第64話 無貌の男
目の前で、無貌の男が笑う。
この男は何だ。魔物?人の言葉を操る魔物なんて聞いたこともない。けれど魔素の見えない僕でさえ感じる、得体の知れない禍々しさを纏っている。僕らより先に侵入していた冒険者、とも思えない。この男は武具を何一つ身に着けていない。
皆も僕と同じように驚いているのか、それとも僕に対応を委ねているのか、皆僕の後ろで息を潜めている。あのガエウスですら、この無貌の男を睨み据えて、一言も発していない。
考えるのは後だ。僕にはこの男が味方とは思えない。なら、動揺を見せて先手を取られる訳にはいかない。そう思って、肩から下りていたシエスを背にして、腰の手斧に手を回した。
「おっと。待ってよ。僕は君たちに危害を加えるつもりはないよ。少なくとも今日は、ね」
そう言いながら、男は軽い調子で両手を上げた。肩をすくめて、手の平をこちらに見せて、戦闘の意思がないことを示すかのように。
……訳が分からない。斧から手は離さず、男をじっと見る。
「まあ、警戒するのも当然か。そこの、鎧の君。君がそちらの長かな?そのままでいいから、少し話をしようよ。ああ、心配しなくていいよ。ここにいる他の魔物は僕が抑えてるから、安心して長話もできる。……冒険者と会うなんて久しぶりでさ。少し付き合ってよ」
早口で言って、男は照れているかのように、手で頭をかいた。仕草は人間くさいのに、眼も鼻も、髪も無い。そのちぐはぐな様子が、ひたすらに不気味だった。
「ああ、この姿は、まだ作りかけだから。人間の顔を模すのはなかなか大変でさ、どうしても気に入った顔にならなくて。次に会う時までには、しっかりした顔を作っておくよ」
男の言葉に、一瞬動揺する。
頭の中の思考を、読まれた?思考を読む魔導は確かに存在するけれど、高等な魔導だ。それを操る魔物には、まだ出会ったことがなかった。
「……君は、何だ。何者なんだ」
思わず、思ったことをそのまま聞いてしまう。
「おお、やっと話してくれた。やっぱり会話ってのは、声に出したやり取りでなくちゃね。僕はただの魔物さ。けれど他の魔物とは少し違う。たぶん世界で唯一の、話せて、笑えて、歌って踊れる魔物だよ」
そう言って、男は足を軽快に躍らせて、彼の靴のようなものが地を叩く。踊っているつもりなのだろうか。足の動きはぎこちなくて、滑稽にすら見えた。聴き心地の悪い音が不揃いに響いて、けれど笑みは先程よりも楽しげだった。
「ふむ。こちらももう少し特訓が必要なようだ。……それより、君たちはどうしてここまで来たんだい?もしかして『巣』を目指しているのかな?冒険者は今もちゃんと『巣』を滅ぼそうとしているのかい?」
男は踊るのを止めて、矢継ぎ早に僕へ問う。
「……『巣』とは、何だ」
「あれ?知らない?おかしいな。僕が若い頃は、冒険者は皆『巣』を目指してたんだけどな。忘れられちゃったのかな。それとも名前が変わったのかな」
男は首を傾げている。
その時、僕の後ろからずいと、ガエウスが進み出てきた。
「おい、てめえ。『巣』ってのは、『果て』のことか?」
ガエウスの声は鋭かった。
「ああ。確かそんな呼び方もあったね。そんな大層なものじゃないのだけれど」
「……面白え。『果て』は、確かにあるんだな?この世界に」
そう言ってガエウスは歯を剥き出しに、笑った。得体の知れない男を相手に、けれど彼は変わらず冒険のことしか考えていなかった。
