第57話 過去 四

 それからようやく一月が経って、僕らは久しぶりにダンジョンに潜った。

 僕の身体は快復していて、もう鈍りも無かった。ただ頭の中は焦りと不安に満ちていて、嫌な夢ばかり見るせいか眠りも浅くなっていた。


 潜る先は、肩慣らしが目的なので低難度のダンジョンを選んだ。王都周辺には数時間で通えるダンジョンも多く、そのどれもが攻略され尽くされていて、今では低級の冒険者が通う場となっていた。僕らはその中でも王都から一番近い、黒山羊丘に向かった。


 今回は僕の動きと、パーティ内の連携を今一度確認するのが目的、だったのだけれど。


「ユーリっ!前に出すぎだっ」


 僕の脇で、ガエウスが叫んだ。ユーリは声に振り向きもせず、僕の前に出て剣に魔導を走らせていた。そのまま一振りで、狼の魔物を数体まとめて斬り伏せる。

 ユーリの魔導は、見違えるほど洗練されていた。たった一月で、彼女は魔導と剣技の併用に熟達していて、流れるように魔導剣を操っていた。けれど。


「おいっ、ロージャ!何ボサっとしてやがるっ、ユーリがヴォルクに囲まれてるぞっ」


 声と同時に、ユーリを囲んだ狼の群れ近くにガエウスの矢が突き立つ。一瞬の間の後で矢が小さく爆発して、耳障りな異音がけたたましく響いた。威力よりも音で魔物を撹乱する、ガエウスの魔導。狙い通り、狼たちは明らかに動揺していた。


 その隙に、僕は群れの中に飛び込む。ユーリは剣でヴォルクを一体ずつ薙ぎながら、また魔導を準備しているようだった。まだ少しかかるのかもしれない。僕が時間を稼がないと。

 ユーリの傍まで走って、彼女の背に立って盾を構えた。僕は彼女の後ろの狼を受け持つと、そう示したつもりだったのだけれど、彼女はすぐに僕から離れてしまった。


「ロージャ、引いて」


 ユーリは低く抑えた調子で僕に告げる。苛立っている時の、ユーリの声だった。なぜ?

 頭の中に湧き上がる疑問を無理矢理にねじ伏せて、ユーリの言葉通りに距離を取る。

 飛び込んだばかりの狼の群れを抜けた、刹那。僕の後ろで、聞いたこともない轟音が響き渡った。慌てて振り向く。すぐに暴風が襲ってきて、僕はその風に耐えて立っているのがやっとだった。ユーリの魔導、だろうか。物凄い威力だった。

 風と土煙が収まって、視界が開けた。僕の前の地が大きく抉られている。その中心にはユーリが立っていて、彼女の周囲には焼け焦げた狼が複数斃れていた。ユーリはまだ雷の奔る剣を鞘に収めながら、周囲を見回している。


 ユーリはこの一月で、恐ろしく強くなった。けれどそれを心から喜べないのはなぜだろう。

 また実力の差が開いてしまったことが悔しいのか、それともさっきのように、彼女が僕の守りを必要としなくなりつつあるのが悲しいのか。それとも。



 戦闘が終わって、ユーリは僕に近付いてきた。


「ロージャ、さっきはごめんなさい。魔導を放つ直前で、余裕がなくて。……怪我は、ない?」


 僕を気遣うユーリの声は優しかった。


「ああ、大丈夫。それより今のは、新しい魔導?」


 僕は笑って答えた。不安も焦りも顔に出ていないことを祈りながら。


「いえ、新しくはないわ。ただ最近は魔導に慣れて、以前より出力を出せるようになったみたい」


 ユーリは誇らしげに話している。紛れもなく彼女の努力の成果だ。僕もいつもならそれを彼女と一緒に、手放しで喜べるはずなのに。


 ふと後ろから近付く気配があった。ガエウスとナシトだった。振り向くと、ガエウスがあからさまに不機嫌な顔をしていた。


「おい、嬢ちゃん。さっきのは一体、どういうつもりだ」


 声が普段よりずっと冷たい。ガエウスが冒険の時だけ見せる真剣な眼差しで、ユーリを見据えていた。


「対集団にも私の魔導が通用するか、試したのよ。ロージャには少し迷惑をかけてしまったけれど、概ね問題はな――」


「本当に、問題ねえと思ってるのか?ひとりで突っ込んだお前を守りに行く時、敵の狙いがロージャからさらにバラけて、逆に全員が危なくなったのにか。ロージャの守りを分散させてでも、お前がロージャの前に出張り続ける方が、強えって言うのか?」


