第56話 過去 三

 どれくらい気を失っていたのだろうか。悪夢を繰り返し見たような気がする。


 目を覚ますと、僕は見知らぬ部屋で寝台に寝かされていた。左手に、温かい感触がする。見ると、ユーリがいた。泣きそうな顔で、僕の手を握っている。


「目が覚めたのね、ロージャ」


「ユーリ。……ここは?」


「王都の治癒院よ。あなた、丸三日も眠っていたのよ。心配ばかり、かけて」


 ユーリはそう言って、立ち上がる。手が離れていく。


「待っていて。今、先生を呼んでくるから。動かないでね。もう魔導で治っているはずだけれど、あなたの腕と脚、ちぎれかけていたのよ」


 僕の答えも待たず、ユーリは部屋から出ていった。


 彼女の泣きそうな顔が脳裏から離れない。僕のせいで、心配をかけてしまった。

 それに、そんなに長く眠っていたのか。身体は鈍ってしまっているだろうな。一日でも鍛錬を欠かせば、ただでさえ大きい仲間たちとの実力の差がまた広がっていくのに。そう思いながら、手足に少しだけ力を入れてみた。ユーリの言葉通りどこにも痛みはないけれど、違和感があるような気がする。どこか、自分の物ではないような。

 僕は今回、確かにユーリを守れたかもしれない。けれど僕は怪我を負って、戦闘不能になった。ユーリを悲しませてしまった。このままではこれからも、皆の足を引っ張るだけだろう。もっと強くならないと。

 焦っても仕方ないのに、どうしようもなく焦りは僕の身に満ちる。けれど、これ以上強くなるための手段は、何一つ見つかっていなかった。



 僕の身体は、命に別状はなかったものの、かなり危ない状態だったらしい。腕と脚の筋がズタズタになっていて、加えて発熱で意識も戻らなかった。治癒がもう少し遅れていたら、完治していたかは分からないほどだったという。

 僕が意識を失った後、僕らのパーティと『蒼の旅団』は無事にゼムリ・ズメイを討伐して、その後全速力で王都まで戻ってきた。王都の治癒院で癒しの魔導をかけてもらって、僕の怪我はなんとか完治したけれど、運の悪いことに高名な治癒師が王都を離れていたために高位の治癒の魔導を受けることはできなかった。手足の筋は再生されて繋がっているけれど完全に元通りという訳ではなく、再生された筋からは日々の鍛錬の成果がごっそりと消えて、僕の手足は治療前よりも明らかに細くなっていた。


 意識が戻った僕はすぐに治癒院を退院した。けれど大事を見て、冒険を再開するのは一月後ということになった。ユーリがそう主張して、引いてくれなかったのだ。ガエウスも珍しく、あまり強くは反論しなかった。

 ユーリも皆も僕のためを思ってくれているのだから、僕にできるのはただ、一刻も早く身体を元の状態に戻して、更に強くなることだけだ。この一月で、なんとかしないと。



 そう思って、退院した翌日の朝、僕は宿の裏庭で鍛錬を再開していた。まずは身体がどこまで衰えているのかを確認して、それから特に弱ったところから重点的に鍛え直していくつもりだった。


「ロージャ、何をしているの」


 鍛錬を始めてすぐに、宿から声がした。手を止めて見ると、ユーリが立っていた。少しだけ、怒っているような。


「ああ、ユーリ。おはよう。腕も脚も細くなっちゃったから、早く元の状態まで戻そうと思ってさ」


「……まだ安静にすべきよ」


 ユーリの眼は、怒りながらやっぱりどこか悲しそうだった。僕が傷付いたことに、責任でも感じているのだろうか。でも、僕が彼女を守ったのはそれが僕の役割で、僕が倒れたのはなにより僕が弱いせいだ。