「あるよ。僕はそこに住んでいるからね。『果て』でずっと、本当に長いこと、冒険者を待っていた。それがいちばん楽しい暇つぶしだったからね。たまに訪れる彼らは途方も無く強くて、楽しかったのだけど、最近は冒険者がぱったり来なくなってね。退屈になってしまった。だからこうして新しい暇つぶしに、街でも適当に潰そうかと思って、この『巣』の端を作ったりして魔物を集めてた。そしたら別で呼んでたスヴャトゴールも殺されて、ここも攻め込まれてて、さ。それでちょっと覗きに来たら、君らがいた」
男の言葉を咀嚼しきれない。『果て』が実在して、この男はそこにいて、このダンジョンは彼が作ったと。話す内容全てに現実味が無くて、ほとんどおとぎ話のようだった。
「……ふざけた野郎だな。まあ、『果て』があんなら、俺はそれでいい。戦う気がねえなら、さっさと消えろ」
「君は、ほっといても『果て』まで来そうだね。昔よく見た眼をしているや」
ガエウスは、また僕の後ろに引いた。無貌の男は変わらず笑っているけれど、その笑みは少し、ガエウスと似てきていた。獰猛な捕食者、狩人の笑い方。
「いいね、君たち。面白い。君たち皆、強そうだ。……けど、君。ロージャっていうのかい?『果て』に興味、無さそうだね。ちゃんと来てくれるのかな?『果て』を潰して、魔素の無い世界にしようと思ってくれるのかなあ?君、魔導使えないのに巨人を殺せるくらいだもんなあ。困ってないよね、きっと」
「……『果て』を攻略すれば、魔素は消えるのか?」
ふと、僕は尋ねてしまった。
昔から、『果て』まで行けば世界を救えると伝承で謳われていた。別の伝承では、『果て』で魔素が生まれていて、それが溢れて、世界に魔物と魔導が生まれたとあった。けれどそれらは全て昔話で、誰かが創り出した夢物語だと、僕は思っていた。
この男は、真実を知っているのかもしれない。この世界の真実を。
「消えるよ。魔素はもう世界に満ちているらしいから、消え去るのにどれくらいかかるかは分からないけれどね。……もしかして、あの病気ももう流行ってないのかな。だから誰も『巣』に来なくなったのかな。……少し、外を回ってみないと駄目かな」
男の言葉は尻すぼみに小さくなって、最後は独り言のようになっていた。
「まあ、そのへんはまた後で考えればいいか。ねえ、ロージャ。『果て』までおいでよ。そこで待ってるから。『果て』で戦うのがいちばん楽しいんだ。場所は教えないけど、君たちならきっと、辿り着けると思う」
僕は答えない。
世界の真実に、興味はある。僕だってガエウスほどじゃないけれど冒険が好きで、何より信頼できる仲間との旅が好きだった。
でも、『果て』は僕には、遠すぎる。目指す目的も無い。僕の中にある、誰も知らないところまで辿り着きたいというほんの僅かな憧れだけでは、『果て』を目指すには、足りなかった。
「ううん、残念だな。君には大事なものが多すぎるみたいだね。……そうだ。なら、」
男はなんでもないようにつぶやいて、けれど言葉を切った瞬間、彼から殺意が膨れ上がった。
鳥肌が立つ。背筋が凍える。僕の生物としての本能全てが、警鐘を鳴らしている。この男は、危険だ。
湧き上がる怯えを叩き潰して、彼の一挙手一投足を注視する。何かが、来る。
そして僕は、前方の無貌の男の右手首から先が、なんの前触れも無く掻き消えるのを見た。その意味を僕は理解できていない。けど僕は、自分の真後ろでほんの僅かに空気が揺れるのを感じた。
僕の後ろには、シエスが。
刹那より速く振り向く。手にしていた手斧を、空気の揺れたところ、シエスの胸元手前目がけて振り抜く。
そこには、白く不気味な手が、手だけで浮かんでいた。それを手斧で切り裂いた。
手は、潰せた。けれど間に合わなかった。シエスは胸元を手で押さえて、驚きながら苦しげな表情を浮かべている。
「ロージャ。君、すごいね。どうして今のが分かったんだい?危うく消し飛ばされるところだった」