「……」


「俺たちのパーティは、ロージャが軸だ。そのロージャを嬢ちゃん、お前が撹乱しちまうような攻め方は、流石に認めらんねえな」


 ユーリを遮るガエウスの声は静かで、けれど相当な圧を持っていた。ユーリも僕も、固まってしまう。

 ガエウスがそんな僕らを見て、ひとつため息をついた。


「……いいか。お前らが最近、何に悩んでンのかは知らねえ。興味もねえ。そりゃお前らの問題だからな。だがな。戦いの間さえてめえの悩みも振り払えねえ奴が、剣を振るうんじゃねえ。冒険の時はただ冒険だけに命を懸けろって、いつも言ってンだろうが」


 それだけ言って、ガエウスは背を向けた。彼の言葉が耳に痛かった。僕も、戦いに全然集中できていなかった。

 ……今日はもう、これ以上は無理だろうな。そう思って、皆に撤収を告げようとした時だった。ふとユーリを見て、言葉が出なくなる。

 ユーリの眼は、暗く淀んでいた。また、見たことの無い表情。不安がまた、僕の胸の中で大きくなる。


「……私は、守ろうとしただけなのに」


「ユーリ?」


「……なんでもないわ。しばらく、ひとりにさせて」


「……ああ」


 ユーリは、声までも深く落ち込んでいた。けれど彼女の拒絶するような態度に僕は怯えてしまって、結局それ以上突っ込んで聞くことはできなかった。

 ダンジョンからの帰路は、誰も喋らなかった。今まで感じたこともないくらい険悪な雰囲気だった。




 ダンジョンから戻った日の夜。僕はユーリの様子が気になって、彼女の部屋を尋ねることにした。

 僕らの関係がおかしくなっていたって、ガエウスに叱られたって、僕にとって一番大事なのは、ユーリのことだ。それは絶対に変わらない。だから彼女と向き合って、彼女の想いを聞きたかった。悩みがあるなら力になりたかった。その悩みの原因が他でもない僕だったとしても、打ち明けてほしかった。


「ユーリ、いる?話したいことがあるんだ」


 震えをどうにか押し隠して、ユーリの部屋の前で声をかけた。一緒に夕食を食べたから、彼女も部屋にいるはずだった。

 なのに、反応が無い。部屋の中に気配も無かった。


「ユーリ?」


 扉の鍵はかかっていなかった。悪いと思いながら、少しだけ開けて部屋の中を覗く。

 中には誰もいなかった。寝台の近くには、ユーリの軽装鎧と剣が立てかけてあった。どこかに出かけたのだろうか。武具も持たずに。

 理由も分からず、ただ嫌な胸騒ぎがした。思わず宿屋の一階まで降りると、宿屋の看板娘、ティティが不思議そうに僕を見ていた。


「ロジオンさん。どうしたんですか?お出かけですか、こんな夜更けに」


 ティティは明るく笑いながら僕に問いかけてきた。


「いや、そういう訳じゃないんだ。……ティティ、ユーリを見なかった?」


 ティティはいつも宿の受付に立っている。もしユーリが出かけていったなら、彼女が何か知っているかもしれない。


「ユーリさん、ですか?……ああ、少し前にどこかへ出かけて行きましたよ。……なんだか辛そうな顔、してました」


 ティティの言葉に、一瞬息ができなくなる。ユーリはこれまで、何か辛いことがあった時はいつも、真っ先に僕のところに来てくれたのに。

 僕はいてもたってもいられなくなって、宿屋を駆け出た。後ろからティティの声がしたけれど、言葉を返す余裕は無かった。



 無我夢中で走って、気が付くと僕は、王都の中心近く、ソルディグたち『蒼の旅団』の拠点まで来ていた。

 彼らは王都で活動しているパーティだから、王都に拠点となる土地を保有している。けれど拠点と言っても、豪勢な訳ではなく、門衛もいないごく普通の一軒家に見えた。ただメンバーの多さに比例してか、大きさは立派なものだった。