「治癒師の先生から許可はもらっているよ。無理はしないさ。でも僕はもっと、強くならないと」


「……」


「……ユーリ?どうしたの」


 ユーリは黙り込んでしまった。理由は、分からない。

 僅かな沈黙の後、ユーリは口を開いた。表情は、辛そうにさえ見えた。


「……ロージャ、あなたは……怖くはないの」


「怖い?」


「冒険の果てで、死ぬことが、よ。格の違う魔物を前にして、明らかに死ぬかもしれない戦いの前で、あなたは怖くならないの?」


 ユーリの言葉はいつもよりずっと弱々しくて、僕は不安になる。どうしたのだろう。彼女の中の何かが変わってしまったような、そんな気がする。

 でも今の僕には、ただ自分の思いをそのままに伝えることしかできない。せめてきちんと伝わるように、ユーリの眼を真っ直ぐに見つめた。


「怖いさ。僕が臆病なのはユーリがいちばん良く知ってるだろ。戦いの前はいつも、手が震えて止まらないんだ。逃げ出せるのなら逃げ出したいとさえ思ってる。けど……僕の目の前で、ユーリや仲間が死んでいくのを見る方が、ずっと怖いよ。だから戦える。戦いたいと思ってる」


 瞬間、ユーリの眼が大きく揺れた。初めて見る、何かに怯えるような色。けれど彼女はすぐに目を伏せてしまった。

 先程から彼女の様子はおかしかった。そのことを踏み込んで聞こうとした、その時。



「……決めたわ。私、この一月だけ、『蒼の旅団』とダンジョンに潜る」


 ユーリが、予想だにしないことを言った。僕は訳が分からなくて、固まってしまう。『蒼の旅団』と?どうして?


「この間の帰り道に、誘われていたのよ。勿論彼らのパーティに入るつもりなんてないわ。けれど、彼らの戦い方は私と似ている。学べることは多いと思うの。昼は彼らと潜って、夜はナシトから魔導を学ぼうと思っているわ」


 ユーリは真っ直ぐに僕を見ている。意思の強い光が眼に灯っている。僕の好きなユーリがそこにいた。

 僕も、良い案だと思う。ユーリは魔導剣士としては新米で、だからこそ戦い方の似たソルディグたちから吸収できることは多いはずだ。けれどなぜか、『蒼の旅団』のソルディグの、あの冷たい眼が脳裏に浮かんで離れない。僕が気を失った後、容易く地竜を討伐したというソルディグ。彼とユーリが一緒にいることをなぜだか認めたくない。……これはたぶん、嫉妬だろう。


「私、強くなりたいの。ロージャ、あなたはいつも無理をしてしまうから。私がもっと強くなれば、そんなあなただって、守れる」


 ユーリの真っ直ぐな言葉を聞いて、すぐに自分が恥ずかしくなる。彼女は僕のために強くなりたいと言って、そのためにできることを全てやろうとしている。それなのに僕は自分の弱さを棚に上げて、醜い嫉妬だけでそれを止めたいと思っている。……そんなだから、弱いのだ、僕は。

 けれど僕は嫌だった。理由なんて無い。僕だって男だ。いつだってユーリの傍にいたい。他の男といてほしくない。

 でも、嫌だけど、僕とパーティのためを想うユーリを、止められる訳もなかった。


「……分かった。ならお互い、この一月でもっと強くなろう」


 だから僕はそう言って、無理矢理に笑った。ユーリは僕の答えを聞いて、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「ええ。でもあなたは病み上がりなのだから、無理は駄目よ。……昼は留守がちになってしまうけれど、夕方には必ず戻るから、心配しないで」


 ユーリの声にはいつものいたずらっぽい調子も戻ってきていた。無理はしないでと僕に何度も念を押してから、ユーリは宿に消えていった。


 一人になって、深呼吸をする。彼女は僕の恋人だ。心配なんて何もいらない。そう思って鍛錬を再開したけれど、ユーリの怯えたような眼と、ソルディグのことが何度も頭に浮かんできて、駄目だった。嫌な想像ばかりが勝手に湧き上がって、集中なんてできるはずもなかった。






