第60話 過去と、今

 目を覚ますと、そこは見覚えのある部屋だった。ここは確か、王都の治癒院。けれど以前と違って、隣にユーリの姿は無かった。

 横になったまま、徐々に何が起きたのかを思い出す。ソルディグと戦って、最後の一撃の瞬間にユーリの声を聞いて。そして僕は、負けた。


「起きたか、ロジオン」


 声が聞こえた。見ると、ソルディグが部屋に入ってきていた。彼に続いて、ユーリの姿も見える。

 ユーリの顔を見て、驚く。眼にはこのところの憂いが薄れて、昔の、いつもの強さが戻っていた。

 僕はそれを見て、怖くなる。


「闘技会では、すまなかった。追い詰められて、力加減まで気が回らなかった」


「……ああ。気にしてないよ」


 ソルディグはこれまでと何も変わらなかった。ただ僕を見る視線は以前より、探るような動きをしていた。腹の底まで見通そうとするような。


「……ソルディグ、私はロージャと話があるから、先に出ていて」


「分かった」


 そう言うと、ソルディグは部屋を出た。僕はユーリと、二人きりになる。二人きりになるのも、久しぶりな気がした。

 ユーリは、押し黙ってしまった。部屋に満ちる沈黙が、怖かった。昔はこの沈黙さえ好きだったのに。けれどユーリの話を聞く方が怖くて、僕は促すことさえできなかった。

 僕は負けた。だからだろうか。予感するものがあった。


「怪我はもう、大丈夫?」


「……ああ。魔導で、すっかり治っているみたいだ」


「そう。良かった」


 世間話すら、ぎこちない。けれどユーリは、ただ僕を見舞いに来てくれただけなのかもしれない。負けても、どこにも行かないでくれるのかもしれない。そんなくだらないことを思いかけた時だった。




「……ロージャ。私、パーティを抜けるわ。……『蒼の旅団』に、入る」


「……っ」


 ユーリの言葉に、僕は耳を塞ぎたくなる。


「ごめんなさい。もっと早く、決めるべきだった。いたずらにあなたを、傷付けてしまった。……理由は、沢山あるの。『果て』を目指したいとか、もっと強くなりたい、とか。でも、それは本当の理由じゃない。……私、闘技会であなたたちを見て、ようやく気付いたのよ」


 ユーリの声は震えていたけれど、彼女は俯くことなく、僕を見ていた。僕の好きな、あの強気な眼で。


「ロージャももう、気付いていたでしょう。私、あなたの恋人なのに、どうしようもなくソルディグに惹かれていた。あの人の強さと、弱さを見て、いつの間にか、好きになってた」


「……やめてくれ」


 聞きたくなかった。ユーリの言葉は、重さを持って僕に突き刺さっていた。これ以上は、聞きたくない。

 そうだ。僕は気付いていた。頭がおかしくなるほど動揺して、自分の妄想だと思い込もうとしていたけれど、それが全て真実だということに、気付いていたんだ。

 あの夜、僕は窓の向こうにユーリを見ていた。あの朝、酔いつぶれたというユーリから、酒の匂いはしなかった。彼女の首元にあったのは、間違いなく、キスの痕だった。それをユーリは、なかったことにして、僕に話してはくれなかった。ユーリの目はもう、僕を見てはいなかった。

 僕はそれら全てを信じたくなくて、目を背けた。それでもユーリを、信じたかったんだ。


「……聞いて。……それなのに、ロージャのことも大切だから、あなたに何も言えないで、答えを出せなくてずっと悩んでた。なのに夜になると、抱えきれなくなって、気が付いたらあなたを置いて彼の元に行ってた。彼の強さに縋ってた。どうしようもない、馬鹿女よね」


「……っ」


 声の震えが大きくなった。たぶんユーリは、涙を堪えているのだろう。自分を責める声は本心だろう。彼女は人に厳しいけれど、自分にも厳しいから、自分のことを愚かだと、心から思っているのだろう。

 ユーリが、苦しんでいる。けれど僕はもう、彼女を慰めることもできない。支えになることもできない。


「私の馬鹿な裏切りのせいで、ロージャをおかしくさせてしまって。壊れるほど、無理をさせてしまって。全て手遅れになるまで答えを出せないで。……でもようやく、あの時闘技会で、気付いたの。あの時、私は無意識にソルディグの名前を叫んでた。それが、私の想いなんだって。だから、私は、彼と行くわ」


