嬉しそうな。

 僕にじっと見られていることに気付いたのか、シエスははっとして、みるみるうちに顔を赤くした。

 今日のシエスは普段に増して感情豊かだな。そう思うと、口論をしていたはずなのに、なんだか和んでしまった。


「こ、今回だけは、大目に見る。でも次は、もう無理しちゃだめ」


 シエスはそう言って、じっと僕を見た。顔は赤いけれど、眼は真剣だ。


「……分かったよ。次はシエスが危なくならないように、僕も無理しなくて済むように、もっとしっかり守るさ」


「無理しないなら、いい。この話はもう終わり」


 言いながら、シエスは座っていた席を立って、なぜか僕の寝台にあがってきた。靴も脱いで、いそいそと僕の隣に潜り込んでくる。腕の中まで来て、僕を見上げている。


「心配させたから、その分、一緒にいて」


 シエスの顔はまだ赤い。ちらと見えた、胸元に埋め込まれた石のような何かが、今はどことなく桃色がかって見えて不思議だった。



 ふと足音が聞こえる。音の方を見ると、ルシャが部屋に入ってきていた。


「あら、シエス。ロージャを叱るのではなかったのですか?」


「……もう終わった」


 きょとんとしているルシャに、シエスはもごもごと答えた。シエスは僕の胸に張り付いて離れない。頭を撫でてやると、シエスはさらにぴたりとくっついてきた。


「ふふ。シエスはロージャに甘いですね」


「それはルシャも一緒。……ルシャの方が甘い。私は頑張っているほう」


「そんなことはありませんよ。私は教会にいた頃から、説教は得意でしたから。ロージャにもちゃんと、厳しく言い聞かせられます」


「嘘。ルシャは教会で、ターニャたちにねだられるとすぐ負けてお菓子をあげちゃうって、ソフィヤが言ってた」


「そ、それとこれとは話が別ですっ」


 シエスに妙な話を暴露されて、ルシャはわたわたと慌て始めた。

 二人は本当に仲が良い。静かに見えてやんちゃなシエスと、姉のように穏やかなルシャ。いつもはルシャがシエスに料理などを教えているけれど、たまにこうして、立場が逆転することもある。

 そんないつもの光景を見て、僕は気が抜けて、思わず笑ってしまった。分からないことはまだ多いけれど、とりあえずシエスは無事なようで、安心した。


「何を笑っているのです、ロージャっ」


「ああ、ごめん。安心してさ。シエスもルシャもいつも通りで、嬉しくなって、つい」


 まだわたわたとしているルシャに、僕は思ったことを正直に話した。するとルシャはぴたりと止まって、僕を見つめてきた。


「……ええ。ロージャのおかげですよ。ロージャとガエウスがあの場を鎮めてくれたから、皆で無事に帰って来ることができました。……でもやはり、無理はしないでくださいね。助け合うと、約束したのですから」


「ああ、もちろん。二人が嫌になるほど、頼るよ」


 僕がそう言うと、シエスは頭をぐりぐりと僕に押し付けてきた。嬉しいのか、もっと頼れという意思表示なのか、よく分からないけれど、シエスが楽しそうなのでそのままにしておく。ルシャはそんな僕らを見て、穏やかに微笑んでいた。

 こうやっていつも通り笑い合えるなら、僕らは大丈夫だろう。


「そういえば、ロージャ。貴方が目覚めたら話があると、校長先生が仰っていました」


「分かった。なら、今から行こうか」


 部屋を見回して、なんとなく見覚えがあることには気付いていた。どうやらここは魔導学校の休憩室のようだ。シエスをヴィドゥヌス校長の元まで運んで、そこで倒れたことを今更思い出す。僕が倒れてからどれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、シエスがこうして無事なら、必要以上に焦ることもないだろう。

 でも、シエスの胸にある、『果て』の欠片については早く聞いておきたかった。ヴィドゥヌス校長なら、既に何か分かっているかもしれない。


 寝台の上で少し身体を動かしてみたけれど、痛みも違和感もない。帰り道にあれだけ強く感じていた眠気のような気怠さも、もう全く感じない。『力』の代償についてはもっとよく知っておかなければとは思うけれど、今は、問題無いならひとまずそれでいい。


「ほら、シエス。行こう」


「……んぅ。もう少し」


 僕が促しても、シエスはなかなか動き出してくれなかった。僕の胸あたりに張り付いて離れない。どうしたものか。

 目線でルシャに助けを求めたけれど、彼女はただ笑うだけだった。微笑みながら、ルシャも寝台に腰かけて、僕の右手を静かに握ってきた。


「少しなら、校長先生も許してくれますよ。ロージャはまたこの街を救ったのですから。だから今はもう少しだけ、私たちに介抱されていてください。……傍にいたい、ですから」


 僕の手を包むルシャの両手は、温かかった。シエスは僕の腕の中で安心しきったように力を緩めて、ふにゃりとしている。


 また、嬉しくなる。

 二人が傍にいたいと思ってくれている。三人でいたいと言われて、僕がそれを拒める訳もない。僕だって、シエスとルシャと、傍にいたい。二人は僕の仲間で、僕にとってはもうそれ以上でもあるのだから。



 そうして、それからしばらく三人でただ言葉も無く、互いの温もりを分け合っていた。

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