 入り口の前で、立ち止まる。なんで僕は真っ先にここに来たのだろう。ユーリが僕ではなく、ソルディグを頼ったのだと、そう思ったのだろうか。

 大した距離を走ってもいないのに、息が上がっていた。心臓の音がいやに煩い。

 夜はまだそこまで深くない。別に、今僕がこの家のベルを鳴らしても、迷惑ではないだろう。ユーリが来ていないか尋ねて、いなければ非礼を詫びて、そのまま帰れば良いだけだ。

 けれど、もし中にユーリがいたら。その想像をするだけで、僕は心が折れそうだった。ユーリがソルディグと知り合って、一月かそこらしか経っていないのに、ユーリが今ここにいたら。ユーリにとって彼の存在はもう、僕より大きくなっているということになる。もしそうだとしたら、僕は真っ直ぐ立っていられる自信さえ無かった。

 だから、確かめるのが怖かった。あと数歩踏み出して、ベルを鳴らすだけなのに、どうしてもそれができなかった。もしここでユーリと会ってしまったら、僕は自分の生きてきた意味まで、疑ってしまいそうだった。


 ふと、上を見る。拠点の二階の窓に、誰かが見えた気がした。僕の良く知る黒髪が揺れたように見えた。影は倒れ込むように消えて、すぐに見えなくなる。


 目を擦る。僕は今明らかに、正常じゃない。気が動転している。それは分かっているのに、妄想に近い想像が僕の頭を駆け回って、けれど身体はぴくりとも動かなくて、どうしようもなかった。


 僕は静かに、おかしくなり始めていた。




 気が付くと、僕は宿に戻ってきていた。自分の部屋で寝台に腰かけて、じっと頭を抱えている。帰り道のことはほとんど覚えていなかった。

 時間はかなり経っているようだったけれど、ユーリの気配はまだ無かった。眠ろうと横になっても、眠気は一切感じなかった。何も考えられず、朝を迎えるまで微動だにせず、ただ虚空を見つめていた。


 また少し意識が飛んで、朝日が昇る頃には僕は鎚を手に、宿の前にいた。身体中に汗が滲んでいることに気付いて、一拍遅れてただ無心で鎚を振っていたことを思い出す。

 身体を動かしたのが良かったのか、それとも朝日のおかげなのか、僕の思考は少しずつ普段通りに戻っているように思えた。ユーリにだって、一人になりたい時くらいある。一度、たった一度頼りにされなかったくらいで、動揺しすぎなんだ。僕はユーリに依存し過ぎている。

 そう自分を納得させていると、王都の中心へ延びる道から、ユーリの姿が見えた。思わず駆け寄る。

 ユーリは僕に気付くと、一瞬だけ眼を揺らして、けれどすぐにいつもの様子に戻った。


「ユーリ!どこに行っていたのさ。急にいなくなるから、心配したよ」


 僕は自分の口から声が響くのを、どこか他人事のように聞いていた。


「……ごめんなさい。でも、言ったでしょう。ひとりになりたい気分だったの。……酒場で酔って、寝てしまっていたわ」


 ユーリの声には元気というか、いつもの芯がなかった。そして、僕から目を逸らしたがっていた。

 これも僕の妄想だろうか。僕の頭はまだおかしいままなのだろうか。だって、ユーリは僕を非難したり、憎々しげに見つめることは良くあっても、申し訳無さそうな色で僕を、距離を置くように僕を見ることなんて、今まで一度も無かった。


