第59話 過去 六

 それから、たぶん数日が経った。



 僕は王都の中心、王宮の中にある『王庭』にいた。正確には、『王庭』の前の小部屋で、呼ばれるのを待っていた。

 ここからでも王宮に満ちる喧騒が遠く聞こえてくる。僕らのような一般市民は普段王宮に立ち入ることは許されない。毎年、この闘技会の時期だけ王宮は厳重な警備の下で開放されて、王都の市民は勿論、商人や冒険者も国中から集まってくる。

『王庭』は、普段は王族直属の近衛軍の鍛錬場だったはずだ。けれどただの鍛錬場にしては大きすぎて、そればかりかかなり大規模な観客席まで備えている。一見すると完全に、王族が酔狂で作り上げた闘技場だった。だから、王都では闘技会のためだけの場だと思っている人々も多い。

 前の試合が決着したのか、『王庭』から大きな歓声があがった。観戦する人々の声だけで、少し離れたこの部屋の空気まで震えている。



 僕の心はもう壊れきってしまったのか、頭の中はやけに凪いでいた。周囲を意識する余裕まで戻ってきていた。けれど正常ではないだろう。

 ソルディグに勝って、ユーリに力を示す。それだけを考えている。勝てるのかどうかも、力を示せば本当にユーリは戻って来るのかということも、もう考えなかった。考えられなかった。

 見知らぬダンジョンで鎚を振るい続けて、僕は訳も分からず、不思議な『力』を得た。僕の望みに応じて、僕に全てを壊す力を与える、無機質で不気味な何か。これが何なのか、僕は何を代償にこれを得たのか、何一つ分からないけれど、今は『力』を得たというだけで十分だった。ソルディグに勝てるなら、ユーリを取り戻せるなら、何だっていい。



「ロジオン様。『王庭』に向かってください」


 小部屋で静かに控えていた、闘技会の運営の人から、声をかけられた。頷いて、立ち上がる。鎧が擦れ合って、耳障りな音を立てた。

 盾も鎚も鎧も、自前のものではない。闘技会の運営側が準備した武具だった。闘技会で殺しは禁止されている。どれだけ全力でぶつかっても死傷者が出ないようにという配慮だろうけど、慣れない武具が少し煩わしかった。


 小部屋を出て、『王庭』へと通じる道を辿る。道は細く、そして暗かった。

 僕はもう何度か試合に出て、勝ち進んでいる。けれどこの道を歩く度に、おかしくなったはずの頭が一瞬だけ正しく回って、僕の後ろに誰もいないこと、隣にユーリがいないことを寂しく思ってしまう。僕は今まさに、とんでもない間違いをしでかしているような錯覚に囚われかける。

 けれど、他にどうすれば良かったというんだ?僕の大好きなユーリが違う男を見つめ始めて、違う男の力に惹かれ始めて、そして心まで移していくのを、どうすれば止められたというのだろう。僕を信じる代わりに、僕を怯えたような眼で見るようになって、違う男の方を頼るようになったユーリに、なんと言えば良かったのだろう。