 そして、それからの一月の間に、僕とユーリの間には、壁のような溝のような、見えない何かが広がっていった。


 初めの頃は、何も問題はなかった。僕はユーリと過ごす時間が減ってしまわないように、夕方からは必ずユーリの傍にいるように心がけた。ユーリもそれに応えて夕方早くには帰ってきてくれていたし、僕を見つけるとすぐに傍に寄ってきてくれた。


「ソルディグは、気に入らない所も多いけれど、実力は間違い無く一級品ね。あんなに正確に剣と魔導を同時に操れる人を、他に見たことがないわ」


「今日は黒山羊丘に行ったのだけれど、あそこは相変わらず虫が多いわね。次に行く時は虫除けを準備しないと。ロージャ、買っておいてくれる?」


 ユーリは『蒼の旅団』と共に近場のダンジョンに潜り、実戦の中で彼らから様々な指導を受けているようだった。その様子を語る彼女は生き生きとしていて、聞いていて楽しかった。

 毎日の鍛錬で身体の鈍りは取れ始めていても、今以上の強さを得る手段が見つからないことへの僕の焦りも、ユーリといる時だけは忘れることができた。



 けれど徐々に、本当に少しずつ、ユーリは自身の鍛錬の成果よりもソルディグ個人のことを好んで話すようになっていった。僕らの元に帰ってくるのも、少しずつ遅くなっていた。


「彼、思っていたよりも冷たい男ではなかったわ。故郷に妹がいて、その子のことを話す時は嘘みたいに優しい目をしていた」


「堅物に見えるけれど、意外に冗談も言うのよ。全く面白くはないけれど」


「剣しか持たないのに、後ろ姿が頼もしく見えるの。なぜかしら。私は彼のようにはできないわ」


 きっと彼女自身、自分の変化には気付いていないだろう。けれど僕には分かって、怖かった。ソルディグのことを語るユーリの表情は、少しずつ柔らかくなっているように見えた。彼女の鍛錬のためには、ソルディグと打ち解けるのは良いことだと分かっているのに、僕はただ怖かった。

 彼女が僕の傍から離れていっているような錯覚がして、背筋が震える。

 僕の身体はもう本調子を取り戻していた。けれど強くなれている実感は無い。更なる強さは変わらず遠くて、焦りはもう抱えきれないほどになっていた。


「……ユーリ。そういうのは、あんまり聞きたくないな」


 ある日、思わず僕はそう口走ってしまった。言ってから、すぐに後悔する。勝手に嫉妬して、馬鹿みたいだ。

 ユーリは僕の非難めいた言葉を聞いて、はっとしたような顔をする。


「……ごめんなさい。恋人のあなたの前で他の男の話なんて、浅はかだったわ。……でも、ソルディグのこと、そんなふうには見ていないから、安心して。ただの仕事仲間よ」


 そう言って、ユーリは僕の手を握った。けれどその顔には普段にはない影が差していて、僕の不安は増すだけだった。それから二人とも押し黙ってしまう。こんなこと、今までなかった。


 僕らの関係は何かがおかしくなり始めていた。だけど僕には、どうすればいいのか分からない。僕はどうすればいいんだろう。彼女の心がどこにあるのか、分からない。

 ユーリの僕への態度は何も変わっていない。恋人としての温かさも優しさも、今までと同じように感じる。けれどユーリがソルディグのことを語る声の色や、語る時の表情は、僕へのものと似てきていた。ユーリから僕だけがもらっていたものが、他の男にも向けられるようになった。その事実をどう飲み込めばいいのか、分からない。分からなくて、ただ時間だけが過ぎていく。


 そして、僕が愚痴を言ってしまった次の日から、ユーリの帰りはまた少し、遅くなった。

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