 声が出ない。やめてくれ。なんでそんなことを、僕に言うんだ。

 涙が溢れかけた。でも最後の力を振り絞って、抑え込む。ユーリが泣かないなら、僕だって泣かない。対等で、いたかった。でもきっと彼女は、この後ソルディグの前で泣くのだろう。


「本当に、ごめんなさい。……あなたには、赦されないことをしてしまった。ずっと一緒にいてくれたあなたを、人生ごと、私の身勝手で滅茶苦茶にしてしまった。謝って、赦されるべきことじゃない。だからどうか……私を恨んで」


 そう言って、ユーリは頭を下げた。僕に頭を下げるユーリなんて、初めて見たかもしれなかった。それくらい、他人行儀な仕草だった。


 恨めるなら、どれだけ楽か。

 だって僕は、こんな告白を聞いても、まだ彼女を大切だと思っている。僕の方がきっと、大馬鹿だ。

 そうだ。僕は大馬鹿だ。こんなに大切な女の子ひとり、掴まえておけなかった。そんな僕に男としての価値なんて、あるはずもない。

 そんな惰弱な僕が、彼女の告白に何か言葉を返せる訳もなかった。




 その後もしばらく、僕は何も言えなかった。またソルディグが部屋に入ってきて、何かを話していた気がする。僕に謝っていたような気もする。ユーリが何か、ソルディグに怒っていたような気もする。けれど良く憶えていなかった。僕の心はもうぼろぼろだった。


 それから、ソルディグは部屋から消えた。それを追うように、ユーリが僕に背を向ける。

 その時、僕は無意識に、ただ一言だけ発していた。


「ユーリ。……元気で」


 僕の情けなさを凝縮させたような、一言だった。

 ユーリは振り返らずに、肩越しに僕を見た。どんな眼をしていたのかは、分からなかった。


「……っ、さよなら、ロージャ」


 そうして、ユーリは出ていった。もう僕の元には、戻ってこないだろう。




 僕は前回と同じように、治癒院をすぐに退院して、宿に戻ってきていた。ティティが心配そうな顔をしていたけれど、挨拶すらする余裕は無かった。ガエウスの姿は、見当たらない。

 僕は自分の部屋で、寝台に身体を投げ出して、横になった。そこで、ようやく気付いた。


 僕は何もかも、間違えていたんだろう。自分の強さも、彼女の心も、彼女との接し方も、何もかもを。

 僕は力の限界にぶつかって、ユーリは僕よりも力にも心にも優れた男と出会って、惹かれた。僕の隣にいることに価値を見出せなくなって、僕はそれに焦って、壊れて、余計に彼女の足枷になった。そしてユーリは、僕よりも優れたその男を選んだ。

 なんてことはない。彼女の選択は自然だ。僕は長いこと傍にいたという唯一の強みも活かせずに、ただ自分の情けなさで、彼女を離してしまった。それだけのことだ。



 そう思うのに、涙は止まらなかった。



 ユーリとの思い出ばかり浮かんで、彼女の笑った顔や怒った顔を思い出して、胸が痛かった。

 僕は負けて、いちばん大切なものを失った。僕が弱いから。力も心も弱い僕が、彼女を守れる訳もなかったんだ。

 けれど、それでも、傍にいたかった。信じていたかった。

 僕は、傍にいるべきだったんだ。力を示すだとか、彼女を取り戻すとか、そんな言い訳で彼女から逃げずに、彼女の傍で、彼女の悩みと向き合って、言葉を尽くすべきだったんだ。

 僕は、間違えた。間違えて、失ってしまった。


 ソルディグも悪いだろう。ユーリだって、きっと悪い。だけどいちばん悪いのは、僕だ。情けない僕が、するべきことをしなかった。だから彼女は、行ってしまった。僕は馬鹿だ。