本気で驚いているような声が聞こえた。答えている余裕はなかった。
「シエスっ!!」
僕は叫んでいた。
がくりと倒れ込みかけたシエスの身体を支えて、彼女の手をどけると、僕が預けた首飾りよりも少し上、両の鎖骨の間あたりに、赤黒く光る何かが埋め込まれていた。透き通るような宝石のようで、けれど脈打つような生々しさのある、何か。
「大丈夫だよ。危害は加えないって言っただろ?君のことが大好きらしいその娘に、『果て』の欠片をあげただけだから。その娘、魔素酔いしにくい身体らしいし、少なくとも今すぐには命に別状は無いよ。どれくらい保つかは、分からないけど。欠片だけどそれも『果て』の一部だから、取り除くには、『果て』そのものを潰す必要がある。……我ながら、名案だなあ」
男の笑う声が聞こえる。言葉の内容は、耳に入ってこなかった。
僕の横にルシャが来て、シエスの胸元に手をかざした。かざしながら、僕を見た。
「落ち着いてください!シエスは私が。貴方は、あの男に警戒して。彼を放置しては、危険すぎます」
ルシャの声は厳しかった。けど、僕が目を離してシエスは大丈夫だろうか。彼女を背にして目を離して、僕が油断したから、シエスは。シエスは荒く息をついて、苦しむように小さくうめき声をあげていた。
僕はどうしようもなく動揺していた。けれど。
「しっかりなさい、ロージャっ!貴方は私たちを信じると、私を信じると言ったでしょうっ!」
聞いたこともないほど強い響きで、ルシャが叫んだ。僕は頬を叩かれたような錯覚を感じた。
ルシャは僕を力強く、けれど温かな眼で一瞬見てから、すぐにシエスの方へ向き直った。シエスの胸元と頬に触れながら、癒しの奇跡に集中し始めた。
僕は我に返る。
そうだ。やっぱり僕はどうしようもない馬鹿だ。けど、その反省も後悔も後にしよう。
僕は仲間を信じると決めた。彼女たちは強い。こんなところで、どうにかなる皆じゃない。だから、僕は今できることをしなければ。あの男を、排除する。
そう思って、また振り返って、地を蹴った。一瞬で、無貌の男に鎚が届くところまで跳び込む。跳びながら背から鎚を取って、男の横で無理矢理止まりつつ、鎚を叩き込んだ。
「え、速すぎ――」
何かつぶやきかけた男の胴を正面から、鎚の芯で捉えて、振り抜く。男はその場から掻き消えるように吹き飛んで、轟音を立てて奥の壁にめり込んだ。
まだ、終わらない。僕も後を追うように全力で跳んで、壁から離れようともがく男の首に鎚を叩き込む。抵抗も無く、男の頭は胴から離れて、僕の足元に転がった。
「……恐れ入ったよ。速すぎて見えなかった。魔素で感知できない動きって、怖いね。君の『力』、何なんだろうな」
男は頭だけになっても、変わらず笑っていた。口だけの顔で嬉しそうに笑う姿は、不気味を通り越して、現実味が無い。
僕は鎚を振り上げた。
「『果て』で待っているよ。『果て』は東にある。次は直接会おう。……それに、最後にもう一つ、贈り物だ。楽し――」
言葉を聞き終わる前に、男の頭を潰した。顔を上げてシエスたちの方を向こうとして、すぐに彼の遺した言葉の意味を理解する。
大空洞の上から、今まであの無貌の男が抑えていた魔物たちが、湧き出した。蜥蜴が我先にと壁を伝って下りてくる。蝙蝠の羽音がつんざめく。
そして、僕の目の前には、悪魔が音も無く降り立った。僕の二倍はある背丈。黒い羽と角と牙。不気味に長い手足。真っ赤な眼は殺意に爛々と輝いて、僕を見ている。
見覚えがある。伝承の悪魔に似た魔物、ヴィイベス。厄介な敵だった。僕は息を一つ吐いて、鎚を背に、盾を構えた。
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