 頭を振る。この思考は無意味だ。もう気が遠くなる程に悩んで、それでも答えを出せていないのだから。



 道が終わる。視界が開ける。

 目の前には、『王庭』を埋め尽くす観客と、彼らの歓声の中で、軽装に身を包んだ細身の青年がひとり立っていた。彼はただ静かにこちらを見ている。

 僕も彼に近付く。闘技会の試合では毎回、試合前に握手を交わす取り決めになっている。


「驚いたよ、ロジオン。これまでの試合、君はまるで別人だった」


 ソルディグの声には、珍しく本当に意外そうな響きがあった。


「今の君なら、僕に届きうるかもしれない。けれど、約束は約束だ。良い試合にしよう」


「……ああ」


 握手を交わした後、僕とソルディグは共に、王族の席に向けて見上げた。礼を捧げる。頭を下げる直前、観客席にユーリの黒髪が見えた気がした。


 それから、距離を取る。規定の位置まで歩いてから、振り向いた。ソルディグは既にこちらを向いていた。一つ、息を吐く。合図を待つ。

 僕は何かを間違えているかもしれない。けれど今は、力を示す。それだけだ。


 そして高らかに、角笛が鳴った。




 僕は合図と同時に前に跳んだ。

 景色が一瞬で後ろに流れていく。歓声も何ももう聞こえない。跳びながら、鎚を構えた。

 ソルディグはまだ、剣を抜いていない。


 ソルディグは魔導剣士だけれど、この闘技会で直接の攻撃に魔導を用いることは禁止されている。ソルディグも『靭』以外は使ってこないだろう。僕の『力』は未知数だけれど、『靭』とさほど変わらない効果だとするならば、後は純粋に、戦士としての技量の勝負だった。

 けれど僕は、守る以外能の無い男だ。小細工を弄しても、絶対に勝てない。だから、がむしゃらにぶつかるだけだ。


 真正面から、ソルディグの脳天目がけて鎚を振り下ろす。ぶつかる直前、彼はかき消えていた。鎚はそのまま落ちて、爆発したような音と共に大きく地を抉った。


「信じられない、馬鹿力だな」


 横、少し離れたところから声が聞こえる。瞬時に鎚を横へ薙ぐ。ソルディグはまた消えた。けれど今度は気配が追えた。後ろ。

 振り向かず、脚に『力』を込めて、後ろに跳ぶ。


「動きが、速すぎる。けれど魔導ではない。……何なんだ、その力は」


 戦闘中だというのに、冷たく静かな声が聞こえる。彼にとっては、僕はまだ脅威ではないということか。

 跳びながら振り向き、身体を捻りながら鎚を振り下ろす。ソルディグの身体はまだ動かない。捉えたように見えた、直後。

 背筋が震えた。僕が認識するより速く身体は勝手に動いて、片手を無理矢理鎚から手放して、背から盾を取っていた。

 鎚が触れる瞬間、ソルディグは僕の鎚をほんの身じろぎで躱して、同時に剣を抜き、刃をすくい上げた。鞘走りの音もせず、殺意など欠片も見せずに、けれど彼の剣は僕の空いた脇を、鋭く穿とうとしていた。速すぎる。

 僕はその剣を、無理な体勢のまま盾で受けた。驚く程に重い。僕の身体ごと浮き上がるような力。けれど『力』のおかげでそれを弾き返すことができた。僕は無意識の内に、後ろに跳んで距離を取っていた。


 この男。剣技だけでも、練度が僕の比ではない。剣筋に一切の無駄がなく、油断も驕りも無い。同じ年頃であるはずなのに、既に完成されている。


 こんな男に勝たなくてはならないのか。



「合わせたつもりだったが……滅茶苦茶だな。それは、人間が耐えられる動きなのか?」


 彼の声にまた、少しの驚きが混じった。


「なあ、『ロージャ』。教えてくれ。その力は一体何だ」


 ソルディグが、なぜか僕を愛称で呼ぶ。挑発のつもりなのだろうか。そう理解しながらも、僕は心がささくれ立つのを感じていた。


「そう呼ぶことを、君に許したつもりはない」


「ああ、済まない。知らぬ間にユーリからうつっていたようだ」


 そう言ってソルディグは笑った。下手な、挑発だった。でも馬鹿馬鹿しい程に、僕の胸の内は荒れた。

 ユーリはきっと本当に、ソルディグの前でも僕のことを良く話していただろう。僕だってユーリのいないところで、ユーリのことばかり考えて、ユーリのことばかり話しているのだから。