 僕はただ、声をあげて泣いた。死んでしまいたいけれど、そうすればユーリは悲しむだろう。それは、嫌だった。

 涙は止まらなかった。泣き止んでも、きっと僕はもう前を向けないだろう。もう、どうだってよかった。



 そうして僕は、挫けた。




 どれくらいの間、泣いていたのかは分からない。日付が変わっていたのかも、分からない。

 けれど涙が涸れた後、僕の思いはひとつだった。




 村に、帰ろう。

 僕は村から出るべきじゃなかったんだ。













 全てを話し終えて、口を閉じる。

 どれくらい長く話していたんだろう。外はまだ暗い。僕が勘違いしているだけで、実は話し始めてからほとんど経っていないのかもしれない。


 僕は話している途中から、シエスとルシャの方を向いていられなくなった。自分の情けなさが、恥ずかしかった。今もまだ、俯いている。二人もまだ、何も言わない。


 過去を思い出して、言葉にして、改めて分かったことがある。僕は結局、怖いのだ。またユーリみたいな、全てを預けた相手から、捨てられることが。

 勿論、仲間のことは信じている。聖都で、メロウムの前でルシャに叫んだことは、嘘じゃない。でも心まで、魂まで預けるのが、怖かった。

 ただ守るだけじゃなくて、彼女たちのために生きて、彼女たちの喜びを自分の喜びにするのが、怖かった。

 僕はまだ、過去を振り切れていない。




 気が付くと、僕の腕を、小さな手が握っていた。見上げると、シエスが立ち上がっていた。無言で僕の腕を、引いている。

 訳も分からず、僕も立ち上がる。シエスは僕を、寝台まで引いていく。


「座って」


 シエスに言われた通り、寝台に腰掛ける。シエスとルシャも、僕を挟むようにして座った。

 座った途端、シエスは僕の腕の下に潜り込んで、胸に抱きついてきた。顔を胸に押し付けている。


「……シエス?」


「……ロージャのこと、ようやく分かった気がする」


 シエスがぽつりとつぶやく。


「それが、嬉しい。……ロージャは、苦しんでいるのに。ごめんなさい」


 シエスはなぜか僕に謝っていた。そんな必要は無いのに。やっぱりシエスは、優しい娘だ。

 シエスが胸から顔を離して、僕を見上げた。眼には、見たこともないような、意思の強い光が灯っていた。


「……ユーリとのこと、私には、よく分からない。けど……私は、ロージャの傍にいる。ロージャがいやだって言っても、傍にいる。隣でロージャのこと、ずっと見てる」


 シエスは、変わった。出会った時とは比べようもないほど、力強く生きている。彼女の眼にはもう、諦めたような色も、縋るような色も無かった。


「ロージャのことが、大好きだから。……だから、信じて。私のこと」


 そう言って、シエスは凛と微笑んだ。

 いつの間にか、彼女は僕への依存を止めて、自分の意思で生きている。そして、それでも僕の隣にいたいと、言ってくれている。



「貴方は……それだけの過去の後で、それでもシエスと、私を救ってくれたのですね」


 ルシャが、僕の首に腕を回した。抱き締められる。ルシャは僕の肩に頬をのせて、身体を僕に預けていた。


「貴方の強さが、分かった気がします。貴方は心が折れた後でさえ、優しさを見失わなかった。それは、強さです」


 ルシャの声はどこまでも優しかった。


「ロージャ。貴方はもう私にとって、神よりも大切なのです。だって貴方は、私が落ち込み傷付いたら、必ず傍に来てくれるでしょう?」


 ああ。絶対に、傍にいる。もうユーリの時のようには、逃げない。それだけは、誓って言える。


「私も、貴方が辛い時、苦しい時、必ず傍にいます。……できればそれ以外の時も、ずっと傍に、いさせてください。……貴方のこと、私はもう、愛していますから」


 ルシャはそう言って、腕に少し力を込めた。僕から離れたくないとでも言うように。




 気が付けば、僕は泣いていた。

 二人は僕にもう、何もかもを預けてくれている。弱い僕を、それでも肯定してくれて、傍で僕を支えると、言ってくれている。

 そんなシエスを。そんなルシャを。信じないなんて。僕はまた、間違いかけていた。でも二人のおかげで、今度は踏み止まれた。

 二人を、抱き締める。強く強く、抱き締めた。


「んっ」

「あっ」


 二人から声が漏れる。構うものか。僕だって、彼女たちの傍にいたい。その思いの強さをぶつけるように、力を込めた。


「ありがとう、シエス、ルシャ。……ずっと傍に、いてくれるかな。僕を信じていてほしい。僕がまた馬鹿をやったら、傍で叱ってほしいんだ」


 僕の声はぐしゃぐしゃで、けれどなぜか清々しく響いた。

 二人が僕を見上げて、笑う。


「ん。ロージャは私たちがいないと、駄目だから」

「ふふ。そうですね。飽きたって、離してあげませんから」


 飽きるなんて、あり得るものか。二人がいないともう、僕は今度こそ、生きていけない。僕は泣きながら、二人につられて笑った。



 今、僕は決めた。彼女たちに、何もかもを預ける。

 彼女たちは、何に替えても僕が守る。けれど彼女たちにも、守ってもらおう。僕の背中も、魂さえも。




 そうして、僕らはそのまま三人一緒に、子どものように固まって眠った。


 僕はようやく、本当に久しぶりに、今を生きる覚悟が胸に満ちるのを感じた。

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