「ごめんなさい、まだ少し、眠りたいの」


 ユーリはそれだけ言って、足早に僕の脇を抜けていった。すれ違う一瞬、ユーリの首元が見えた。首元は一箇所、不自然に赤く、赤黒くなっていた。

 きっとこれも、僕の勘違いだろう。妄想が見せた幻覚だろう。だけど僕の理性はもうその時、擦り切れてしまっていた。




「今、ソルディグはいるかな」


 僕は『蒼の旅団』の拠点から顔を出した女性に、そう尋ねていた。この人は確か、ゼムリ・ズメイ討伐の際に一緒にいた、背の低い帝国出身の子。


「君は……ああ、ユーリのところの。少し、待っていてくれるかな」


 そう言って、彼女は家の中に消えていった。一旦、扉が閉まる。ほとんど待たずに、再度扉が開いた。

 先程と同じ女の子がまた顔を出す、


「どうぞ、入って。ソルディグは、二階にいるよ」


「ありがとう」


 僕はすぐに彼女の脇を抜けて、階段に向かった。


「……来れるなら、もう少し早く来れば良かったのに」


 去り際に後ろから聞こえた声には、どこか嘲笑うような憐れむような響きがあった。僕にはもう、それが現実なのか妄想なのか、分からない。



「よく来た、ロジオン。何の用かな」


 ソルディグは部屋の椅子に座っている。僕も椅子を勧められたけれど、立ったままでいる。一度でも力を抜いたら、へたりこんでしまいそうだった。


「……ユーリと、もう会わないでくれないか」


 僕の声は明らかに震えていた。ソルディグは眉を上げて、少し不思議そうな顔をする。


「ユーリと取り決めた一月の後は、もう会っていないが。……けれど、ふむ。俺としては引き続き彼女を勧誘したいと思っている。会わないというのは、少し受け入れ難いな」


 ソルディグの声はどこまでも落ち着いていた。昨晩会ったのか、とは聞く気は無かった。


「ユーリを鍛えてくれたことは、感謝している。けれど、これ以上は、僕らの連携に響く。君らと僕らでは、戦い方が違うんだ」


「なるほど。一理ある。だが俺は、君のパーティに彼女、ユーリは過ぎた力だと思っている」


 そう言うと、ソルディグは目に力を込めた。それだけで僕は圧倒されてしまう。この眼は、苦手だ。


「最大の理由は、君だよ。ロジオン」


 ソルディグの声は冷酷にさえ聞こえた。


「君はもう限界だ。君のパーティの戦い方は君に合わせたもので、最善のものでは無い。大規模な魔導戦や目にも見えぬ機動戦には、君がついていけない。君だけが、だ。俺は特に、君のせいでユーリが埋もれていくのを、許せない」


「……勝手なことを、言わないでくれ」


「勝手ではないさ。君以外の皆がそう思っているはずだ。ユーリも、な。飾らず言えば、君は盾ではない。君はユーリの足枷に過ぎない」


 ソルディグの一言一句は、僕の心を深く抉った。彼の言葉と同じことを、僕自身思い続けていたから。けれど、悩んでいたからこそそれを否定するために、ずっと鍛錬を続けてきたのだ。そして、僕が足枷だということを否定できているから、僕は王都まで来れたのだと信じていた。



「引く気はない、か。……なら、こうしよう。俺は君の力を疑っている。君はユーリを俺から遠ざけたい。ならば、君は俺に力を示してくれ」


「……どうやって?」


「決闘というのは外聞が悪いが、幸い良い機会がある。近く、ここ王都で闘技会が開かれる。君も知っているだろう。王族主催の、年に一度の見世物だよ。そこで俺に勝てたのなら、俺は今後一切ユーリに関わらないと誓おう」


 闘技会。聞いたことはある。王宮の中、『王庭』と呼ばれる広場で行われる、由緒正しき王都の娯楽。刃の潰れた武具を扱い、魔導は肉体を強化するもの以外が禁止される。


 ソルディグは笑みも怒りもせず、淡々と僕に提案してきた。何もかもが彼の手の内であるような、彼の掌の上で足掻いているだけのような、そんな思いに囚われる。

 けれど。僕の力を疑っているのは、きっとソルディグだけじゃない。僕が限界だとユーリも思い始めているのなら、僕はここで彼を打ち倒さないといけない。

 そうしなければ、ユーリは僕の元に戻ってきてくれないと、半ば狂った頭でそう信じていた。


「……分かった。受けよう」


「ああ。なら、『王庭』で会おう。俺と当たるまでに、負けるなよ」


 そう言ってソルディグは今日初めて、笑った。




 彼らの拠点を出て、宿までの道を歩く。ソルディグは、魔導抜きでも超一流の剣士だ。僕だって何度も彼の剣を見ている。ユーリでさえ足元に及ばない程の力と技巧の持ち主だった。勝ち目は、見えない。


 けれど僕は、縋るしかなかった。

 もうユーリの心まで彼のところにあるなんて、認めたくなくて、僕はただこの戦いに全てを懸けるしかなかった。

 そうしていなければ、僕の心はもう、保たなかった。

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