 それなのに、どうしてユーリは、ソルディグのことも好きになってしまったのだろう。僕だけでは駄目だったのかな。僕が、弱いから。


 笑うソルディグが、敵に見える。

 この男が、一番悪い。急に僕らの間に割り込んできて、僕らをおかしくして。この男が、いなければ。

 僕はこんな思いをせずに済んだのに。ユーリも悲しませずにいられたのに。ユーリが僕から少しでも離れることなんて、無かったのに。


 そうだ。この男がいるから。

 僕は、失いかけている。






 地を蹴る。ソルディグの横を音より速く駆け抜ける。すれ違う瞬間、ソルディグの眼は僕を一瞬、見失っていた。

 彼の後ろに無理矢理に跳び、鎚を振る。


「……っ!」


 ソルディグは横に跳んだ。今度は、見えている。僕も彼に合わせて、跳ぶ。彼の背を追い越して、彼の進む先で脚を地に叩きつけて、強引に立ち止まる。

 ソルディグと目が合う。彼の顔には、驚愕の色があった。無視する。

 そして、がら空きの背に向けて、鎚を横薙ぎに、全力で叩き込んだ。


 ソルディグは、吹き飛んだ。吹き飛んで、『王庭』の壁に叩きつけられる。轟音が響いて、壁に無数のヒビが走る。壁の上にいる観客たちから、悲鳴があがった。

 ソルディグはすぐに壁から離れた。口元には血が見える。けれどまだ、戦えるようだった。


「……まだ、速くなるとは――」


 なにか口走る彼に向けて、また跳ぶ。だが今度は彼も僕を目で追えているようだった。

 一瞬で正面に詰めて、視界の下から鎚をすくい上げる。ソルディグは一歩引いて、それを躱した。躱し方は先程よりも雑だった。一瞬の隙が見える。ソルディグの目の前で振り上げた鎚を彼の胸あたりで急停止させて、そのまま鎚の頭で思いきり、胸を突いた。

 瞬間、左肩に鋭い痛みを感じた。交差の瞬間に、ソルディグの剣が僕の視界の外で、鎧の隙間を過たず抉っていた。傷はかなり深い。骨に届いているかもしれない。腕を動かすと激痛がする。無視する。


 また後ろに吹き飛んだソルディグを追って、地を蹴る。彼は今度は踏みこたえて、止まっていた。彼が僕を捉え直すより速く、僕はまた無理矢理に、彼の背に回った。

 ソルディグはもう、僕の速さに対応し始めていた。死角に回ったはずの僕に向けて身を捩って、もう剣を振り始めていた。

 けれど、剣速は落ちていた。口元の血は止まっていない。胸当ては大きく凹んでいる。骨も折れているだろう。恐らくは、あと一撃。あと一撃、思い切り叩きつけられれば、勝てる。


 油断は無かった。

『力』を意識する。今振り始めても、僕の鎚はソルディグの剣より速く彼の身体に届くだろう。確信していた。

 僕のありったけを、腕に、腹に、鎚に込める。


 ソルディグを倒して、ユーリを取り戻す。その未来が、もう目の前にあった。負けない。何も失わない。僕は、勝ち取るんだ。ユーリに、僕は君の隣で君を守れるんだと、示すんだ。


 油断は、欠片も無かった。

 想いも全て込めて、鎚を振り始めた、その瞬間。




 どうしてか、遠く視界の先、『王庭』の壁の上で身を乗り出すユーリが見えた。表情までよく見える。不安そうだけれど、けれど強い意思を込めた眼をして、こちらを見ている。

 そして僕は、僕が世界でいちばん好きな声を聞いた。






「ソルディグっ!!!」






 僕の大好きな響きで、けれど僕ではない男の名を叫ぶ声を。




 僕の身体は止まっていた。震えすら感じた。

 どうして。どうして、僕を呼んでくれないんだ。どうしてこの男を呼ぶんだ。僕は力を示せるのに。僕はこれからも君を、守れるのに。



 そして、僕が止まった刹那に、ソルディグの剣は僕の胸を、鎧ごと斬り裂いていた。

 胸と口から血が吹き出す。脚から力が抜けて、仰向けに倒れていく。それすらどこか他人事のように見えた。ユーリがソルディグを呼ぶ声が頭の中で木霊して、僕は自分の命にすら、意識を向けられなくなっていた。

 すぐに視界が暗転した。意識が途切れるその瞬間まで、ユーリの声だけが脳裏にこびり付いて、離れなかった。


 どうして。

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